32歳の大久保利通(1862年)

島津久光の側近として京都の政局に介入する。

この時に公家の岩倉具視に会い公武合体を目指すようになる。

主な動きとしては、一橋慶喜(後の徳川慶喜)の将軍後見職(将軍の補佐役)ならびに福井藩主・松平慶永の政事総裁職(大老に相当する役職)への就任を進めた。

生麦事件が起こる。

37歳の大久保利通(1867年)

5月に四候会議の開催を西郷隆盛と計画する。
※四候は島津久光・松平慶永(前越前藩主)・伊達宗城(前宇和島藩主)・山内容堂(前土佐藩主)

この会議は徳川慶喜によって頓挫され、利通は公武合体路線から武力倒幕路線へ舵を切る。

この時に土佐藩の後藤象二郎や浪人の坂本龍馬らと将軍職の廃止・新政府の樹立を目指す盟約を結んだが、考えの違いから短い間で破綻となった。

11月に徳川慶喜が大政奉還を果たすと、利通らの武力倒幕は中止となったが、岩倉具視らとともに王政復古の大号令を実行した。

小御所会議では徳川慶喜の辞官納地(官職を辞し土地を天皇に返す)を主張した。

43歳の大久保利通(1873年)

征韓論論争で西郷隆盛や板垣退助と対立したため、西郷ら征韓派を失脚させる(明治六年政変)。

「富国強兵」をスローガンとし殖産興業政策を推進。
内務省の設置(自ら初代内務卿となる)、学制・地租改正・徴兵制の実施、官営工場の開設(富岡製糸場など)、屯田兵の派遣など

47歳の大久保利通(1877年)

かつて盟友であった西郷隆盛が九州で反乱を起こす(西南戦争)。

利通は西郷隆盛のもとへ行き説得しようとしたが、周りからの反対で叶わなかった。
結局、西郷隆盛は自害し、政府軍が勝利した。

利通はこの時、西郷隆盛の死を悔やみ「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」と言った。

エイブラハム・リンカーンの名言・格言

エイブラハム・リンカーン (Lincoln,Abraham)

アメリカ合衆国の第16代大統領。
南北戦争を終結させ、奴隷解放宣言を発布して「奴隷解放の父」と呼ばれた。
アメリカが生んだもっとも偉大な政治家であり、卓越した文学的才能の持ち主であり、広い世界観と深い道徳性を兼ね備えた人物。

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リンカーンの残した名言
Those who deny freedom to others deserve it not for themselves.
「他人の自由を否定する者は、自らも自由になるに値しない」

I am not concerned that you have fallen – I am concerned that you arise.
「あなたが転んでしまったことを心配しているのではない。そこからどう立ち上がるかが心配なのだ」

I walk slowly, but I never walk backward.
「私の歩みは遅い、しかし歩んだ道を後戻りすることはない」

It’s not the years in your life that count. It’s the life in your years.
「何歳まで生きたかは重要ではない。いかにして生きたかが重要だ」

I will prepare and someday my chance will come.
「準備しておこう。チャンスはいずれ来る」

That some achieve great success, is proof to all that others can achieve it as well. 「誰かが成功を収めることができたということは、他の人にも同じ事ができるということの証明である」

25歳のエイブラハム・リンカーン(1834年)

1834年8月、イリノイ州議会議員選挙にホイッグ党から再び立候補し、最多票を得て当選。
その後3回再選され、8年間務める。

このころから、州議会議員の仕事と並行して、弁護士となるべく独学で法律の勉強を本格的に進める

28歳のエイブラハム・リンカーン(1837年)

1837年スプリングフィールドで、州内で指折りの法律事務所「ジョン・トッド・スチュアート」に入所。弁護士活動も始める。
当時、すでに政治家としては州のホイッグ党を率いる神童的指導者として評判を得ていた

同僚たちのリンカーン評
「彼は悲しげな顔つきをした男で、陰気で、メランコリックだった」(ウィリアム・ハーンドン)
「持って生まれたメランコリーで、意気消沈の発作に陥りやすかった」(O・H・ブラウニング)
「メランコリーが常態で、時にそれが際立ち、時に極めて穏やかになったが、消え去ることはなく、一抹の悲哀感が残った。それを消し去るのが笑顔で、これは頻繁に見られた」(ジェイムズ・リーメン二世)

以降4年間、ジョシュア・スピードという青年と同居していた。

41歳のエイブラハム・リンカーン(1850年)

