陸奥宗光の名言・格言

江戸時代から明治時代に活躍した武士、外交官、政治家。

神奈川県・兵庫県知事、農商務大臣、外務大臣を務める。

不平等条約(領事裁判権の撤廃、関税自主権の回復)の改正に尽力する。

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「人より少なく苦労して、人より多くの利益を得ようとするのは、薄志弱行の者のやることだ。この考えが一度芽生えると、必ず生涯不愉快の境遇に陥る。」

「政治はアートなり、サイエンスにあらず。」

「勝者を過大評価し、敗者を過小評価するのは誠に人情の弱点なり。」

「失敗に屈せず、失敗を償う工夫をこらすべし」

幼少期の陸奥宗光

8月に紀伊国(現在の和歌山県)で6男として生まれる。

父は紀伊藩士の伊達宗広。
※宗光が生まれた伊達家は陸奥伊達家(伊達政宗の家系)の分家にあたる
※元々の名は伊達小次郎で、後に「陸奥」に改名

国学者であった父の影響により、幼少期の頃から尊皇攘夷の考えを持つようになる。

8歳の時に父が藩内での対立で失脚し、宗光は貧しい生活を送る。
※父は以後10年幽閉される

14歳の陸奥宗光(1858年)

江戸に下向(出府)する。

江戸では安井息軒(やすい そっけん、儒学者)のもとへ弟子入りするが、吉原遊郭に頻繁に通っていたことがバレて破門させられる。

破門後は水本成美(律令学者)のもとで学ぶ。
この頃に、坂本龍馬や桂小五郎(木戸孝允)、そして伊藤博文と親交を持つようになる。

23歳の陸奥宗光(1867年)

海援隊に入る
※坂本龍馬が結成した私設海軍。薩摩藩からの援助も受けた。

坂本龍馬から「刀を二本も差さずとも、食っていけるは、俺と陸奥」と評される。

11月に坂本龍馬が暗殺されると(近江屋事件)、宗光は龍馬暗殺の黒幕と疑っていた三浦休太郎(紀州藩士)を海援隊の同士とともに襲撃する(天満屋事件)。
※この事件では新撰組とも戦った

31歳の陸奥宗光(1875年)

大阪会議が開かれる。
※大久保利通・木戸孝允・板垣退助らによって政治体制の改革が話し合われた
※立憲体制の樹立、三権分立、二院制議会の確立

この会議の結果、対立していた政府と民権派が互いに妥協たことで政治改革が行われ、陸奥は元老院の議官(議員)として政界に復帰する。
※陸奥は幹事に就任する

33歳の陸奥宗光(1877年)

西南戦争が勃発。

この時に、陸奥は西郷隆盛に呼応し政府転覆を謀った土佐立志社の林有造らと連絡を取っていたことが発覚し、禁固5年の刑を受けて山形で投獄される。

投獄中には妻・亮子に手紙を送るほか、英国の哲学者ジェレミ・ベンサムの著作の翻訳にも打ち込む。

44歳の陸奥宗光(1888年)

日墨修好通商条約の締結。

日本は幕末に安政五ヶ国条約(米・蘭・露・英・仏との二国間条約)を初め「関税自主権がない、領事裁判権(外国人が日本で犯罪で起こしても、日本側が罰せられない)を認める」といった不平等条約を結んでいた。
明治維新後、欧米化した日本はこれら不平等条約の改正を1つの目標として外交を展開していく。

このような情勢の中、陸奥は外務省に務め駐米公使ならびに駐メキシコ公使を兼任する。
そして、11月には日本全権としてメキシコとの間で日墨修好通商条約を締結させた。
※日本初の平等条約で、メキシコにとってもアジアの国と結んだ初めての条約

47歳の陸奥宗光(1891年)

