11歳の手塚治虫

小学5年生の頃には長編漫画「支那の夜」を完成。同作品は、仲間内のみならず学校の教師の間でも話題になるほどであり、以後教師からも漫画を描くことを黙認されるようになった。
この時期に、同級生の石原実(大阪淀屋橋石原時計店・現社長)と親しくなり、彼の影響を受けて昆虫や科学、天文学に興味を持つようになる。手塚家の広い庭は昆虫の宝庫であり、また周囲の田園地帯にも虫が豊富にいて、昆虫採集には最適の環境だったことから、趣味に対し深みを持たせた。友人から借りた平山修次郎『原色千種昆蟲図譜』を読み、甲虫のオサムシの存在を知り、それにちなみ、この時期からペンネームとして「手塚治虫」を使い始めた。1950年頃までは、「治虫」はそのまま「おさむし」と読ませていた