長崎海軍伝習所に入学。
※幕府が海軍士官養成のために設立した学校。
長崎海軍伝習所では、カッテンディーケ(オランダの海軍軍人)やポンペ(オランダの海軍軍医)のもとで機関学や化学を学ぶ。
長崎海軍伝習所に入学。
※幕府が海軍士官養成のために設立した学校。
長崎海軍伝習所では、カッテンディーケ(オランダの海軍軍人)やポンペ(オランダの海軍軍医)のもとで機関学や化学を学ぶ。
海軍伝習所の卒業後は、江戸にある築地軍艦操練所(幕府が設置した海軍士官の養成機関)の教授となる。
また、この頃にジョン万次郎のもとで英語を学ぶ。
オランダへ留学する。
当初は幕府の命でアメリカへ留学することになっていたが、当時のアメリカは南北戦争の真っ最中であったため、オランダに変更になった。
オランダでは船舶運用術や砲術、国際法を学んだ。
戦争を観戦武官として見学。
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(プロイセン・オーストリア連合vsデンマーク王国)にプロイセン・オーストリア軍の観戦武官として見学する。
この後にはデンマーク軍の戦線も見学する。
また、フランスが幕府に対して軍艦の建造・購入を提案してきた際には、フランス海軍と交渉した。
3月にオランダから帰還する。
また、オランダ留学生の仲間である林研海の妹・たつと結婚する。
戊辰戦争の勃発。
武揚は幕府方として参戦し、大坂城から江戸城への撤退を指揮した。
徳川慶喜が新政府軍への恭順を図る中、武揚は徹底抗戦を主張した。
しかし、江戸城の無血開城(4月)や奥羽越列藩同盟の崩壊などもあり、旧幕府軍は次第に劣勢になっていく。
武揚ならびに旧幕府軍は北上し、蝦夷・箱館の五稜郭に籠城し新政府軍を迎え撃つ(箱館戦争)も、1869年6月27日に降伏した。
※箱館戦争では新撰組副長・土方歳三も戦死している
開拓使として北海道に赴く。
箱館戦争での敗北後、武揚は東京へ護送され投獄される。
榎本の処罰に対して木戸孝允た長州藩は厳罰を求めるが、黒田清隆・福沢諭吉らの助命によって2年間の投獄で住んだ。
以後、武揚は明治政府で働くことになり、最初の仕事は黒田清隆が次官を務めていた北海道開拓使であった。
駐露特命全権公使に任命される。
前年には代理としてロシア帝国との樺太の国境について交渉し、翌年の5月にはロシア帝国の外務大臣・アレクサンドル・ゴルチャコフと樺太・千島交換条約を締結した。
また、日本で初の海軍中将にも任命される。
外務大輔(現在の外務次官)になる。
駐清特命全権公使になる。
家族を連れて北京へ赴く。
公使としては、甲申事変(1884年12月、朝鮮国の独立党が起こしたクーデター)の発生後に天津条約締結に貢献する。
※日本全権・伊藤博文を支える
第1次伊藤内閣で逓信大臣(郵便や通信を管轄する逓信省のトップ)に就任。
※逓信大臣は黒田内閣(1888年発足)でも務める
旧幕臣の子弟に奨学金を支給するために徳川育英会を設立する。
大日本帝国憲法の発布式で儀典掛長を務める。
また、文部大臣・森有礼が暗殺されると逓信大臣から文部大臣に就任する。
第1次山県内閣では文部大臣に留任する。
また、明治天皇より道徳教育の基準策定を命じられていたが、取り組まなかったため更迭される。
足尾銅山鉱毒事件の発生。
この問題に対しては農商務大臣として田中正造や被害農民と面談する。
大隈重信と相談をし鉱毒調査委員会を設置した(1897)
盟友であった黒田清隆が亡くなると、葬儀委員会を務めた。
10月26日に腎臓病で死去
江戸時代から大正時代に活躍した武士、政治家、教育者。
第8・17代内閣総理大臣。参議兼大蔵大臣、外務大臣、農商務大臣、内務大臣などを歴任。
