18歳のカール・マルクス

政府による大学監視の目は厳しく、学生団体も政治的な話は避けるのが一般的で決闘ぐらいしかすることはなかったという。マルクスも貴族の学生と一度決闘して左目の上に傷を受けたことがあるという。しかも一般的だったサーベルを使っての決闘ではなく、ピストルでもって決闘したようである。
全体的に素行不良な学生だったらしく、酔っぱらって狼藉を働いたとされて一日禁足処分を受けたり、上記の決闘の際にピストル不法所持で警察に一時勾留されたりもしている(警察からはピストルの出所について背後関係を調べられたが、特に政治的な背後関係はないとの調査結果が出ている)。こうした生活で浪費も激しかったようだ。

夏に帰郷した時に貴族の娘イェーニと婚約

10月にベルリン大学に転校。ベルリン大学は厳格をもって知られており、ボン大学で遊び歩くマルクスにもっとしっかり法学を勉強してほしいと願う父の希望での転校(マルクス自身は、イェニーと疎遠になると考えて、この転校に乗り気でなかったという)