憲兵隊に拘束される。
日本の敗色が濃厚となると終戦策として近衛上奏文に協力する。
しかし、この行為が軍部のスパイに見つかり憲兵に拘束される。
その後、敗戦した日本はGHQの占領下に入るが、GHQからは「反軍部」として信用された。
戦後は東久邇宮内閣と幣原内閣で外務大臣になる。
憲兵隊に拘束される。
日本の敗色が濃厚となると終戦策として近衛上奏文に協力する。
しかし、この行為が軍部のスパイに見つかり憲兵に拘束される。
その後、敗戦した日本はGHQの占領下に入るが、GHQからは「反軍部」として信用された。
戦後は東久邇宮内閣と幣原内閣で外務大臣になる。
内閣総理大臣(第1次吉田内閣)に就任。
首相となった吉田茂は戦争からの復興に尽力する。
日本国憲法の施行。
第23回衆議院議員総選挙では高知県全県区より日本自由党から立候補しトップ当選する。
一方、与党は日本社会党となり、吉田は総辞職する。
第2次吉田内閣を組閣。
与党の日本社会党と連立を組んでいた民主党から民主クラブ(田中角栄ら)が離党すると、日本自由党と合併し民主自由党を結成。
吉田は民主自由党の総裁となり総理大臣となった。
第3次吉田内閣を組閣。
第24回衆議院議員総選挙で圧勝する。
サンフランシスコ平和条約の締結。
この条約締結は吉田の政治生命をかけたものであった。
この条約により、日本と連合国の間にあった戦争状態を終結させ、日本はGHQの占領から独立する。
演説の最後は
「われわは国際社会における新時代を待望し、国際連合憲章の前文にうたつてあるような平和と協調の時代を待望するものであります。われわれは平和、正義、進歩、自由に挺身する国々の間に伍して、これらの目的のために全力をささげることを誓うものであります。われわれは今後日本のみならず、全人類が協調と進歩の恵沢を享受せんことを祈るものであります。」
という内容で締めくくる。演説内容の全文はコチラ
またサンフランシスコ講和会議には白洲次郎が全権団顧問として随行。吉田首相の受諾演説の原稿が、GHQに対する美辞麗句を並べ、かつ英語で書かれていたことに激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、受諾演説原稿は急遽日本語に変更された。
また、アメリカとは日米安保条約(旧安保)を結び、日本国内に米軍の駐留を認めた。
内閣総理大臣を辞職。
アメリカからの独立後、吉田は第4次・第5次と内閣を組閣する。
しかし、日本民主党の鳩山一郎との対立や汚職事件など支持率をなくす。
そして、12月7日に内閣を総辞職する。
政界を引退。
内閣総辞職後、池田勇人(後の総理大臣)の自由民主党への入党(1957)や皇學館大学の総長に就任(1962)するが、1963年に政界を引退。
死去。戦後唯一の国葬となり、青山霊園に埋葬後、久保山墓地(神奈川県横浜市)に改葬された。
江戸時代から明治時代にかけて活躍した日本の武士、化学者、政治家。
逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任。
●樺太・千島交換条約締結後にはロシアの実情を知るためにシベリアを横断した。
●海外殖民にも興味を持っており、主にメキシコへの殖民を行った。
●富山県で発見された隕石から日本刀を作らせて皇太子(後の大正天皇)に献上した。
榎本武揚の名言
「人為の階級こそ差はあれども、その教育に対するに至りては同じく共に責任を負うものなり。同じ釜の飯を食うものなり。」
「振り返ってみて五稜郭のときの苦労を思えば、外務大臣の仕事などどれほどのものでもない。」
「新政府軍恐るるに足らず。軍略をもって勝ちを制したい。」
「王政復古は日本の幸福であり私も希望するものだ。しかし、明治政府はその題目に公明正大であっても実態はそうではない。新政府軍は徳川慶喜に朝敵の汚名を着せ、ひどい扱いをし、つには城を没収し、蓄えを奪い、先祖の墓まで廃し、さらに領地を政府のものとし、慶喜は自宅を持つことさえできない。これは政府が有力諸藩の意のままになっているからであり、本当の王政とはいえない。」
