源頼朝の名言・格言

平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武士、政治家。

鎌倉幕府の初代征夷大将軍。

「自分の身を重々しく、気長に心を保つようにし、軽率な行動はすることなく、力のなさそうな的を見ても侮らず、冷静にじっくりと計画を練るようにせよ。」

「大きな野望をかなえようと考えている者は、こまkなことを咎めることをせず、ささいなことを取り立てて問題にしないのである。」

「今は天下が始まろうとしている次期であり、それがばぜ必要とされているのかの根本的な理由を、深く突き詰めて考えるべきである。」

「合戦の時は、諸国の住民の気持ちを大切にする必要がある。」

9歳の源頼朝(1156年)

保元の乱が起こる。
※保元の乱とは朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し戦った政変

この戦いで、父の源義朝は後白河天皇側につき勝利する(味方には平清盛もいた)。
一方、祖父の源為義は崇徳上皇側につき負け、義朝によって斬首される。

12歳の源頼朝(1159年)

上西門院(統子内親王の院号)ならびに二条天皇の蔵人(秘書的存在)となる。

平治の乱が起こる。
※平治の乱とは後白河上皇の家臣(院近臣)間の対立(平氏vs源氏)によって起こった政変。

この戦いで、源氏は敗れ父・兄弟とともに東国へ逃げる。
逃げる途中で離ればなれになり父は謀殺、次兄は傷の悪化で死亡、長兄は捕らえられ処刑される。
一方、頼朝は近江国(現 滋賀県)で捕らえられるが、平清盛の養母・池禅尼の助命嘆願によって処刑は免れ伊豆国へ流された。

33歳の源頼朝(1180年)

後白河法皇の皇子・以仁王から平家追討の令旨(命令書)が届く。

京都の宇治で以仁王が敗死したことで、頼朝はしばらく動かなかったが、平家が源氏追討を企てたことで挙兵を決意する。

しかし、相模国真鶴(現 神奈川県小田原市)で平家方に敗れ、安房国(千葉県南部)に逃れた。

安房国へ逃れたものの、房総半島に勢力を持っていた上総氏や千葉氏を配下にし、さらに武蔵国でも配下を増やすと鎌倉へ向かう。

そして、平維盛(清盛の孫)を富士川の戦いで破った。

さらに、全国各地の源氏が平家打倒のため挙兵する。

42歳の源頼朝(1189年)

奥州藤原氏を討伐。

6月に奥州藤原氏のもとへ逃れていた源義経の首を取るように圧力をかけ、藤原泰衡は源義経の屋敷を襲撃した。

源義経の首を確認した頼朝は7月に奥州藤原氏討伐を開始し、9月には藤原泰衡の首が頼朝の元へ届けられた。