足尾銅山鉱毒事件が起こる。
※栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた公害事件

この事件で衆議院議員で立憲改進党の田中正造が国の責任を追及した際に、陸奥が対応し「質問の趣旨が分からない」と回答する。
※足尾銅山の経営者・古河市兵衛の養子には陸奥の次男がいた

50歳の陸奥宗光(1894年)

外務大臣に就任。

第2次伊藤内閣では外務大臣に就任し、英・米と通商航海条約を結び治外法権(領事裁判権)を撤廃させる(独・伊・仏との条約も改正する)。

一方、日清戦争が起こるとイギリスとロシアの介入を防ぐために交渉し中立の立場にさせる。

戦後には伊藤博文と共に日本全権として清との間に下関条約を結ぶ。

田中正造の名言・格言

田中正造

江戸時代から大正時代に活躍した日本の政治家。
地域の公害問題解決のために戦い続けた。

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「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を荒らさず、人を殺さざるべし。」

「何事もあきれて物を言わぬとも、言わねばならぬ今のありさま。」

「憎まれれば憎まれるほど、人として自信が湧いてくる。」

「何事もすべてを打ち込んで事にあたれば、苦労もかえって喜びになる。」

幼少期の田中正造

12月15日に下野国安蘇郡吾妻郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)で父・富蔵、母・サキの長男として生まれる。幼名は兼三郎。

生まれた家は名主(なぬし、領主のもとで村政を担当した村の首長)であったが、それほど裕福ではなかった。

教育熱心な父の影響で、赤西小四郎のもとで儒学を学ぶ。

27歳の田中正造(1868年)

投獄される。

以前から、領主であった六角家との間で金銭に関するトラブルを抱えており、正造は村民らとともに抗議していた。
しかし、六角家は高家という幕府では格式の高い役職についていたことから、明治維新の直前に捕まり投獄される。
※縦横1mほどの牢に10ヶ月投獄される

30歳の田中正造(1871年)

再び投獄される。

江刺県の役人となった正造であったが、上司・木村新八郎の暗殺事件が起こると正造が犯人にでっち上げられる。
この時、正造は医者が来るまでに木村の応急措置をしていたが、正造の服に血が付いていたことや日頃から上司や他の役人らと言い争いをしていたことから疑われた。
※約3年の投獄後に木村新八郎の息子が無罪を証言したことで釈放される

獄中では厳しい取り調べがあったものの、書物を読んで西洋の政治などを学んだ。

39歳の田中正造(1880年)

栃木県議会議員となる。

県議会議員として地方自治に力を入れ、県令(現在の知事)・三島通庸と争う。
5年後には三島の暗殺事件(加波山事件)への関与が疑われ逮捕される。
※加波山事件は自由民権運動の1つ
逮捕されもたものの三島が異動になったことで釈放、1886年には第13回臨時県会で議長となる。

59歳の田中正造(1900年)

川俣事件の発生。

足尾銅山鉱毒事件の被害者が東京へ陳情(実情を調べ対処してくれと願うこと)しに行こうとした時に、地元の警官隊と衝突した事件。

この事件後に正造は国会で川俣事件に対しての質問をしたが、当時の総理大臣・山県有朋に「質問の意味が分からない」と返される。

川俣事件で逮捕された者は後に全員釈放される。

60歳の田中正造(1901年)

明治天皇への直訴。

正造は議員を辞職したが、鉱毒被害を訴える活動は継続し演説を行い続けた。

また、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に鉱毒事件についての直訴したが失敗する。
この時、正造は死を覚悟したと言われているが釈放された。

小村寿太郎の名言・格言

江戸時代から明治時代に活躍した武士、政治家。

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「ことの善意は、その人の決心一つで決まる。」

「事前は滅多に、偉人や天才をこの世に下しせぬ。幾万人、あるいは幾億人に一人か、幾百年あるいは幾千年に一人しかそんな人間はでるものではない。それを書物の上で見て、そんな偉人や天才がごろごろう生まれているように想像する。それは大きな間違いである。」

