坂本龍馬らの仲介で、薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結部
カテゴリー: 政治家
40歳の西郷隆盛
戊辰戦争では東征総督府参謀として指揮、江戸幕府の勝海舟と交渉して、江戸城の開城を実現
43歳の西郷隆盛
岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らが欧米に出発 (岩倉使節団)、太政大臣・三条実美、参議・西郷らに留守内閣が任される
45歳の西郷隆盛
征韓論を唱えるが、日本へ帰国した岩倉使節団の大久保利通らに意見を退けられたため、明治政府を辞職、故郷の鹿児島へ帰る。
同調した政治家・軍人・官僚600名余りが大量辞任(明治六年の政変)。
49歳の西郷隆盛
武士の不満が高まるなか西南戦争が勃発。破れて自決。
遺体は山縣有朋の検分の後に手厚く葬られた。
幼少期の田中角栄
新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)に父・田中角次、母・フメの二男として生まれる。ただし、長兄は夭逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった。
田中家は農家だが父・角次は牛馬商、祖父・田中捨吉(田中角右衞門の子)は農業の傍ら宮大工を業としていた。母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという。幼少年時代に父角次がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされる。
幼いころ吃音があり、浪花節を練習して矯正した。
15歳の田中角栄
二田高等小学校(現在の柏崎市立二田小学校)卒業。
小学校時代から田中は勉学にすぐれ、ずっと級長をしていたという。高等小学校の卒業式では総代として答辞を読んだ
卒業後の田中は土木工事の現場で働くが1か月で辞め、その後柏崎の県土木派遣所に勤めた。旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労から「気が進まなかった」という
16歳の田中角栄
「理化学研究所の大河内正敏が書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京。だが、東京に着いてみると書生の話は通っておらず、やむなく仮寓先としていた井上工業に住み込みで働きながら、神田の中央工学校土木科(夜間部)に通う。その後、保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員といった職に就いた。
一時は、海軍兵学校入学を目指して研数学館や正則英語学校などにも通ったが、母の病気の報を受けて実業に志望を変えた
18歳の田中角栄
中央工学校土木科を卒業し、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937年(昭和12年)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する。
これに前後して、日比谷のビルで大河内正敏と偶然エレベーターに乗り合わせたことから知遇を得て、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた。
21歳の田中角栄
1939年に陸軍騎に入営し、4月より満州国富錦で兵役に就く。
内務班での私的制裁を古兵から受けたが、夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、部隊内の事務や能筆といった技能により、上官に一目置かれるように。
22歳の田中角栄
騎兵上等兵となる。しかし、同年11月にクルップ性肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。
23歳の田中角栄
クルップ性肺炎治癒後の1941年10月に除隊、除隊翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、1942年(昭和17年)3月に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚。家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。
25歳の田中角栄
事務所を改組して田中土建工業を設立した。理研コンツェルンとの関係も復活し、理化学興業(ピストンリング製造、現リケン)などから仕事を請け負う。田中土建工業は年間施工実績で全国50位入りするまでになった。
