21歳のウォーレン・バフェット

ニューヨークのコロンビア大学のビジネススクールで修士号を取得。

バフェットがニューヨークに移る決断をすることに影響を与えたきっかけが2年前にあった。ウォールストリートについて書かれた有名な『賢明なる投資家(原題:The Intelligent Investor)』という本に19歳のときに出会ったのだ。ここで語られている「価値ある投資」の理念が人生を変えた、と彼は語っている。

21歳のスティーブ・ジョブズ

ウォズニアックと簡易な個人向けのコンピューターを開発したが、ヒューレットパッカード、アタリのいずれにも相手にされなかったため2人は資金を集め自分達でこのコンピュータを売り出すことを決意。

6月にApple Iを666.66ドルで販売開始。

21歳の水木しげる

召集令状が届き、ラバウルへ出征。
軍内での鉄拳制裁は日常茶飯事で、特に上官から目を付けられていた水木には「ビンタの王様」というあだ名がついた。
基本的に軍隊生活と馴染めなかった水木だったが、所属していた第2中隊の児玉清三中尉からは、その腕を買われ似顔絵を描く事をよく頼まれていた。
他に下士官の宮一郎軍曹や軍医の砂原勝巳大尉など、親切に接してくれる人物もいた。

出生前の手記には
「毎日五萬も十萬も戦死する時代だ。芸術が何んだ哲学が何んだ。­今は考へる事すらゆるされない時代だ」「吾は­死に面するとも理想を持ちつづけん。吾は如何なる事態となるとも吾であらん事を欲する­」「私の心の底には、絵が救ってくれるかもしれないと言ふ心が常にある。私には­本当の絶望と言ふものはない」
などと書かれていた。

21歳の三浦知良

サンパウロ州のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍。コリンチャンス戦で日本人としてリーグ戦初得点を記録し、格上の人気チーム相手に3-2で勝利するというジャイアント・キリングを起こした。
このときの試合はブラジル全土にテレビ中継されていたために、カズという日本人の名前が広く知れ渡った。
ブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の年間ポジション別ランキングで左ウィングの第3位に選ばれた。

21歳の安室奈美恵

出産のため1年間の産休に入り、育児に専念。この間にベストアルバム『181920』をリリース。同5月19日、長男を出産。12月には復帰シングル「I HAVE NEVER SEEN」をリリース。『第49回NHK紅白歌合戦』では1年ぶりに公の前に登場し、前年と同じく「CAN YOU CELEBRATE?」を歌う。歌唱中、会場からの暖かい声援と拍手に感極まり涙を流した。

21歳の田中角栄

1939年に陸軍騎に入営し、4月より満州国富錦で兵役に就く。
内務班での私的制裁を古兵から受けたが、夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、部隊内の事務や能筆といった技能により、上官に一目置かれるように。

21歳の桜井和寿

11月に小林武史と初対面。後に小林はMr.Childrenとの初対面時を「(雰囲気が)暗いし、演奏も決して上手くは無かった」と回想している。
桜井は「曲の事に関して『こんなにシビアな人は鬼か!』と思ったことも」
と語る。

21歳の赤塚不二夫

プロの漫画家だったつげ義春からの紹介で、描き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビュー。状況した友人石森を手伝う形でトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。
当時は原稿料の前借をして漫画を描く自転車操業状態にあった。将来を悲観して漫画家廃業を考え、新宿のキャバレーの住み込み店員になろうと思った時期もあったが、トキワ荘のリーダー的存在で兄貴分として慕われていた寺田ヒロオに相談。すると寺田から「ちょっと待て。これのある間は、ここにいろ。なくなっても、もし漫画家として売れていなかったら、キャバレーでもどこへでも行けばいい」と現金5万円を渡される(当時の国家公務員初任給は9200円)。またこの時期、石森のおごりで映画を浴びるほど観て、その経験が後の作品に活かされることになった。

21歳のトーマス・エジソン

初めて特許を取得。それは電気投票記録機に関するもので、議会における賛成票と反対票の数を押しボタンで瞬時に集計し、投票にかかる時間を大幅に短縮できる画期的な発明となる筈だった。だが、実際には「少数派の議員による牛歩戦術ができなくなる」という理由で全く採用されなかった。エジソンはこの苦い経験を通して、いくら立派な発明でも人々が喜んでくれなければ何の意味もない事を痛感し、その後は周囲の人々の意見や要望をよく聞いてから発明に取り組むようになったという。

21歳の伊藤博文

公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、8月に自害した来原の葬式に参加、12月に品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加し、山尾庸三と共に塙忠宝[注釈 1]・加藤甲次郎を暗殺するなど、尊王攘夷の志士として活動

21歳の坂本龍馬

1855年

父、八平と死別

八平は、龍馬が江戸に剣術留学のため出立するさいには、忠孝を忘れることなく修行に励み、金銭を費やさない、色情に心を移し国家の大事を疎かにすることのないように、という意味からなる三箇条をうたった『修行中心得大意』を送った。

龍馬が死別に際して詠んだとされる句

感涙とどめず、

遥か江戸の地より拝し、

龍馬かならずこの恩に報うべし、

と天地神明に誓ふ。