大隈重信の名言・格言

江戸時代から大正時代に活躍した武士、政治家、教育者。

第8・17代内閣総理大臣。参議兼大蔵大臣、外務大臣、農商務大臣、内務大臣などを歴任。

「佐賀の七賢人」の1人。

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早稲田大学の創設者で初代総長。

「諸君は必ず失敗する。成功もあるかもしれませんけど、成功より失敗が多い。失敗に落胆しなさるな。失敗に打ち勝たねばならぬ。」

「人間が生きるのは、社会の利益のために存在するということだ。ただ生きているのではつまらない」

「幾多の失敗を重ねたが、しかし恐縮はせぬ。失敗はわが師なり。失敗はわが大いなる進歩の一部なり。」

「学問は脳、仕事は腕、身を動かすは足である。しかし、卑しくも大成を期せんには、先ずこれらすべてを統ぶる意志の大いなる力がいる。これは勇気である。」

16歳の大隈重信(1854年)

16歳頃になると、『草隠』を基とした教育方針に疑問を持つようになる。
※『草隠』とは佐賀藩に伝わる武士道の精神を説いたもの

重信は学友とともに藩校の改革を訴え、翌年には南北騒動を起こし退学処分に処される。

この頃には藩校の教諭・枝吉神陽から国学を学び、江藤新平らと尊皇派の「義祭同盟」に参加する。

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27歳の大隈重信(1865年)

長崎に副島種臣とともに英学塾「致遠館」を設立する。

校長をオランダ人宣教師グイド・フルベッキとし、自らは副島とともに教頭格となった。
また、自らもフルベッキにより英語を学び、聖書やアメリカ独立宣言を勉強した。

この頃には尊皇派として活動を始める。

30歳の大隈重信(1868年)

明治維新がなされると、徴士参与職と外国事務局判事に任ぜられる。

キリスト教禁令についてイギリス公使のハリー・パークスと交渉する。
この時、パークスの「信者を解放し、信教の自由を認めよ」という抗議に、31歳の重信は「国際法で禁止されている内政干渉だ」と反論、さらに「キリスト教(とくに欧州)は戦乱の歴史である」と続け、今の日本で急速なキリスト教解放をすると混乱が起きると主張しパークスを説得した。

36歳の大隈重信(1874年)

オーストリア=ハンガリー帝国でウィーン万国博覧会が開催。

日本の公式初参加となったこの万博で、重信は博覧会事務局の総裁を務めた。
日本は神社や日本庭園を造営、浮世絵や工芸品を展示した。

大久保利通とは対立していたものの、征韓論論争や西南戦争(1877)の祭には大久保利通についた。
※大久保政権下では財務を担当し「大隈財政」と呼ばれた

43歳の大隈重信(1881年)

太政官に統計院を設立し初代院長となる。

自由民権運動に同調し早期の憲法公布と国会の開設を説いた。
※憲法ではイギリス式の議院内閣制を支持し、ドイツ帝国憲法を支持する伊藤博文と対立する。

10月には伊藤ら薩長勢と対立し参議を罷免された(明治十四年政変)。

60歳の大隈重信(1898年)

板垣退助らと力を合わせて憲政党を結成し、内閣総理大臣に就任する。
※憲政党とは大隈の進歩党と板垣の自由党が合流した党
※薩長出身以外から初の総理大臣となった

しかし、旧進歩党と旧自由党の間で対立や文相の後任を巡っての対立などにより4ヶ月で総辞職。
※大隈は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いた

70歳の大隈重信(1908年)

日本野球史上、初めての始球式を行った。

11月22日に戸塚球場で開催された米大リーグ選抜vs早稲田大学の親善試合で総長として始球式を行った。
この時、早稲田大学の1番バッターであった山脇正治選手が打席についていたが、大隈重信の投げたボールはストライクゾーンを大きく外れた。
すると、山脇選手は早稲田大学の創設者で総長でもある大隈重信に恥はかかせられないと思い、わざと空振りをした。
これ以降、1番打者は始球式の時には投手に敬意を表すために空振りをするようになった。

76歳の大隈重信(1914年)

シーメンス事件で辞職した山本権兵衛に代わり、76歳で総理大臣となる(第二次大隈内閣)。

7月に第一次世界大戦が起こると、中国大陸の権益確保のためにドイツ軍に宣戦布告した。
また、中華民国に対して対華21ヶ条要求を出した。