1850年2月1日 次男エデイが3歳で死去、

このころ「巡回裁判」のため、イリノイ州中を出張。スプリングフィールドに居たのはわずか100日という。

この時期のリンカーンの人生の主要な特徴は「政治家と弁護士の二足の草鞋で重労働をこなした」ことだとされる。

45歳のエイブラハム・リンカーン(1854年)

1854年1月23日、後にリンカーンの好敵手となるダグラス上院議員が、「カンザス・ネブラスカ準州法案」を連邦議会に提出。
5月30日、大差で同法が成立(北緯36度30分以北の準州に奴隷制を住民主権に委ねる法律が施行されることになった)
7月6日、奴隷制への対処を念頭に「共和党」がミシガン州ジャクソンで結成される。
10月16日、「ペオリアの演説」で、奴隷制の拡大に反対する演説を行う。

49歳のエイブラハム・リンカーン(1858年)

1858年6月16日、イリノイ州の共和党大会で連邦上院議員の共和党候補者として選出。その際、「分かれたる家は立つこと能わず」と演説。北部の有力政治家として初めて連邦の南北分裂に言及した

中間選挙において、奴隷制維持論者の民主党ダグラスと選挙戦を戦うことになる。全米の注目を集める。8月から10月まで計7回の立会演説会を実施。奴隷制を徹底的に批判し、その拡大に歯止めをかけるべきと主張した。選挙結果は当選しなかったものの、共和党の有力政治家として全国的に知られる存在となった

51歳のエイブラハム・リンカーン(1860年)

1860年2月27日、ニューヨークのクーパー・インスティテュートで「南部の現存する奴隷制度について、穏健な態度と方法で奴隷制の拡大を毅然として阻止すべきだ」と演説。演説内容は新聞に全文掲載され、東部における名声を不動のものとした。
5月16日の共和党全国大会において合衆国大統領候補に指名される。
11月6日、大統領選挙が実施され、民主党ダグラス候補に大差をつけて当選を果たす
12月20日、サウスカロライナ州が連邦から離脱し、翌年にかけて計13州が連邦を脱退

52歳のエイブラハム・リンカーン(1861年)

1861年2月4日、南部諸州が「アメリカ連合国(通称「南部連合」)を結成
3月4日、第16代大統領に就任。
4月12日、南部連合軍の攻撃により、南北戦争始まる
7月21日、第一次ブルランの戦いで、北軍は壊滅的な敗北を喫する。以降、南軍優勢で戦局が推移する

53歳のエイブラハム・リンカーン(1862年)

1862年2月16日、ドネルソン要塞の戦いで、北軍のグラント将軍が初の大勝利を得る。その後一進一退が続く
7月22日、奴隷解放宣言の最初の草案を閣議に提出
9月17日、アンティータムの戦いで、北軍が南軍リー将軍に勝利
9月22日、奴隷解放予備宣言を布告

54歳のエイブラハム・リンカーン(1863年)

1863年1月1日、奴隷解放宣言を発布。
7月1日、ゲティスバーグの戦い始まる(7月4日に南軍リー将軍が退却、北軍の勝利となった) ※南北戦争最大の激戦で、両軍の戦死傷者は5万人以上に上った
11月19日、ゲティスバーグに国立墓地を作る式典において、戦没将兵にささげる演説を行い、アメリカの新しい自由の誕生と民主政治の根本を簡潔に格調高く表現した不朽の名演説として語り継がれている
12月8日、南部反乱州に対する「大赦と再建の宣言」を布告

 

「ゲティスバーグの演説」

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It is for us the living, rather, to be dedicated here to the unfinished work which they who fought here have thus far so nobly advanced. It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us – that from these honored dead we take increased devotion to that cause for which they gave the last full measure of devotion – that we here highly resolve that these dead shall not have died in vain – that this nation, under God, shall have a new birth of freedom – and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.

