司馬遼太郎の名言・格言

司馬 遼太郎(しば りょうたろう、1923年(大正12年)8月7日 – 1996年(平成8年)2月12日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家、評論家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。大阪府大阪市生まれ。筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。

産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』など多くがあり、戦国・幕末・明治を扱った作品が多い。『街道をゆく』をはじめとする多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。

司馬遼太郎の名言・格言

男というものは思慮きわまれば、
常識、情勢をもって判断すべきではない。
男たる者の道をもって判断すべきだ。

人間にとって、その人生は作品である。

人間は決して、孤立して生きられるようには、作られていない。

幼少期の司馬遼太郎

1923年8月7日、大阪府大阪市浪速区西神田町(現・塩草)に、薬局を経営する父・福田是定(薬剤師)、母・直枝の次男として生まれた。
兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。乳児脚気のために3歳まで奈良県北葛城郡當麻町(現・葛城市)の母の実家に里子に出されていた。

13歳の司馬遼太郎

私立上宮中学校に進学。入学後の成績は300名中でビリに近く本人も驚いたらしいが、慌てて勉強をしたら二学期には上位20位に入ったという。井伏鱒二の『岩田君のクロ』に感銘を受ける。3年生から松坂屋の横の御蔵跡町の図書館に通うようになる。

19歳の司馬遼太郎

4月に旧制大阪外国語学校(新制大阪外国語大学の前身、現在は大阪大学外国語学部)蒙古語学科に入学。
当時の学生の大半がそうであったように語学が嫌いで、早稲田大学の中国文学に鞍替えしようかと考えたこともあった。しかし読書は依然として好み、ロシア文学や、司馬遷の『史記』を愛読。

22歳の司馬遼太郎

本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。
司馬は「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう? いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」との疑問を持ち、「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐している。佐野での敗戦の体験が、その後の作家生活の原点にあったと考えられる。復員後は直ちに図書館通いを再開する。

25歳の司馬遼太郎

1948年産経新聞社から「外語大卒だから英語くらいできるだろう」と誘われ、英語がまったくできないにもかかわらず「できます」と応じて京都支局に入る。同年11月歌人川田順の失踪事件を取材、「老いらくの恋」という見出しを付け流行語になる

27歳の司馬遼太郎

金閣寺放火事件の記事を書いた。このころ京都の寺社周り・京都大学を担当し、その結果京都の密教寺院で不思議な僧侶らと出会ったり、石山合戦のときの本願寺側の兵糧方の子孫の和菓子屋と話したり、京都大学で桑原武夫、貝塚茂樹らの京都学派の学者たちに取材したりするなど、後年の歴史小説やエッセイを執筆する種となる出会いがあった。その後文化部長、出版局次長を務めた。

大阪大学医局の薬剤師と見合いにより最初の結婚

49歳の司馬遼太郎

明治の群像を描いた『坂の上の雲』の産経新聞での連載が終了。
また、幕末を扱った『世に棲む日日』で吉川英治文学賞。初期のころから示していた密教的なものへの関心は『空海の風景』に結実されている。「国民的作家」の名が定着し始めるようになり、歴史を俯瞰して一つの物語と見る「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観を築いて人気を博した。

57歳の司馬遼太郎

1980年代は下記の作品・人物をあつかった作品を発表。
『項羽と劉邦』(1980年、新潮社) – 楚漢戦争。連載時の題名は「漢の風 楚の雨」
『ひとびとの跫音』(1981年、中央公論社) – 正岡忠三郎(子規の妹正岡律の養子)
『菜の花の沖』(1982年、文藝春秋) – 高田屋嘉兵衛
『箱根の坂』(1984年、講談社) – 北条早雲
『韃靼疾風録』(1987年、中央公論社) – ヌルハチ、ホンタイジほか。明から清への興亡を、平戸藩出身の桂庄助の目を通し描く。

1986年には財団法人大阪国際児童文学館理事長に就任。

73歳の司馬遼太郎

1996年「街道をゆく 濃尾参州記」の取材を終え、連載中の2月10日深夜に吐血して倒れ、国立大阪病院(現:国立病院機構大阪医療センター)に入院。
2日後の2月12日腹部大動脈瘤破裂のため死去した。
72歳没。死去した国立大阪病院は、奇しくも『花神』で書いた大村益次郎が死去した場所であった。絶筆「濃尾参州記」は未完となった。親族・関係者による密葬を経て、3月10日に大阪市内のホテルで「司馬遼太郎さんを送る会」が行われ、約3,000人が参列。

