25歳の高杉晋作

京都では薩摩藩と会津藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が追放される。1月、晋作は脱藩して京都へ潜伏する。
桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、
脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。7月、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、久坂玄瑞は自害した。

8月、4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきた。晋作はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、取り下げさせることに成功した(古事記を暗誦して有耶無耶にしたと言われる)。

これは清国の見聞を経た晋作が「領土の期限付租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している。

10月、下関で大敗した長州藩では保守派が台頭する。晋作は福岡に逃れる。