「ここで戦った人々が気高くもここまで勇敢に推し進めてきた未完の事業にここでささげるべきは、むしろ生きているわれわれなのである。われわれの目の前に残された偉大な事業にここで身をささげるべきは、むしろわれわれ自身なのである。―それは、名誉ある戦死者たちが、最後の全力を尽くして身命をささげた偉大な大義に対して、彼らの後を受け継いで、われわれが一層の献身を決意することであり、これらの戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、われわれがここで固く決意することである。(米国大使館訳)」

55歳のエイブラハム・リンカーン(1864年)

1864年3月9日、ユリシーズ・S・グラント将軍を連邦軍総司令官に任命。これにより3年に及ぶ内戦を決定的勝利の方向に導くことができた
9月2日、北軍、南部の中心地アトランタを占領し、北軍の勝利はもはや動かしがたいものに。
11月8日、大統領選挙の結果、圧倒的多数の支持を受けて再選

56歳のエイブラハム・リンカーン(1865年)

1865年2月3日、ハンプトン・ローズ会議(非公式な和平会議)がモンロー砦で開催。物別れに終わる
3月4日 2期目の大統領に就任
4月9日、南軍のリー将軍、アポマトックスで北軍のグラント将軍に降伏。南北戦争終結
4月14日、観劇中のワシントン市内フォード劇場において、南部連合の熱狂的支持者であった役者ジョン・ウィルクス・ブースに狙撃され、翌朝死去

リンカーンが発布した奴隷解放宣言は、大統領の戦時特権に基づいて大統領個人の責任においてなされたもので、法令に基づく一般的恒久的なものではなかった。立法措置は、1865年リンカーン死去後の合衆国憲法修正第13条の奴隷制廃止条項によってなされた

犬養毅の名言・格言

江戸時代から昭和時代に活躍した日本の政治家。

第29代内閣総理大臣。文部大臣、逓信大臣、外務大臣、内務大臣を歴任。

「政党には、党勢拡張、政権獲得などという一種の病気がつきまとう。そのために、種々の不正手段に出たり、あるいは敵に向かって進む勇気を失ったりすることがある。これを監視し激励するのが言論に従事する人々の責任でなければならない。」

「そもそも政界百弊の根源は、選挙に莫大の金を要するがゆえなれば、まずもって現行選挙法を改正しなければならない。」

「仏教もキリスト教も道教も異途回帰で、要するに根本の信念を固めることにある。しかるに、現在の我方国民教育の不完全は、道徳の根本たる信念に導くべき教えが欠けている。」

「話せば分かる。」

幼少期の犬養毅

6月4日に備中国賀陽郡(現 岡山県岡山市)で生まれる。

父は庄屋・郡奉行を務めていた犬飼源左衛門。
※源左衛門は庭瀬藩(備中松山藩の分家)に仕えていた郷士(下級武士で農民を兼業)

2歳の頃に父がコレラで亡くなり、以後の生活は苦しくなる。

26歳の犬養毅(1882年)

大隈重信が党首を務めていた立憲改進党に入党。

大隈重信の参謀役として活躍するほか、大同団結運動に参加し軍閥や財閥を批判した。
※大同団結運動とは帝国議会を開設しようとする自由民権運動の一派

また、東京専門学校(後の早稲田大学)の第1回議員にも選出される。

55歳の犬養毅(1911年)

辛亥革命が起こる。
(清帝国に対して孫文らが起こした共和革命)

犬養毅は辛亥革命の援助のため中国に渡る。
孫文が日本へ亡命した際には、宮崎滔天(みやざきとうてん、日本で辛亥革命を援助した人物)の家にかくまう。

孫文は1912年に大総統に選出され中華民国が成立する。

57歳の犬養毅(1913年)

第1次護憲運動が起こる。

第1次大隈内閣の総辞職後、陸軍出身の山県有朋や桂太郎らが総理大臣となると軍政が強くなる。
中でも、1900年に第2次山県有朋内閣で制定された軍部大臣現役武官制によって、軍部大臣に現役武官の中将・大将が務めることになると、軍政・藩閥政治が強くなり政党政治は衰退することになった。

そんな中、1910年に政治改革と立憲主義を主張していた立憲国民党が結成されると、1913年には犬養毅が党首となる。

そして、犬養毅は立憲政友会の尾崎行雄と協力し護憲運動を展開、第3次桂内閣を約2ヶ月で総辞職させた。

この時の活躍によって、犬養毅と尾崎行雄は「憲政の神様」と呼ばれた。

67歳の犬養毅(1923年)

第2次山本権兵衛内閣が発足。

犬飼毅は文部大臣と逓信大臣(逓信省は現在の総務省・日本郵便・NTTの前身)を務めるが、12月に虎ノ門事件(皇太子で後の昭和天皇である裕仁親王が狙撃される)が起こると、山本権兵衛は責任を取り総辞職。

68歳の犬養毅(1924年)