森鴎外の名言・格言

森鴎外(1862-1922)日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、医者・陸軍軍医、官僚。

森鴎外の名言・格言

苦難が大きすぎて、
自分ひとりの力で支え切れない場合には、
家族から身を隠して一人で泣きなさい。

そして、苦悩を涙とともに洗い流したら、
頭をあげて胸を張り、
家族を激励するために家に戻りなさい。

日の光を借りて照る、
大いなる月であるよりも、

自ら光を放つ
小さな灯火でありなさい。

みんなが誉めるのは、
おべっかである。

六割が誉めて
四割がけなすのが人材である。

世間の人は虎を、
性欲の虎を放し飼いにして、
どうかすると、

その背に乗って
逃亡の谷に落ちる。

己の感情は
己の感情である。

己の思想も
己の思想である。

天下に一人も
それを理解してくれなくたって、
己はそれに安じなくてはならない。

人に言うべき事は、
最後まできちんと言うがよい。

全部は言いたくないことだったら、
むしろ初めから黙っていよ。

一匹の人間が
持っているだけの精力を、
一事に傾注すると、

実際、不可能な事は
なくなるかも知れない。

現在は
過去と未来との間に、
画した一線である。

この線の上に生活がなくては、
生活はどこにもないのである。

武士はいざという時には
飽食はしない。

しかしまた空腹で
大切な事に取り掛かることもない。

一々のことばを、
はかりの皿に載せるような事をせずに、

なんでも言いたい事を言うのは、
われわれ青年の特権だね。

足ることを知ることこそが、
幸福である。

10歳の森鴎外

廃藩置県等をきっかけに10歳で父と上京。墨田区曳舟に住む。東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備え、ドイツ語を習得するため、同年10月に私塾の進文学社に入った。その際に通学の便から、政府高官の親族・西周の邸宅に一時期寄食した。翌年、残る家族も住居などを売却して津和野を離れ、父が経営する医院のある北千住に移り住む

12歳の森鴎外

1874年東京医学校(のちの東京大学医学部)予科に入学
実年齢より2歳多く偽り、12歳で入学(新入生71名。のちに首席で卒業する三浦守治も同時期に入学)
定員30人の本科に進むと、ドイツ人教官たちの講義を受ける一方で、佐藤元長に就いて漢方医書を読み、また文学を乱読し、漢詩・漢文に傾倒し、和歌を作っていた。
語学に堪能な鷗外は、後年、執筆に当たって西洋語を用いるとともに、中国の故事などをちりばめた。

19歳の森鴎外

19歳で本科を卒業。卒業席次が8番であり、大学に残って研究者になる道は閉ざされたものの、文部省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。仲間たちの進めもあり12月陸軍軍医になる。

22歳の森鴎外

衛生学を修めるとともにドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。4年留学した鷗外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、同人誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。
最初の1年を過ごしたライプツィヒで、生活に慣れていない鷗外を助けたのが、昼食と夜食をとっていたフォーゲル家の人達であった。
また、黒衣の女性ルチウスなど下宿人たちとも親しくつきあい、ライプツィヒ大学ではホフマンなど良き師と同僚に恵まれた。演習を観るために訪れたザクセン王国の首都ドレスデンでは、ドレスデン美術館のアルテ・マイスター絵画館にも行き、ラファエロの「システィーナの聖母」を鑑賞した。

26歳の森鴎外

1888年9月帰国、陸軍大学校教官の兼補を命じられた。帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在一月(1888年9月12日 – 10月17日)ほどで離日する出来事があり、小説「舞姫」の素材の一つとなった[18]。後年、文通をするなど、その女性を生涯忘れることは無かったとされる

27歳の森鴎外

外国文学などの翻訳を手始めに(「即興詩人」「ファウスト」などが有名)、熱心に評論的啓蒙活動をつづけた。
読売新聞の付録に「小説論」を発表し、さらに同日の読売新聞から、弟の三木竹二とともにカルデロンの戯曲「調高矣津弦一曲」(原題:サラメヤの村長)を共訳して随時発表した。
その翻訳戯曲を高く評価したのが徳富蘇峰であり、8月に蘇峰が主筆をつとめる民友社の雑誌『国民之友』夏期文芸付録に、訳詩集「於母影」を発表した。その「於母影」は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた。また「於母影」の原稿料50円をもとに、竹二など同人たちと日本最初の評論中心の専門誌『しがらみ草紙』を創刊(日清戦争の勃発により59号で廃刊)

32歳の森鴎外

日清戦争勃発により軍医として従軍。11月に大連に上陸。
翌年の下関条約の調印後、5月に近衛師団つきの従軍記者・正岡子規が帰国の挨拶のため、第2軍兵站部軍医部長の鷗外を訪ねた。
清との戦争が終わったものの、鷗外は日本に割譲された台湾での勤務を命じられており、5月22日に宇品港に着き(心配する家族を代表して訪れた弟の竹二と面会)、2日後には初代台湾総督の樺山資紀等とともに台湾に向かった。4か月ほどの台湾勤務を終え、10月4日に帰京。