35歳のオスカー・シンドラー

クラクフのゲットーは解体され、ユダヤ人たちは、クラクフ郊外のプワシュフ強制収容所へ移送された。

シンドラーは、残忍な強制収容所所長の親衛隊大尉アーモン・ゲートが、彼の飲み仲間でもあったことから、彼の工場にユダヤ人労働者のための小屋を建てさせてくれるようにと説得した。
この秘密交渉で、彼はそのユダヤ人労働者に比較的快適な生活条件を提供し、貧弱な栄養状態を補ってやることが出来るようになった。このための食糧は、シンドラーがすべて闇の市場で調達してきた。収容所の親衛隊の警備兵たちは、工場の敷地内への立ち入りは禁止されたのである。

シンドラーのユダヤ人救済において大きな力となったのは、彼の工場が“軍需工場”ということでポーランド占領のドイツ軍司令部からも特別の格付けを承認されていたことである。
労働者が工場の生産ラインに不可欠だと主張することで、雇用者が絶滅収容所へ移送される危険がせまった時にも特例措置を働きかけた。