10月5日に江戸下谷御徒町柳川横町(現在の東京都台東区浅草橋)で榎本武規の次男として生まれる。幼名は釜次郎。
父・榎本武規は伊能忠敬のもとで「大日本沿海輿地全図」の作成にも関わっている。
幼少の頃は近所に住んでいた田辺石庵のもとで儒学を学ぶ。
15歳の時に昌平坂学問所に入学。
※幕府直轄の教学機関
1853年に修了するも成績は1番低かった。
蝦夷地を巡視する。
箱館奉行であった堀利煕のもとで蝦夷箱館に行き、蝦夷地や樺太を巡視した。
長崎海軍伝習所に入学。
※幕府が海軍士官養成のために設立した学校。
長崎海軍伝習所では、カッテンディーケ(オランダの海軍軍人)やポンペ(オランダの海軍軍医)のもとで機関学や化学を学ぶ。
海軍伝習所の卒業後は、江戸にある築地軍艦操練所(幕府が設置した海軍士官の養成機関)の教授となる。
また、この頃にジョン万次郎のもとで英語を学ぶ。
オランダへ留学する。
当初は幕府の命でアメリカへ留学することになっていたが、当時のアメリカは南北戦争の真っ最中であったため、オランダに変更になった。
オランダでは船舶運用術や砲術、国際法を学んだ。
戦争を観戦武官として見学。
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(プロイセン・オーストリア連合vsデンマーク王国)にプロイセン・オーストリア軍の観戦武官として見学する。
この後にはデンマーク軍の戦線も見学する。
また、フランスが幕府に対して軍艦の建造・購入を提案してきた際には、フランス海軍と交渉した。
3月にオランダから帰還する。
また、オランダ留学生の仲間である林研海の妹・たつと結婚する。
戊辰戦争の勃発。
武揚は幕府方として参戦し、大坂城から江戸城への撤退を指揮した。
徳川慶喜が新政府軍への恭順を図る中、武揚は徹底抗戦を主張した。
しかし、江戸城の無血開城(4月)や奥羽越列藩同盟の崩壊などもあり、旧幕府軍は次第に劣勢になっていく。
武揚ならびに旧幕府軍は北上し、蝦夷・箱館の五稜郭に籠城し新政府軍を迎え撃つ(箱館戦争)も、1869年6月27日に降伏した。
※箱館戦争では新撰組副長・土方歳三も戦死している
開拓使として北海道に赴く。
箱館戦争での敗北後、武揚は東京へ護送され投獄される。
榎本の処罰に対して木戸孝允た長州藩は厳罰を求めるが、黒田清隆・福沢諭吉らの助命によって2年間の投獄で住んだ。
以後、武揚は明治政府で働くことになり、最初の仕事は黒田清隆が次官を務めていた北海道開拓使であった。
駐露特命全権公使に任命される。
前年には代理としてロシア帝国との樺太の国境について交渉し、翌年の5月にはロシア帝国の外務大臣・アレクサンドル・ゴルチャコフと樺太・千島交換条約を締結した。
また、日本で初の海軍中将にも任命される。
外務大輔(現在の外務次官)になる。
駐清特命全権公使になる。
家族を連れて北京へ赴く。
公使としては、甲申事変(1884年12月、朝鮮国の独立党が起こしたクーデター)の発生後に天津条約締結に貢献する。
※日本全権・伊藤博文を支える
第1次伊藤内閣で逓信大臣(郵便や通信を管轄する逓信省のトップ)に就任。
※逓信大臣は黒田内閣(1888年発足)でも務める
旧幕臣の子弟に奨学金を支給するために徳川育英会を設立する。
大日本帝国憲法の発布式で儀典掛長を務める。
また、文部大臣・森有礼が暗殺されると逓信大臣から文部大臣に就任する。
第1次山県内閣では文部大臣に留任する。
また、明治天皇より道徳教育の基準策定を命じられていたが、取り組まなかったため更迭される。
足尾銅山鉱毒事件の発生。
この問題に対しては農商務大臣として田中正造や被害農民と面談する。
大隈重信と相談をし鉱毒調査委員会を設置した(1897)
盟友であった黒田清隆が亡くなると、葬儀委員会を務めた。
10月26日に腎臓病で死去
江戸時代から大正時代に活躍した武士、政治家、教育者。
