67歳の吉田茂(1945年)

憲兵隊に拘束される。

日本の敗色が濃厚となると終戦策として近衛上奏文に協力する。
しかし、この行為が軍部のスパイに見つかり憲兵に拘束される。

その後、敗戦した日本はGHQの占領下に入るが、GHQからは「反軍部」として信用された。

戦後は東久邇宮内閣と幣原内閣で外務大臣になる。

73歳の吉田茂(1951年)

サンフランシスコ平和条約の締結。

この条約締結は吉田の政治生命をかけたものであった。

この条約により、日本と連合国の間にあった戦争状態を終結させ、日本はGHQの占領から独立する。

演説の最後は

「われわは国際社会における新時代を待望し、国際連合憲章の前文にうたつてあるような平和と協調の時代を待望するものであります。われわれは平和、正義、進歩、自由に挺身する国々の間に伍して、これらの目的のために全力をささげることを誓うものであります。われわれは今後日本のみならず、全人類が協調と進歩の恵沢を享受せんことを祈るものであります。」

という内容で締めくくる。演説内容の全文はコチラ

またサンフランシスコ講和会議には白洲次郎が全権団顧問として随行。吉田首相の受諾演説の原稿が、GHQに対する美辞麗句を並べ、かつ英語で書かれていたことに激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、受諾演説原稿は急遽日本語に変更された。

また、アメリカとは日米安保条約(旧安保)を結び、日本国内に米軍の駐留を認めた。

榎本武揚の名言・格言

江戸時代から明治時代にかけて活躍した日本の武士、化学者、政治家。

逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任。
●樺太・千島交換条約締結後にはロシアの実情を知るためにシベリアを横断した。
●海外殖民にも興味を持っており、主にメキシコへの殖民を行った。
●富山県で発見された隕石から日本刀を作らせて皇太子(後の大正天皇)に献上した。

榎本武揚の名言
「人為の階級こそ差はあれども、その教育に対するに至りては同じく共に責任を負うものなり。同じ釜の飯を食うものなり。」

「振り返ってみて五稜郭のときの苦労を思えば、外務大臣の仕事などどれほどのものでもない。」

「新政府軍恐るるに足らず。軍略をもって勝ちを制したい。」

「王政復古は日本の幸福であり私も希望するものだ。しかし、明治政府はその題目に公明正大であっても実態はそうではない。新政府軍は徳川慶喜に朝敵の汚名を着せ、ひどい扱いをし、つには城を没収し、蓄えを奪い、先祖の墓まで廃し、さらに領地を政府のものとし、慶喜は自宅を持つことさえできない。これは政府が有力諸藩の意のままになっているからであり、本当の王政とはいえない。」

幼少期の榎本武揚

10月5日に江戸下谷御徒町柳川横町(現在の東京都台東区浅草橋)で榎本武規の次男として生まれる。幼名は釜次郎。

父・榎本武規は伊能忠敬のもとで「大日本沿海輿地全図」の作成にも関わっている。

幼少の頃は近所に住んでいた田辺石庵のもとで儒学を学ぶ。

28歳の榎本武揚(1864年)

戦争を観戦武官として見学。

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(プロイセン・オーストリア連合vsデンマーク王国)にプロイセン・オーストリア軍の観戦武官として見学する。
この後にはデンマーク軍の戦線も見学する。

また、フランスが幕府に対して軍艦の建造・購入を提案してきた際には、フランス海軍と交渉した。

32歳の榎本武揚(1868年)

戊辰戦争の勃発。

武揚は幕府方として参戦し、大坂城から江戸城への撤退を指揮した。
徳川慶喜が新政府軍への恭順を図る中、武揚は徹底抗戦を主張した。
しかし、江戸城の無血開城(4月)や奥羽越列藩同盟の崩壊などもあり、旧幕府軍は次第に劣勢になっていく。

