23歳の手塚治虫

『鉄腕アトム』(1952年 – )の前身となる『アトム大使』を『少年』(光文社)に連載する。
漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。教授からも医者になるよりも漫画家になるようにと忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める。
もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)