26歳の田中角栄
長女眞紀子が誕生。
27歳の田中角栄
理化学興業の工場を大田(たいでん、テジョン)に移設する工事のため、朝鮮半島に渡る。8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡した。
敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げた。田中土建工業は戦災を免れる。
28歳の田中角栄
田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の大麻唯男からの要請で献金をおこなったことをきっかけに、大麻の依頼により1946年4月の第22回衆議院総選挙に進歩党公認で、郷里の新潟2区(当時は大選挙区制でのちの中選挙区制での区とは異なる)から立候補。
誤算もあり、候補37人中11位(定数は8)で落選。
29歳の田中角栄
日本国憲法による最初の総選挙となった 第23回総選挙に、新たに設定された中選挙区制の新潟3区から、進歩党が改組した民主党公認で立候補し、12人中3位で当選。
9月に長男正法4歳で死亡
11月に炭鉱を国家管理する臨時石炭鉱業管理法が提出されると、田中は本会議で反対票を投じ、他の14名とともに離党勧告を受ける。同様の理由で除名・離党した民主党議員と共に11月28日結成された同志クラブ(のち民主クラブ)に加盟した。
30歳の田中角栄
第2次吉田内閣が発足。新内閣で田中は法務政務次官に就任。
まもなく、1年前の炭鉱国家管理法案をめぐって炭鉱主側が反対議員に贈賄したとされる疑惑(炭鉱国管疑獄)が表面化し、11月23日には田中の自宅や田中土建工業が東京高等検察庁に家宅捜索される。12月12日、衆議院は逮捕許諾決議を可決し、翌日田中は逮捕されて東京拘置所に収監された。
田中の主張は、受け取った金銭はあくまで相手からの請負代金であり、贈収賄ではないとするものだった。
12月23日に衆議院は解散し、第24回総選挙が実施される。この選挙に田中は獄中立候補する。
32歳の田中角栄
長岡鉄道(後の越後交通長岡線)の沿線自治体から、路線の存続と電化の要望を受け、1950年10月に同社の社長に就任。
田中は電化を実現させるため、鉄道省OBで「電化の神様」といわれた西村英一に依頼したり、やはり鉄道省OBの佐藤栄作を顧問に呼ぶなどの手を打ち、1951年12月に電化を実現させる。
それまで弱かった三島郡で支持を広げることとなった。この効果も寄与する形で、田中は1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では初めてトップ当選を果たしている。
33歳の田中角栄
大野市郎や亘四郎の地盤であった(長岡鉄道沿線の)三島郡で支持を広げることとなった。この効果も寄与し、田中は1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では初めてトップ当選を果たしている。
35歳の田中角栄
母校の中央工学校の校長に就任
39歳の田中角栄
第1次岸信介改造内閣で郵政大臣に就任。
戦後初めて30歳代での大臣就任。テレビ局と新聞社の統合系列化を推し進め、その強力な権力と指導力により、現在の新聞社 – キー局 – ネット局体制の民間放送の原型を完成させる。その過程で官僚のみならず報道機関も掌握した。特に民放テレビ局の放送免許(とりわけ地方局の免許)を影響下に置いたことは、その後の田中の飛躍の原動力になった。
47歳の田中角栄
大蔵大臣を辞任し、自由民主党幹事長に就任。
53歳の田中角栄
第3次佐藤栄作内閣の改造で通商産業大臣。
54歳の田中角栄
5月 – 佐藤派から田中派が分離独立。
6月 – 『日本列島改造論』を発表。
7月5日 – 佐藤栄作が支持した福田赳夫を破り自由民主党総裁に当選。
7月6日 – 第1次田中内閣が成立。
9月 – 中華人民共和国を訪問。首都北京で周恩来首相や毛沢東共産党主席と会談。9月29日、両国の共同声明により日中国交正常化が実現し、日華平和条約の終了を確認
56歳の田中角栄
月刊誌「文藝春秋」に立花隆が「田中角栄研究」を発表し金脈問題を追及する
58歳の田中角栄
2月 – ロッキード事件発生。アメリカの上院外交委員会で、ロッキード社による航空機売り込みの国際的リベート疑惑が浮上。7月27日に、同社による全日本空輸に対する売りこみにおける5億円の受託収賄罪と外国為替・外国貿易管理法違反の容疑により、秘書の榎本敏夫などと共に逮捕される。
当時のニュース
64歳の田中角栄