武揚ならびに旧幕府軍は北上し、蝦夷・箱館の五稜郭に籠城し新政府軍を迎え撃つ(箱館戦争)も、1869年6月27日に降伏した。
※箱館戦争では新撰組副長・土方歳三も戦死している

36歳の榎本武揚(1872年)

開拓使として北海道に赴く。

箱館戦争での敗北後、武揚は東京へ護送され投獄される。
榎本の処罰に対して木戸孝允た長州藩は厳罰を求めるが、黒田清隆・福沢諭吉らの助命によって2年間の投獄で住んだ。

以後、武揚は明治政府で働くことになり、最初の仕事は黒田清隆が次官を務めていた北海道開拓使であった。

38歳の榎本武揚(1874年)

駐露特命全権公使に任命される。

前年には代理としてロシア帝国との樺太の国境について交渉し、翌年の5月にはロシア帝国の外務大臣・アレクサンドル・ゴルチャコフと樺太・千島交換条約を締結した。

また、日本で初の海軍中将にも任命される。

53歳の榎本武揚(1889年)

大日本帝国憲法の発布式で儀典掛長を務める。

また、文部大臣・森有礼が暗殺されると逓信大臣から文部大臣に就任する。

第1次山県内閣では文部大臣に留任する。
また、明治天皇より道徳教育の基準策定を命じられていたが、取り組まなかったため更迭される。

大隈重信の名言・格言

江戸時代から大正時代に活躍した武士、政治家、教育者。

第8・17代内閣総理大臣。参議兼大蔵大臣、外務大臣、農商務大臣、内務大臣などを歴任。

「佐賀の七賢人」の1人。

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早稲田大学の創設者で初代総長。

「諸君は必ず失敗する。成功もあるかもしれませんけど、成功より失敗が多い。失敗に落胆しなさるな。失敗に打ち勝たねばならぬ。」

「人間が生きるのは、社会の利益のために存在するということだ。ただ生きているのではつまらない」

「幾多の失敗を重ねたが、しかし恐縮はせぬ。失敗はわが師なり。失敗はわが大いなる進歩の一部なり。」

「学問は脳、仕事は腕、身を動かすは足である。しかし、卑しくも大成を期せんには、先ずこれらすべてを統ぶる意志の大いなる力がいる。これは勇気である。」

16歳の大隈重信(1854年)

16歳頃になると、『草隠』を基とした教育方針に疑問を持つようになる。
※『草隠』とは佐賀藩に伝わる武士道の精神を説いたもの

重信は学友とともに藩校の改革を訴え、翌年には南北騒動を起こし退学処分に処される。

この頃には藩校の教諭・枝吉神陽から国学を学び、江藤新平らと尊皇派の「義祭同盟」に参加する。

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27歳の大隈重信(1865年)

長崎に副島種臣とともに英学塾「致遠館」を設立する。

校長をオランダ人宣教師グイド・フルベッキとし、自らは副島とともに教頭格となった。
また、自らもフルベッキにより英語を学び、聖書やアメリカ独立宣言を勉強した。

この頃には尊皇派として活動を始める。

30歳の大隈重信(1868年)

明治維新がなされると、徴士参与職と外国事務局判事に任ぜられる。

キリスト教禁令についてイギリス公使のハリー・パークスと交渉する。
この時、パークスの「信者を解放し、信教の自由を認めよ」という抗議に、31歳の重信は「国際法で禁止されている内政干渉だ」と反論、さらに「キリスト教(とくに欧州)は戦乱の歴史である」と続け、今の日本で急速なキリスト教解放をすると混乱が起きると主張しパークスを説得した。

36歳の大隈重信(1874年)

オーストリア=ハンガリー帝国でウィーン万国博覧会が開催。

日本の公式初参加となったこの万博で、重信は博覧会事務局の総裁を務めた。
日本は神社や日本庭園を造営、浮世絵や工芸品を展示した。

大久保利通とは対立していたものの、征韓論論争や西南戦争(1877)の祭には大久保利通についた。
※大久保政権下では財務を担当し「大隈財政」と呼ばれた

43歳の大隈重信(1881年)

