小村寿太郎の名言・格言

江戸時代から明治時代に活躍した武士、政治家。

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「ことの善意は、その人の決心一つで決まる。」

「事前は滅多に、偉人や天才をこの世に下しせぬ。幾万人、あるいは幾億人に一人か、幾百年あるいは幾千年に一人しかそんな人間はでるものではない。それを書物の上で見て、そんな偉人や天才がごろごろう生まれているように想像する。それは大きな間違いである。」

「日本には、まだ外交はないのだ。真の外交はこれから起こってくるのだ。」

「私の苦労はこれからであります。私の真正の仕事はこれからである。これまではほんの準備にとどまっておりました。」

15歳の小村寿太郎(1870年)

大学南校(東京大学の前身)に入学。

貢進生(各藩から推薦を受け大学南校に入学した学生のこと)に選ばれ大学南校に入学する。
大学南校では5人の学友とともに留学運動を起こし政府に建議書を提出する。

そして、第1回文部省留学生に選ばれアメリカへの留学を果たす。

38歳の小村寿太郎(1893年)

第2次伊藤内閣で外務大臣を務めていた陸奥宗光に認められ清国代理公使となり、清国との交渉に当たった。

また、乙未事件(朝鮮国皇后・閔妃の暗殺事件)の際には、駐韓弁理公使として、在朝鮮ロシア総領事のカール・ヴェーバーと交渉した。

45歳の小村寿太郎(1900年)

清国で起こった義和団事件の際には、講和会議全権として事後処理にあたる。

※義和団事件(庚子事変)とは日清戦争後に生活に苦しんでいた農民らが排外主義を掲げ、外国人や教会を襲った事件。北京の列国大公使館を包囲した。

46歳の小村寿太郎(1901年)

第1次桂内閣で外務大臣に就任。

外務大臣としては日英同盟の締結(1902)や日露戦争後のポーツマス条約(1905)を成功させている。

また、アメリカの実業家であるハリマンが満州での鉄道経営を日米共同経営という提案をしてきた際には、桂太郎総理が共同経営を推す中、寿太郎は反対しアメリカのと共同経営を拒否させた。

56歳の小村寿太郎(1911年)

外務大臣として日米通商航海条約を結ぶ。

幕末以降、日本にとって不平等であった条約を改正するためにアメリカと交渉し、関税自主権を回復した。

また、日露協約や韓国併合でも大きな功績を残した。

しかし、この頃になると結核の病状が悪化し、11月に葉山町の別荘で死去。56歳。
墓所は青山霊園にある。