1498年5月30日~1500年10月末 第3回航海。初めて南アメリカの海岸に到達。
しかし、ハイチ島(サント・ドミンゴ島)の植民地経営においては、植民者の不満や食料不足への対応などに不手際があり、逮捕されて本国に強制送還となった。『サンタ・フェ協定」で認められていた特権の大部分もはく奪された。
1498年5月30日~1500年10月末 第3回航海。初めて南アメリカの海岸に到達。
しかし、ハイチ島(サント・ドミンゴ島)の植民地経営においては、植民者の不満や食料不足への対応などに不手際があり、逮捕されて本国に強制送還となった。『サンタ・フェ協定」で認められていた特権の大部分もはく奪された。
足尾銅山鉱毒事件が起こる。
※栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた公害事件
この事件で衆議院議員で立憲改進党の田中正造が国の責任を追及した際に、陸奥が対応し「質問の趣旨が分からない」と回答する。
※足尾銅山の経営者・古河市兵衛の養子には陸奥の次男がいた
郷土会を発足させる。
郷土会とは各地の郷土の制度や慣習、そして民間伝承などを調査・研究する会で、メンバーには民俗学者で有名な柳田国男がいる。
駐清特命全権公使になる。
家族を連れて北京へ赴く。
公使としては、甲申事変(1884年12月、朝鮮国の独立党が起こしたクーデター)の発生後に天津条約締結に貢献する。
※日本全権・伊藤博文を支える
かつて盟友であった西郷隆盛が九州で反乱を起こす(西南戦争)。
利通は西郷隆盛のもとへ行き説得しようとしたが、周りからの反対で叶わなかった。
結局、西郷隆盛は自害し、政府軍が勝利した。
利通はこの時、西郷隆盛の死を悔やみ「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」と言った。
1856年1月、父トーマスが死去。葬儀に出席せず、墓石も立てなかった。
大坂夏の陣では、真田隊と戦うも反撃にあい後退する。
外務省を依願退職
世界平和建設団事務局に就職。
民放開始に備えた放送法案審議の参議院公聴会で、吉田が商業放送専門家として意見陳述
「日本新聞広告業者協会」の設立に尽力。幹事長に就任
創立50周年記念事業として第1回広告功労者顕彰17人を発表
大蔵大臣を辞任し、自由民主党幹事長に就任。
非武装地帯であったラインラントに軍を進駐させる(ラインラント進駐)。ベルリンオリンピック開催。
当時の最新メディアであったラジオやテレビ、映画などを活用してプロパガンダを広めるなど、メディアの力を重視していた。情報を素早く伝達させるため、ラジオを安値で普及させた(国民ラジオ)。また、これらの一環としてベルリンオリンピックでは、女性監督のレニ・リーフェンシュタールによる2部作の記録映画『オリンピア』を制作させている。
日本ビクターに高柳の弟子と共に入社。自身が中心となりNHK、シャープ、東芝と共同でテレビ放送技術とテレビ受像機を完成させた。
産官学共同でテレビ技術の研究開発を行う団体として組織されたテレビジョン同好会の委員長に就任。
帝国ホテル創立・発起人総代(後に取締役会長)。
大久保利通が暗殺され、1881年には政変で大隈重信が失脚したことで、弥太郎は強力な後援者を失う。大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強める。
1882年には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさだった。共倒れを危惧した政府の仲介で両社は合併を決定。1884年に日本郵船が発足する。
天皇の諮問機関である枢密院開設の際に初代枢密院議長となるために首相を辞任
前年の政変のため、政府主導で設立する予定だった「時事新報」を自ら創刊。創刊されるや否や1,500部全てを売る結果となり、この後、『時事新報』は一定の成功を収めることとなった。