第8・17代内閣総理大臣。参議兼大蔵大臣、外務大臣、農商務大臣、内務大臣などを歴任。
「佐賀の七賢人」の1人。
早稲田大学の創設者で初代総長。
「諸君は必ず失敗する。成功もあるかもしれませんけど、成功より失敗が多い。失敗に落胆しなさるな。失敗に打ち勝たねばならぬ。」
「人間が生きるのは、社会の利益のために存在するということだ。ただ生きているのではつまらない」
「幾多の失敗を重ねたが、しかし恐縮はせぬ。失敗はわが師なり。失敗はわが大いなる進歩の一部なり。」
「学問は脳、仕事は腕、身を動かすは足である。しかし、卑しくも大成を期せんには、先ずこれらすべてを統ぶる意志の大いなる力がいる。これは勇気である。」
3月11日に肥前国佐賀城下会所小路(現 佐賀県佐賀市水ヶ江)で生まれる。
父は佐賀藩士の大隈信保で家柄は上級武士。
7歳の時に藩校の弘道館に入学する。
16歳頃になると、『草隠』を基とした教育方針に疑問を持つようになる。
※『草隠』とは佐賀藩に伝わる武士道の精神を説いたもの
重信は学友とともに藩校の改革を訴え、翌年には南北騒動を起こし退学処分に処される。
この頃には藩校の教諭・枝吉神陽から国学を学び、江藤新平らと尊皇派の「義祭同盟」に参加する。
蘭学寮と弘道館を合併し自らが教授となる
一方、藩政にも顔を出すようになり、長州藩への協力ならびに江戸幕府と長州藩の調停を藩に進めるなどした。
長崎に副島種臣とともに英学塾「致遠館」を設立する。
校長をオランダ人宣教師グイド・フルベッキとし、自らは副島とともに教頭格となった。
また、自らもフルベッキにより英語を学び、聖書やアメリカ独立宣言を勉強した。
この頃には尊皇派として活動を始める。
副島とともに脱藩し京都へ向かう。
徳川慶喜に大政奉還を進言しようとするが、途中で捕縛され佐賀藩へ送還、謹慎処分となる。
明治維新がなされると、徴士参与職と外国事務局判事に任ぜられる。
キリスト教禁令についてイギリス公使のハリー・パークスと交渉する。
この時、パークスの「信者を解放し、信教の自由を認めよ」という抗議に、31歳の重信は「国際法で禁止されている内政干渉だ」と反論、さらに「キリスト教(とくに欧州)は戦乱の歴史である」と続け、今の日本で急速なキリスト教解放をすると混乱が起きると主張しパークスを説得した。
会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理ならびに新貨条例を制定し金融行政にも携わる。
大蔵大輔(大蔵次官)として鉄道や電信の建設し工部省を開設した。
伊藤博文と相談し富岡製糸場の設立を決めた。
5月に大蔵省事務総裁に就任し、10月には参議兼大蔵卿(大蔵大臣)に就任する。
オーストリア=ハンガリー帝国でウィーン万国博覧会が開催。
日本の公式初参加となったこの万博で、重信は博覧会事務局の総裁を務めた。
日本は神社や日本庭園を造営、浮世絵や工芸品を展示した。
大久保利通とは対立していたものの、征韓論論争や西南戦争(1877)の祭には大久保利通についた。
※大久保政権下では財務を担当し「大隈財政」と呼ばれた
太政官に統計院を設立し初代院長となる。
自由民権運動に同調し早期の憲法公布と国会の開設を説いた。
※憲法ではイギリス式の議院内閣制を支持し、ドイツ帝国憲法を支持する伊藤博文と対立する。
10月には伊藤ら薩長勢と対立し参議を罷免された(明治十四年政変)。
3月に親友の小野梓と立憲改進党を結成。
この時、尾崎行雄(「憲政の神様」と呼ばれる)や犬養毅(後に29代総理大臣となる)が加わる。
10月、小野梓らと東京専門学校(後の早稲田大学)を開設。
敵対していた伊藤博文によって外務大臣に任命され入閣する(第一次伊藤内閣)。
※伊藤博文が大隈重信を選んだ理由は不平等条約を改正するため
右翼団体・玄洋社の来島恒喜による爆弾襲撃で右脚を失う。
この時に外務大臣を辞職する。
第二次松方内閣で再び外務大臣になるが、薩摩勢と対立して辞職。
板垣退助らと力を合わせて憲政党を結成し、内閣総理大臣に就任する。