上越新幹線暫定開業(大宮 – 新潟)。第1次中曽根内閣発足。田中の全面的な支持を受け、「田中曽根内閣」と揶揄される。
65歳の田中角栄
ロッキード事件の一審判決、懲役4年、追徴金5億の実刑判決で即日控訴
第37回総選挙、自身は圧倒的支持で当選するが、自民党は大敗、田中批判で立候補した野坂昭如も落選
一連の流れを受け、中曽根総裁が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」と声明を発表
67歳の田中角栄
脳梗塞で倒れ入院。言語症や行動障害が残り、以降政治活動は不可能に。
68歳の田中角栄
トップ当選。田中は選挙運動が全く行えず、越山会などの支持者のみが活動。自民党は圧勝。4年近くの任期中、田中は一度も登院できなかった。
71歳の田中角栄
政界引退を表明「顧みて我が政治生活にいささかの悔いもなし」との声明文が読み上げられた。勤続43年
75歳の田中角栄
第40回総選挙。眞紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。田中自らも病をおして新潟入りし、眞紀子の応援をする。後に自民党へ入党。選挙で過半数を下回った自民党は下野し、元田中派所属の細川護熙による非自民8党連立内閣が発足。
12月16日 – 慶應義塾大学病院にて75歳で死去
田中角栄の名言・格言
田中 角栄(たなか かくえい、1918年(大正7年)5月4日 – 1993年(平成5年)12月16日)は、日本の政治家、建築士。
衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第33代)、内閣総理大臣(第64・65代)等を歴任した。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/67/Tanaka_Cropped.jpg
田中角栄の名言・格言
「政治は数であり、数は力、力は金だ」
「俺の目標は、年寄りも孫も一緒に、楽しく暮らせる世の中をつくることなんだ」
「これからは東京から新潟へ出稼ぎに行く時代が来る」
アドルフ・ヒトラーの名言・格言
アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler, 1889年4月20日 – 1945年4月30日)は、ドイツの政治家。ヒットラーとも表記される。指導者原理に基づく党と指導者による独裁指導体制を築いた。
ヒトラーの残した言葉
「大衆の多くは無知で愚かである」
「熱狂する大衆のみが操縦可能である。」
「圧制はただ圧制によってのみ、そしてテロはただテロによってのみ破ることができる」
「人々が思考しないことは、政府にとっては幸いだ。」
「わたしは間違っているが、世間はもっと間違っている」
幼少期のアドルフ・ヒトラー
1889年4月20日 オーストリア・ハンガリー帝国のブラウナウ地方でバイエルン人の税関吏アロイス・ヒトラーの4男として生まれる。
8歳のアドルフ・ヒトラー
父の事業が失敗し、一家はオーストリアへ戻る。
一家は郊外の農地を手放してランバッハ市内に定住している。8歳のヒトラーはベネディクト修道会系の小学校に移籍し、聖歌隊に所属するなどキリスト教を熱心に信仰して、聖職者になる事を望んだ。修道会の彫刻には後にナチスの党章として採用するスワスチカが使われていた。本人によれば、信仰心というよりも華やかな式典や建物への憧れが強かったようである
9歳のアドルフ・ヒトラー
弟エドムントが亡くなる不幸などを経て、次第にヒトラーは聞き分けのよい子供から、父や教師に口答えする反抗的な性格へと変わっていった
11歳のアドルフ・ヒトラー
小学校を卒業。大学予備課程(ギムナジウム)には進めず、リンツの実技学校(リアルシューレ)に入学する。
12歳のアドルフ・ヒトラー
二年生への進級試験に失敗、留年。
14歳のアドルフ・ヒトラー
父死亡。リンツ実技学校中退。
15歳のアドルフ・ヒトラー
シュタイアー実技学校入学。
翌年中退。以後、正規教育は受けず。
17歳のアドルフ・ヒトラー
遺族年金の一部を母から援助されてウィーン美術アカデミーを受験するも不合格。以降、下宿生活を続ける。
アカデミー受験に失敗した時に学長に直談判し、人物デッサンを嫌う傾向から「画家は諦めて建築家を目指してはどうか」と助言された。
「画家から建築家へ望みを変えてから、程なく私にとってそれが困難である事に気が付いた。私が腹いせで退学した実科学校は卒業すべき所だった。建築アカデミーへ進むにはまず建築学校で学ばねばならなかったし、そもそも建築アカデミーは中等教育を終えていなければ入校できなかった。どれも持たなかった私の芸術的な野心は、脆くも潰えてしまったのだ…」