「佐賀の七賢人」の1人。
早稲田大学の創設者で初代総長。
「諸君は必ず失敗する。成功もあるかもしれませんけど、成功より失敗が多い。失敗に落胆しなさるな。失敗に打ち勝たねばならぬ。」
「人間が生きるのは、社会の利益のために存在するということだ。ただ生きているのではつまらない」
「幾多の失敗を重ねたが、しかし恐縮はせぬ。失敗はわが師なり。失敗はわが大いなる進歩の一部なり。」
「学問は脳、仕事は腕、身を動かすは足である。しかし、卑しくも大成を期せんには、先ずこれらすべてを統ぶる意志の大いなる力がいる。これは勇気である。」
3月11日に肥前国佐賀城下会所小路(現 佐賀県佐賀市水ヶ江)で生まれる。
父は佐賀藩士の大隈信保で家柄は上級武士。
7歳の時に藩校の弘道館に入学する。
16歳頃になると、『草隠』を基とした教育方針に疑問を持つようになる。
※『草隠』とは佐賀藩に伝わる武士道の精神を説いたもの
重信は学友とともに藩校の改革を訴え、翌年には南北騒動を起こし退学処分に処される。
この頃には藩校の教諭・枝吉神陽から国学を学び、江藤新平らと尊皇派の「義祭同盟」に参加する。
蘭学寮と弘道館を合併し自らが教授となる
一方、藩政にも顔を出すようになり、長州藩への協力ならびに江戸幕府と長州藩の調停を藩に進めるなどした。
長崎に副島種臣とともに英学塾「致遠館」を設立する。
校長をオランダ人宣教師グイド・フルベッキとし、自らは副島とともに教頭格となった。
また、自らもフルベッキにより英語を学び、聖書やアメリカ独立宣言を勉強した。
この頃には尊皇派として活動を始める。
副島とともに脱藩し京都へ向かう。
徳川慶喜に大政奉還を進言しようとするが、途中で捕縛され佐賀藩へ送還、謹慎処分となる。
明治維新がなされると、徴士参与職と外国事務局判事に任ぜられる。
キリスト教禁令についてイギリス公使のハリー・パークスと交渉する。
この時、パークスの「信者を解放し、信教の自由を認めよ」という抗議に、31歳の重信は「国際法で禁止されている内政干渉だ」と反論、さらに「キリスト教(とくに欧州)は戦乱の歴史である」と続け、今の日本で急速なキリスト教解放をすると混乱が起きると主張しパークスを説得した。
会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理ならびに新貨条例を制定し金融行政にも携わる。
大蔵大輔(大蔵次官)として鉄道や電信の建設し工部省を開設した。
伊藤博文と相談し富岡製糸場の設立を決めた。
5月に大蔵省事務総裁に就任し、10月には参議兼大蔵卿(大蔵大臣)に就任する。
オーストリア=ハンガリー帝国でウィーン万国博覧会が開催。
日本の公式初参加となったこの万博で、重信は博覧会事務局の総裁を務めた。
日本は神社や日本庭園を造営、浮世絵や工芸品を展示した。
大久保利通とは対立していたものの、征韓論論争や西南戦争(1877)の祭には大久保利通についた。
※大久保政権下では財務を担当し「大隈財政」と呼ばれた
太政官に統計院を設立し初代院長となる。
自由民権運動に同調し早期の憲法公布と国会の開設を説いた。
※憲法ではイギリス式の議院内閣制を支持し、ドイツ帝国憲法を支持する伊藤博文と対立する。
10月には伊藤ら薩長勢と対立し参議を罷免された(明治十四年政変)。
3月に親友の小野梓と立憲改進党を結成。
この時、尾崎行雄(「憲政の神様」と呼ばれる)や犬養毅(後に29代総理大臣となる)が加わる。
10月、小野梓らと東京専門学校(後の早稲田大学)を開設。
敵対していた伊藤博文によって外務大臣に任命され入閣する(第一次伊藤内閣)。
※伊藤博文が大隈重信を選んだ理由は不平等条約を改正するため
