25歳の司馬遼太郎

1948年産経新聞社から「外語大卒だから英語くらいできるだろう」と誘われ、英語がまったくできないにもかかわらず「できます」と応じて京都支局に入る。同年11月歌人川田順の失踪事件を取材、「老いらくの恋」という見出しを付け流行語になる