37歳の大久保利通(1867年)

5月に四候会議の開催を西郷隆盛と計画する。
※四候は島津久光・松平慶永(前越前藩主)・伊達宗城(前宇和島藩主)・山内容堂(前土佐藩主)

この会議は徳川慶喜によって頓挫され、利通は公武合体路線から武力倒幕路線へ舵を切る。

この時に土佐藩の後藤象二郎や浪人の坂本龍馬らと将軍職の廃止・新政府の樹立を目指す盟約を結んだが、考えの違いから短い間で破綻となった。

11月に徳川慶喜が大政奉還を果たすと、利通らの武力倒幕は中止となったが、岩倉具視らとともに王政復古の大号令を実行した。

小御所会議では徳川慶喜の辞官納地(官職を辞し土地を天皇に返す)を主張した。