「日本には、まだ外交はないのだ。真の外交はこれから起こってくるのだ。」

「私の苦労はこれからであります。私の真正の仕事はこれからである。これまではほんの準備にとどまっておりました。」

15歳の小村寿太郎(1870年)

大学南校(東京大学の前身)に入学。

貢進生(各藩から推薦を受け大学南校に入学した学生のこと)に選ばれ大学南校に入学する。
大学南校では5人の学友とともに留学運動を起こし政府に建議書を提出する。

そして、第1回文部省留学生に選ばれアメリカへの留学を果たす。

38歳の小村寿太郎(1893年)

第2次伊藤内閣で外務大臣を務めていた陸奥宗光に認められ清国代理公使となり、清国との交渉に当たった。

また、乙未事件(朝鮮国皇后・閔妃の暗殺事件)の際には、駐韓弁理公使として、在朝鮮ロシア総領事のカール・ヴェーバーと交渉した。

45歳の小村寿太郎(1900年)

清国で起こった義和団事件の際には、講和会議全権として事後処理にあたる。

※義和団事件(庚子事変)とは日清戦争後に生活に苦しんでいた農民らが排外主義を掲げ、外国人や教会を襲った事件。北京の列国大公使館を包囲した。

46歳の小村寿太郎(1901年)

第1次桂内閣で外務大臣に就任。

外務大臣としては日英同盟の締結(1902)や日露戦争後のポーツマス条約(1905)を成功させている。

また、アメリカの実業家であるハリマンが満州での鉄道経営を日米共同経営という提案をしてきた際には、桂太郎総理が共同経営を推す中、寿太郎は反対しアメリカのと共同経営を拒否させた。

56歳の小村寿太郎(1911年)

外務大臣として日米通商航海条約を結ぶ。

幕末以降、日本にとって不平等であった条約を改正するためにアメリカと交渉し、関税自主権を回復した。

また、日露協約や韓国併合でも大きな功績を残した。

しかし、この頃になると結核の病状が悪化し、11月に葉山町の別荘で死去。56歳。
墓所は青山霊園にある。

吉田茂の名言・格言

明治時代から昭和時代に活躍した日本の外交官、政治家。

内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)。

第一復員大臣、第二復員大臣、農林大臣などを歴任。

皇學館大学初代総長、学校法人二松学舎第5舎長。

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「忙しいと疲れたは自慢にならん。」

「今に立ち直る。必ず日本は立ち直る。」

「三千年、いや四千年生きたい、しかし人は死ぬ。しかし国は行き続ける。」

「大志を抱けば、天下何ものか恐るるに足らず。」

「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある。」

幼少期の吉田茂

9月22日に東京神田駿河台(現在の東京都千代田区)に竹内綱の5男として生まれる。

父は自由民権運動の主導者・板垣退助の腹心であったが、茂が生まれる前に反政府陰謀の罪で逮捕される。

母は茂が生まれる前に東京にいた吉田健三(竹内綱の親友)もとに身を寄せて茂を生んだ。
※3年後に吉田健三の養子となる

少年期は義母に厳しく育てられた。

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58歳の吉田茂(1936年)

駐英大使に就任する。

駐英大使としてはイギリスとの親善を目指すも、東アジアでの情勢が悪化したことからうまくいかなかった。
また、広田内閣が組閣された際には、外務大臣になるはずであったが軍部の反対に合いかなわなかった。
※吉田茂は英米よりの考えをもっていたため軍部から反対をうけた

親英米の考えを持っていた吉田であったが、日独伊三国同盟には反対であった。

63歳の吉田茂(1941年)

太平洋戦争の勃発。

吉田は開戦直前まで米大使のジョセフ・グルーや外務大臣の東郷茂徳と会談し開戦阻止に動いていた。

日本海軍がミッドウェー海戦(1942)で敗れると、和平交渉のためにスイスに赴こうとするが、直後に日本軍が勝ったこともあり失敗する。