※憲政党とは大隈の進歩党と板垣の自由党が合流した党
※薩長出身以外から初の総理大臣となった
しかし、旧進歩党と旧自由党の間で対立や文相の後任を巡っての対立などにより4ヶ月で総辞職。
※大隈は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いた
政界を引退し、早稲田大学総長へ就任。
文化事業に努め、ヨーロッパ文献の日本語訳事業や南極探検隊後援会長へ就任し
日本野球史上、初めての始球式を行った。
11月22日に戸塚球場で開催された米大リーグ選抜vs早稲田大学の親善試合で総長として始球式を行った。
この時、早稲田大学の1番バッターであった山脇正治選手が打席についていたが、大隈重信の投げたボールはストライクゾーンを大きく外れた。
すると、山脇選手は早稲田大学の創設者で総長でもある大隈重信に恥はかかせられないと思い、わざと空振りをした。
これ以降、1番打者は始球式の時には投手に敬意を表すために空振りをするようになった。
第一次護憲運動が起こると政治家に復帰する。
※護憲運動とは、藩閥政治に対して明治憲法による立憲主義思想に基づく民主的な政治を目指す動きのこと
シーメンス事件で辞職した山本権兵衛に代わり、76歳で総理大臣となる(第二次大隈内閣)。
7月に第一次世界大戦が起こると、中国大陸の権益確保のためにドイツ軍に宣戦布告した。
また、中華民国に対して対華21ヶ条要求を出した。
内務大臣・大浦兼武の汚職事件や元老の圧迫により10月に総辞職。
辞職したときの年齢は78歳6ヶ月で歴代総理の中で最高年齢であった。
早稲田にある私邸で亡くなる。享年85歳。死因は胆石症。
日比谷公園で国民葬が挙行され、約30万人の一般市民が参列した。
江戸時代から明治時代に活躍した武士、政治家。
「維新の三傑」の1人(他に西郷隆盛と木戸孝允)。
「彼は彼、我は我でいこうよ。」
「目的を達成する為には、人間対人間のうじうじした関係に沈み込んでいたら、物事は進まない。そういうものを振り切って、前に進む。」
「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」
「国家創業の折には、難事は常に起こるものである。そこに自分ひとりでも国家を維持するほどの器がなければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、できはしない。」
8月10日に薩摩国鹿児島城下高麗町(鹿児島県鹿児島市高麗町)で生まれる。
父は薩摩藩士・大久保利世。家格は下級武士。幼名は正袈裟(しょうけさ)。
幼少期は下加治屋町に移り住み、藩校では西郷隆盛らと共に学問を学んだ。
胃が弱く武術はできなかったが、学問では読書や討論を得意とし藩校の中では抜きん出ていた。
16歳の時に薩摩藩記録所の書役助(かきやくすけ)として働き、下級武士ながら藩内で頭角を現す。
20歳の時に薩摩藩でお家騒動が起こる(お由羅騒動)。
※薩摩藩主を巡って島津斉彬と島津久光の両方の家臣が対立
このお家騒動に父とともに巻き込まれ謹慎処分に処される。
謹慎中の生活は苦しく借金しながら生活をした。
この時の借金依頼の書類が現在も残っている。
西郷隆盛が支援したとも言われている。
島津斉彬が薩摩藩主になると謹慎を解かれる。
記録所に復帰をし、後に御蔵役につく。
西郷隆盛と共に徒目付(かちめつけ)につき、精忠組としても活動する。
※徒目付とは城内の警備や役人の監察をする職
※精忠組とは西郷隆盛を盟主とした組織。
大老・井伊直弼を暗殺する計画を立てるが薩摩藩主によって抑制される
島津斉彬が死去し藩主が島津茂久になると、茂久の父・島津久光(当時は忠教)が実権を握る。
西郷隆盛が失脚。
島津久光に初めて会う。
久光へ近づくために、久光が好きだった囲碁を習ったと言われている。
勘定方小頭格につくと、翌年には御小納戸役につき藩政に関わるようになる。
※小納戸とは殿様の身の回りの世話をする者