右翼団体・玄洋社の来島恒喜による爆弾襲撃で右脚を失う。
この時に外務大臣を辞職する。
第二次松方内閣で再び外務大臣になるが、薩摩勢と対立して辞職。
板垣退助らと力を合わせて憲政党を結成し、内閣総理大臣に就任する。
※憲政党とは大隈の進歩党と板垣の自由党が合流した党
※薩長出身以外から初の総理大臣となった
しかし、旧進歩党と旧自由党の間で対立や文相の後任を巡っての対立などにより4ヶ月で総辞職。
※大隈は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いた
政界を引退し、早稲田大学総長へ就任。
文化事業に努め、ヨーロッパ文献の日本語訳事業や南極探検隊後援会長へ就任し
日本野球史上、初めての始球式を行った。
11月22日に戸塚球場で開催された米大リーグ選抜vs早稲田大学の親善試合で総長として始球式を行った。
この時、早稲田大学の1番バッターであった山脇正治選手が打席についていたが、大隈重信の投げたボールはストライクゾーンを大きく外れた。
すると、山脇選手は早稲田大学の創設者で総長でもある大隈重信に恥はかかせられないと思い、わざと空振りをした。
これ以降、1番打者は始球式の時には投手に敬意を表すために空振りをするようになった。
第一次護憲運動が起こると政治家に復帰する。
※護憲運動とは、藩閥政治に対して明治憲法による立憲主義思想に基づく民主的な政治を目指す動きのこと
シーメンス事件で辞職した山本権兵衛に代わり、76歳で総理大臣となる(第二次大隈内閣)。
7月に第一次世界大戦が起こると、中国大陸の権益確保のためにドイツ軍に宣戦布告した。
また、中華民国に対して対華21ヶ条要求を出した。
内務大臣・大浦兼武の汚職事件や元老の圧迫により10月に総辞職。
辞職したときの年齢は78歳6ヶ月で歴代総理の中で最高年齢であった。
早稲田にある私邸で亡くなる。享年85歳。死因は胆石症。
日比谷公園で国民葬が挙行され、約30万人の一般市民が参列した。
江戸時代から明治時代に活躍した武士、政治家。
「維新の三傑」の1人(他に西郷隆盛と木戸孝允)。
「彼は彼、我は我でいこうよ。」
「目的を達成する為には、人間対人間のうじうじした関係に沈み込んでいたら、物事は進まない。そういうものを振り切って、前に進む。」
「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」
「国家創業の折には、難事は常に起こるものである。そこに自分ひとりでも国家を維持するほどの器がなければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、できはしない。」
8月10日に薩摩国鹿児島城下高麗町(鹿児島県鹿児島市高麗町)で生まれる。
父は薩摩藩士・大久保利世。家格は下級武士。幼名は正袈裟(しょうけさ)。
幼少期は下加治屋町に移り住み、藩校では西郷隆盛らと共に学問を学んだ。
胃が弱く武術はできなかったが、学問では読書や討論を得意とし藩校の中では抜きん出ていた。
16歳の時に薩摩藩記録所の書役助(かきやくすけ)として働き、下級武士ながら藩内で頭角を現す。
20歳の時に薩摩藩でお家騒動が起こる(お由羅騒動)。
※薩摩藩主を巡って島津斉彬と島津久光の両方の家臣が対立
このお家騒動に父とともに巻き込まれ謹慎処分に処される。
謹慎中の生活は苦しく借金しながら生活をした。
この時の借金依頼の書類が現在も残っている。
西郷隆盛が支援したとも言われている。
島津斉彬が薩摩藩主になると謹慎を解かれる。
記録所に復帰をし、後に御蔵役につく。
西郷隆盛と共に徒目付(かちめつけ)につき、精忠組としても活動する。
※徒目付とは城内の警備や役人の監察をする職