ヒトラーが書いたとされている絵画
出典;http://netgeek.biz/archives/51068
18歳のアドルフ・ヒトラー
母親クララを乳癌で失った。
ヒトラーにとって、癌の治療は特別な意味を持っていた。
後年、厚生事業のスローガンとして「健康は国民の義務」を定め、喫煙に対しても反タバコ運動を積極的に行った。環境や職場における危険を排除し(発癌性のある殺虫剤や着色料の禁止)、早期発見を推奨した。
20歳のアドルフ・ヒトラー
住所不定の浮浪者として警察に補導される。独身者向けの公営住宅に入居。
22歳のアドルフ・ヒトラー
遺族年金を妹に譲るように一族から非難され、仕送りが止まる。水彩の絵葉書売りなどで生計を立てる。
このころヒトラーは食費を切り詰めてでも歌劇場に通うほどリヒャルト・ワーグナーに心酔していたとされる。また暇な時に図書館から多くの本を借りて、歴史・科学などに関して豊富な、しかし偏った知識を得ていった。
24歳のアドルフ・ヒトラー
徴兵検査の対象年齢から外れた事で隣国ドイツの南部にあるミュンヘンに移住し、仕立て屋職人ポップの元で下宿生活を送った。徴兵検査の義務はなくなったが、逆に期間内に徴兵検査を受けなかった事で兵役忌避罪と、その事実を隠して国外に逃亡するという二つの犯罪を犯した立場となった。
翌年にそれが発覚し、強制送還されるが「不適合」として徴兵されず。
25歳のアドルフ・ヒトラー
第一次世界大戦にドイツ帝国が参戦するとバイエルン軍に義勇兵として志願。
29歳のアドルフ・ヒトラー
マスタードガスによる一時失明とヒステリーにより野戦病院に収監、入院中に第一次世界大戦が終結する。ヒトラーは第一次世界大戦がドイツの降伏で終結した時に激しい動揺を見せた兵士の一人であったという。
30歳のアドルフ・ヒトラー
前年に成立したバイエルン・ソビエト共和国共和国軍にスパイとしてスカウトされる。
ドイツ労働者党への潜入調査を担当する。
ヒトラーはこの時に初めて大学でゴットフリート・フェーダーなどの知識人の専門的な講義を聴く機会を持ち、潜入調査に必要な教養を与えられた
31歳のアドルフ・ヒトラー
潜入調査をするるもヒトラーはドイツ労働者党で党首アントン・ドレクスラーの反ユダヤ主義、反資本主義の演説に感銘を受けて逆に取り込まれてしまう。
、軍を除隊。党は国家社会主義ドイツ労働者党に改名される。
1921年党内抗争で初代党首アントン・ドレクスラーを失脚させ、第一議長に就任
34歳のアドルフ・ヒトラー
ムッソリーニのローマ進軍に触発されてミュンヘン一揆を起こすが失敗。警察に逮捕される。
35歳のアドルフ・ヒトラー
禁錮5年の判決を受けてランツベルク要塞刑務所に収監。12月20日に仮釈放される。
37歳のアドルフ・ヒトラー
『我が闘争』出版。党内左派の勢力を弾圧し、指導者原理による党内運営を確立
39歳のアドルフ・ヒトラー
ナチ党としての最初の国政選挙。12の国会議席を獲得。
43歳のアドルフ・ヒトラー
ドイツ国籍を取得。大統領選に出馬、決選投票でヒンデンブルクに敗北して落選。しかし国会選挙では第一党に躍進して更に影響力を高める。
44歳のアドルフ・ヒトラー
ヒンデンブルク大統領から首相指名を受ける。全権委任法制定、一党独裁体制を確立。
ヒトラーの演説の映像
45歳のアドルフ・ヒトラー
突撃隊幹部を粛清して独裁体制を強化(長いナイフの夜)。ヒンデンブルク病没。大統領の職能を継承し、国家元首となる(総統)。
ラインハルト計画により、1933年には600万人を数えていた失業者も1934年には300万人に減少している。
一方で新聞の統制化も行い、1934年には三百紙の新聞が廃刊となった。営業不振となった新聞社・雑誌社はナチ党の出版社フランツ・エーア出版社に買収され、情報の一元化が進んでいった。
翌年、公務員・一般労働者が右手を挙げて「ハイル・ヒトラー」と挨拶することや、公文書・私文書の末尾に「ハイル・ヒトラー」と記載することが義務付けられている。
47歳のアドルフ・ヒトラー
非武装地帯であったラインラントに軍を進駐させる(ラインラント進駐)。ベルリンオリンピック開催。
当時の最新メディアであったラジオやテレビ、映画などを活用してプロパガンダを広めるなど、メディアの力を重視していた。情報を素早く伝達させるため、ラジオを安値で普及させた(国民ラジオ)。また、これらの一環としてベルリンオリンピックでは、女性監督のレニ・リーフェンシュタールによる2部作の記録映画『オリンピア』を制作させている。
49歳のアドルフ・ヒトラー
オーストリアを武力恫喝し、併合する(アンシュルス)。ウィーンに凱旋。ミュンヘン会談でズデーテン地方を獲得。