32歳の大久保利通(1862年)

島津久光の側近として京都の政局に介入する。

この時に公家の岩倉具視に会い公武合体を目指すようになる。

主な動きとしては、一橋慶喜(後の徳川慶喜)の将軍後見職(将軍の補佐役)ならびに福井藩主・松平慶永の政事総裁職(大老に相当する役職)への就任を進めた。

生麦事件が起こる。