20歳のフローレンス・ナイチンゲール(1840年)

興味をもっとも抱いた学問である数学を極め、「世間に出て活躍したい」と家族に相談する。当時は女性の社会的地位はまだ低く、学問を身につけ一般社会で活躍したいという娘に家族は反対をする。
ナイチンゲールの懇願に根負けし、両親は個人講師をつけて数学を学ぶことを許可する。

20歳のパブロ・ピカソ

雑誌「若い芸術」の編集に関わる。6月、パリで初の個展。「青の時代」の始まり。

親友カサジェマスの自殺を契機に、ピカソは青色を基調とした暗い画面で悲哀に満ちた作品を描きだす。
《死せるカサジェマス》1901年

《自画像》

《うずくまる女性と子供》

梅毒に罹った売春婦たちが多く収容されていたサン・ラザール収容所を、ピカソは特別の関心を持ってよく訪れました。包み込むように子供を抱きかかえ、目を閉じて子供に寄り添う母親と、目を伏せてじっと下方を見つめる子供。その姿に悲しみや絶望感が伝わってきます。不安な母親の気持ちを表すかのように、衣服や背景が青くうねるように表現されています。

20歳の徳川家康

義元の後を継いだ今川氏真と断交して織田信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。一方、将軍足利義輝や北条氏康は松平・今川両氏の和睦を図るが実現しなかった。
翌年には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた

20歳の高杉晋作

師の松陰が安政の大獄で捕らえられると伝馬町獄を見舞って、獄中の師を世話をする。

投獄中の松陰から高杉に送られた死生観に対する手紙の内容。
「死んで自分が不滅の存在になる見込みがあるのなら、いつでも死ぬ道を選ぶべきです。また、生きて、自分が国家の大業をやり遂げることができるという見込みがあるのなら、いつでも生きる道を選ぶべきです。生きるとか死ぬとか…、それは『かたち』にすぎないのであって、そのようなことにこだわるべきではありません。」

藩より命じられて萩に戻る途中で、松陰は10月に処刑される。

長州藩の要職・周布政之助に宛てた手紙で「松陰先生の仇は必ず取ります」と激しい怒りを書き記している。

20歳の安室奈美恵

「CAN YOU CELEBRATE?」はダブルミリオンを突破し、オリコン年間シングルチャート首位を獲得。同時に、邦楽女性ソロアーティスト歴代1位のシングル売上を記録。

10月22日、TRFのダンサー・SAMとの結婚を発表、妊娠3ヶ月であることも明らかにした。

20歳のロバート・キャパ

ユダヤ人排斥が激しくなり母と弟はアメリカへ亡命した。フリードマンもベルリンを脱出しブダペストでヴェレシュ旅行社のカメラマンとなる。翌年にフーク・ブロック通信社の臨時雇いとなる。

その後フランスのパリに拠点を構えたものの、フリードマンの写真はほとんど買ってもらえず、わずかに売れた場合でもひどく安値で、まともに生活できるほどの生活費が得られない状態だった。あまりに困窮したため、同時期にパリに在住していた川添浩史のアパルトマンに入り込む。親しく交流し、彼らに金を借りてライカを買ったという。パリ在住の日本人らと交流し、キャパの恋人であるゲルダが使ったペンネーム「ゲルダ・タロー」は当時パリに在住していた岡本太郎にちなんだものとされる。

20歳の手塚治虫

手塚は描き下ろし単行本の形で長編作品を発表できるようになった。
手塚は忙しくなり、これまでに描き溜めてきた長編を基に、学業の傍ら月に1、2冊は作品を描き上げなければならなくなった。

当初は子供向けを意識したB級映画的な作品であったが、1948年の『地底国の怪人』からは悲劇的な展開も取り入れるようになり、SF、冒険などを題材に作品中でさまざまな試みが行なわれた。
同年末に描かれた『ロストワールド』では様々な立場の人物が絡み合う地球規模の壮大な物語が描かれた。
このロストワールドを見て赤塚不二夫は漫画家を志すようになる。

20歳のタモリ

早稲田大学第二文学部西洋哲学専修へ入学。在学中はモダン・ジャズ研究会に在籍。マイルス・デイヴィスのラッパは泣いているが、お前のラッパは笑っている」などの批評を受け、トランペットは3日でクビ、代わってマネージャー兼司会を担当する。
タモリはこの時期に付けられたニックネーム。
後年にトランペットをテレビで披露。中々の腕前(1986年の映像)。

20歳のカール・マルクス

父ハインリヒが病死。父の死によって、法学で身を立てる意思はますます薄くなり、大学に残って哲学研究に没頭したいという気持ちが強まった。
博士号を得て哲学者になることを望むようになり、古代ギリシャの哲学者エピクロスとデモクリトスの論文の執筆を開始。
しかし、母ヘンリエッテは、一人で7人の子供を養う身の上になってしまったため、長兄マルクスには早く卒業して働いてほしがっていた。しかし、マルクスは、新たな仕送りを要求するばかりだったので、母や姉ゾフィーと金銭をめぐって争うようになり、家族仲は険悪になっていった。

20歳の岩崎弥太郎

江戸遊学で安積艮斎の塾に入塾するが、父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。父の冤罪を訴えたことにより弥太郎も投獄されるが、この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが、後に商業の道に進む機縁となった。

20歳の福澤諭吉

中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし諭吉本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。
大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から「江戸へは行くな」と引き止められ、「大坂で蘭学を学ぶ」よう説得されれ、大坂の中津藩屋敷に居候しながら緒方洪庵の適塾で学ぶ。

20歳の坂本龍馬

1854年

土佐に帰郷。

画家、河田小龍から西洋事情を学ぶ。

河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、後の同志となる近藤長次郎・長岡謙吉らを紹介されている。

また、この時期に徳弘孝蔵の元で砲術とオランダ語を学んでいる。