松下幸之助の名言・格言

松下幸之助(まつした こうのすけ/1894年11月27日-1989年4月27日)は、和歌山県出身の実業家・発明家・技術者。

日本を代表する電機メーカー「パナソニック」(旧社名:松下電器産業、松下電器製作所、松下電気器具製作所)を一代で築き上げた経営者であり、「経営の神様」とも称されている人物。

松下幸之助の名言・格言

“失敗の多くは、成功するまでにあきらめてしまうところに、原因があるように思われる。最後の最後まで、あきらめてはいけないのである。”

“石の上にも三年という。しかし、三年を一年で習得する努力を怠ってはならない。”

“たとえ平凡で小さなことでも、それを自分なりに深く噛みしめ味わえば大きな体験に匹敵します。”

10歳の松下幸之助

下駄屋を畳んだため、尋常小学校を4年で中退し、単身大阪の宮田火鉢店に丁稚奉公に出される。1904年、9歳のころのことであった。
翌年、奉公先を五代自転車に移した。後のパナレーサー設立のきっかけになった。自転車屋奉公時代、店に来た客にたびたびタバコを買いに行かされた。その際いちいち買いに出かけるより纏め買いして置けば、すぐタバコを出せる上、単価も安くなるため、これを利用して小銭を溜めた。これが丁稚仲間から反感を買い、店主にやめるよう勧められたために纏め買いはやめる。この頃から商才を顕すと共に、独り勝ちは良くないとも気づくようになった。

23歳の松下幸之助

大阪電灯(株)を退社。

自宅で、妻むめのと、その弟の井植歳男(営業担当、後に専務取締役、戦後に三洋電機を創業して独立)、および友人2名の計5人で、同ソケットの製造販売に着手。

新型ソケットの売り上げは芳しくなく、友人2名は幸之助のもとを去ったが、川北電気(現在のパナソニック エコシステムズ)から扇風機の部品を大量に受注したことにより窮地を脱した。

その後、アタッチメントプラグ、二灯用差込みプラグがヒットしたため経営が軌道に乗る。

35歳の松下幸之助

松下電器製作所と改称綱領・信条を制定し、松下電器の基本方針を明示する

キーソケット、電気コタツ発売この年、世界的恐慌となったが、半日勤務、生産半減、給与全額支給とし、従業員を解雇することなく不況を乗り切る

38歳の松下幸之助

1932年を『命知元年』と定めて5月5日に第1回創業記念式を開き、ヘンリー・フォードに倣った『水道哲学』『250年計画』『適正利益・現金正価』を社員に訓示した。

日本無線通信(株)所有のラジオに関する特許を買収し、これを一般に無償公開する。

51歳の松下幸之助

終戦翌日、幹部社員を集め、平和産業への復帰を通じて祖国の再建を呼びかける。続いて8月20日「松下電器全従業員に告ぐ」の特別訓示を行い、難局に処する覚悟を訴える

戦後ただちにGHQによって戦争協力者として公職追放処分を受ける。

52歳の松下幸之助

PHP研究所を設立。
「PHP」とは、「Peace and Happiness through Prosperity」(繁栄によって平和と幸福を)の頭文字をとった語で、「物心両面の繁栄により、平和と幸福を実現していく」という松下幸之助の願いがこめられている。