太政官に統計院を設立し初代院長となる。

自由民権運動に同調し早期の憲法公布と国会の開設を説いた。
※憲法ではイギリス式の議院内閣制を支持し、ドイツ帝国憲法を支持する伊藤博文と対立する。

10月には伊藤ら薩長勢と対立し参議を罷免された(明治十四年政変)。

60歳の大隈重信(1898年)

板垣退助らと力を合わせて憲政党を結成し、内閣総理大臣に就任する。
※憲政党とは大隈の進歩党と板垣の自由党が合流した党
※薩長出身以外から初の総理大臣となった

しかし、旧進歩党と旧自由党の間で対立や文相の後任を巡っての対立などにより4ヶ月で総辞職。
※大隈は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いた

70歳の大隈重信(1908年)

日本野球史上、初めての始球式を行った。

11月22日に戸塚球場で開催された米大リーグ選抜vs早稲田大学の親善試合で総長として始球式を行った。
この時、早稲田大学の1番バッターであった山脇正治選手が打席についていたが、大隈重信の投げたボールはストライクゾーンを大きく外れた。
すると、山脇選手は早稲田大学の創設者で総長でもある大隈重信に恥はかかせられないと思い、わざと空振りをした。
これ以降、1番打者は始球式の時には投手に敬意を表すために空振りをするようになった。

76歳の大隈重信(1914年)

シーメンス事件で辞職した山本権兵衛に代わり、76歳で総理大臣となる(第二次大隈内閣)。

7月に第一次世界大戦が起こると、中国大陸の権益確保のためにドイツ軍に宣戦布告した。
また、中華民国に対して対華21ヶ条要求を出した。

大久保利通の名言・格言

江戸時代から明治時代に活躍した武士、政治家。
「維新の三傑」の1人(他に西郷隆盛と木戸孝允)。

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「彼は彼、我は我でいこうよ。」

「目的を達成する為には、人間対人間のうじうじした関係に沈み込んでいたら、物事は進まない。そういうものを振り切って、前に進む。」

「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」

「国家創業の折には、難事は常に起こるものである。そこに自分ひとりでも国家を維持するほどの器がなければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、できはしない。」

幼少期の大久保利通

8月10日に薩摩国鹿児島城下高麗町(鹿児島県鹿児島市高麗町)で生まれる。

父は薩摩藩士・大久保利世。家格は下級武士。幼名は正袈裟(しょうけさ)。

幼少期は下加治屋町に移り住み、藩校では西郷隆盛らと共に学問を学んだ。
胃が弱く武術はできなかったが、学問では読書や討論を得意とし藩校の中では抜きん出ていた。

20歳の大久保利通(1850年)

20歳の時に薩摩藩でお家騒動が起こる(お由羅騒動)。
※薩摩藩主を巡って島津斉彬と島津久光の両方の家臣が対立

このお家騒動に父とともに巻き込まれ謹慎処分に処される。

謹慎中の生活は苦しく借金しながら生活をした。
この時の借金依頼の書類が現在も残っている。

西郷隆盛が支援したとも言われている。

27歳の大久保利通(1857年)

西郷隆盛と共に徒目付(かちめつけ)につき、精忠組としても活動する。
※徒目付とは城内の警備や役人の監察をする職
※精忠組とは西郷隆盛を盟主とした組織。

大老・井伊直弼を暗殺する計画を立てるが薩摩藩主によって抑制される

30歳の大久保利通(1860年)

島津久光に初めて会う。

久光へ近づくために、久光が好きだった囲碁を習ったと言われている。

勘定方小頭格につくと、翌年には御小納戸役につき藩政に関わるようになる。
※小納戸とは殿様の身の回りの世話をする者