※精忠組とは西郷隆盛を盟主とした組織。
大老・井伊直弼を暗殺する計画を立てるが薩摩藩主によって抑制される
島津斉彬が死去し藩主が島津茂久になると、茂久の父・島津久光(当時は忠教)が実権を握る。
西郷隆盛が失脚。
島津久光に初めて会う。
久光へ近づくために、久光が好きだった囲碁を習ったと言われている。
勘定方小頭格につくと、翌年には御小納戸役につき藩政に関わるようになる。
※小納戸とは殿様の身の回りの世話をする者
島津久光の側近として京都の政局に介入する。
この時に公家の岩倉具視に会い公武合体を目指すようになる。
主な動きとしては、一橋慶喜(後の徳川慶喜)の将軍後見職(将軍の補佐役)ならびに福井藩主・松平慶永の政事総裁職(大老に相当する役職)への就任を進めた。
生麦事件が起こる。
薩英戦争の勃発。
大久保は薩英戦争の作戦指揮にあたっていた。
「利通」に改名する。
第二次長州征伐が起きた際には、西郷隆盛とともに薩摩藩の出兵を拒否する。
5月に四候会議の開催を西郷隆盛と計画する。
※四候は島津久光・松平慶永(前越前藩主)・伊達宗城(前宇和島藩主)・山内容堂(前土佐藩主)
この会議は徳川慶喜によって頓挫され、利通は公武合体路線から武力倒幕路線へ舵を切る。
この時に土佐藩の後藤象二郎や浪人の坂本龍馬らと将軍職の廃止・新政府の樹立を目指す盟約を結んだが、考えの違いから短い間で破綻となった。
11月に徳川慶喜が大政奉還を果たすと、利通らの武力倒幕は中止となったが、岩倉具視らとともに王政復古の大号令を実行した。
小御所会議では徳川慶喜の辞官納地(官職を辞し土地を天皇に返す)を主張した。
参議に就任する。
中央政権体勢確立のために版籍奉還や廃藩置県を行う。
大蔵卿(現在の財務大臣)に就任し、岩倉使節団の副使として米国と欧州を外遊する。
征韓論論争で西郷隆盛や板垣退助と対立したため、西郷ら征韓派を失脚させる(明治六年政変)。
「富国強兵」をスローガンとし殖産興業政策を推進。
内務省の設置(自ら初代内務卿となる)、学制・地租改正・徴兵制の実施、官営工場の開設(富岡製糸場など)、屯田兵の派遣など
佐賀の乱が起こると自ら兵を送り瓦解させる。
台湾出兵が行われると、戦後処理のため全権弁理大臣として清国へ行く。
清との間に互換条款と互換憑単を締結する。
かつて盟友であった西郷隆盛が九州で反乱を起こす(西南戦争)。
利通は西郷隆盛のもとへ行き説得しようとしたが、周りからの反対で叶わなかった。
結局、西郷隆盛は自害し、政府軍が勝利した。
利通はこの時、西郷隆盛の死を悔やみ「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」と言った。
馬車で皇居へ向かう途中に紀尾井坂で暗殺される。
暗殺された際に、西郷隆盛の手紙が2通あったといわれている。
ナポレオン・ボナパルト
18世紀後半から19世紀前半にかけて活躍したフランスの軍人・政治家。(英語:Napoleon Bonaparte)
フランス第一帝政の皇帝。
「じっくり考えろ。しかし、行動する時が来たらなら、考えるのを止めて進め。」
「リーダーとは「希望を配る人」のことだ。」
「勝利は、わが迅速果敢な行動にあり。」
「勝利は、もっとも忍耐強い人にもたらされる。」
「有能の士は、どんな足枷をはめられていようとも飛躍する。」
8月15日にフランス王国領コルシカ島のアジャクシオで生まれる。
父のカルロ・マリア・ブオナパルテと母のマリア・レティツィア・ラモリーノの4男として生まれる。
もともとコルシカ島はジェノヴァ共和国(現在はイタリアの都市)の島で、島民はイタリア風の生活をしていたが、ナポレオンが生まれる2ヶ月前にフランス王国に売却された。