1月に第2次護憲運動が起こる。

第2次山本内閣が総辞職すると、貴族院議員の清浦奎吾が総理大臣となる。
清浦内閣の支持基盤は研究会(貴族院の会派)であったため、内閣は貴族院に大きく偏った。

この清浦内閣に対して、革新倶楽部(立憲国民党の後身)を率いていた犬養毅は、立憲政友会(衆議院の第1党)の高橋是清や憲政会の加藤高明らと協力して護憲運動を始める。
※革新倶楽部・立憲政友会・憲政会の3党を「護憲三派」という。

6月には加藤高明内閣が発足。

犬養毅は逓信大臣を務めた。
※加藤内閣下では普通選挙法・治安維持法など成立。外交では日ソ基本条約が締結。

一旦、政界を引退する。

73歳の犬養毅(1929年)

政界に復帰する。

犬養毅は政界を引退していたが、犬養を支持する支持者(とくに岡山県)が無理矢理に立候補させ衆議院選挙で当選させる。

犬養毅は当初は断っていたものの、結局は政界復帰を決断し、10月に立憲政友会の総裁となった。

75歳の犬養毅(1931年)

12月に内閣総理大臣に就任する。

1月から4月の間にロンドン海軍軍縮会議が開催される。
当時の浜口雄幸内閣は、この会議で話し合われていた補助艦保有数を巡って海軍の艦隊派と対立していた。
さらに、犬養毅は鳩山一郎とともに軍縮問題を内閣が決めるのは「統帥権の干犯」と言い反対した。
※統帥権とは軍を指揮する最高指揮権のこと

また、9月には満州事変が起こり第2次若槻内閣が総辞職すると、犬養毅は中華民国との話し合いで解決しようとする。

そして、12月に総理大臣になる。

76歳の犬養毅(1932年)

五・一五事件が起こり暗殺される。

犬養毅は高橋是清を大蔵大臣し積極財政を推し進め世界恐慌に対応した。

また、満州事変に対しては、軍部の主導で満州国を建国することに反対し、中国国民党の蒋介石と外交交渉での解決を目指す。
ただ、膨大な軍事費を出していることから軍部との関係はそれほど悪くなかった。

しかし、5月15日に日本を変えたいと思っていた海軍の青年将校と陸軍の士官候補生によって、襲撃され暗殺される。享年76。

犬養の死後、日本は軍部の独裁ならびに挙国一致内閣となっていった。

西郷隆盛の名言・格言

西郷隆盛
1828年1月23日 – 1877年9月24日

西郷隆盛の名言・格言
「策略は日常的にすることではない。
はかりごとをめぐらしてやったことは、
あとから見ると善くないことがはっきりしていて、
必ず後悔するものである。
ただ戦争において策略は必要なことであるが、
日常的にはかりごとをやっていると、
いざ戦いということになったとき、
同じことはできないだろう。
蜀漢の丞相であった諸葛孔明は、
日頃策略を用いなかったから、
戦いのときに
思いもよらないはかりごとを行うことができたのだ。
私はかつて東京を引き揚げたとき、
弟(従道)に対して、
私はこれまで少しもはかりごとをやったことがないから、
跡は少しも濁ることはないだろう。
それだけはよく見ておくようにと言いおいたことがある。」

「何度も何度もつらく苦しい経験をしてこそ、
人の志は初めて堅くなるのだ。
真の男は玉となって砕けることを本懐とし、
志を曲げて瓦となって生き長らえることを
恥とせよ。

我が家の遺訓。
それは子孫のために良い田を買わない、
すなわち財産を残さないということだ。」

11歳の西郷隆盛

友人とお宮参りに行った際に喧嘩の仲裁に入ったが刀で切られ右腕内側の神経を切ってしまう。三日間高熱に浮かされたものの一命は取り留めるが、刀を握れなくなったため武術を諦め、学問で身を立てようと志した 。

22歳の西郷隆盛

お家騒動、赤山の御用人をしていた父から切腹の様子を聞き、血衣を見せられた。これ以後、世子・島津斉彬の襲封を願うようになった。
伊藤茂右衛門に陽明学、無参和尚に禅を学ぶ
「近思録」を輪読する会を大久保利通らと結成

30歳の西郷隆盛

京都で斉彬の訃報を聞き、一度は殉死しようとしたが、僧である月照に説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意した。
安政の大獄で終われ、月照とともに入水も奇跡的に西郷は助かる。
藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居することになった