父・政楠が米相場に失敗、和歌山市内に移住。翌年には次兄と死別。翌々年には長兄、次姉相ついで病没。
カテゴリー: 実業家
10歳の松下幸之助
下駄屋を畳んだため、尋常小学校を4年で中退し、単身大阪の宮田火鉢店に丁稚奉公に出される。1904年、9歳のころのことであった。
翌年、奉公先を五代自転車に移した。後のパナレーサー設立のきっかけになった。自転車屋奉公時代、店に来た客にたびたびタバコを買いに行かされた。その際いちいち買いに出かけるより纏め買いして置けば、すぐタバコを出せる上、単価も安くなるため、これを利用して小銭を溜めた。これが丁稚仲間から反感を買い、店主にやめるよう勧められたために纏め買いはやめる。この頃から商才を顕すと共に、独り勝ちは良くないとも気づくようになった。
12歳の松下幸之助
父・政楠病没
16歳の松下幸之助
大阪に導入された路面電車を見て感動し、電気に関わる仕事を志し大阪電灯(現:関西電力)に入社。7年間勤務する。
翌年には内線係見習工から最年少で工事担当者に昇格。
19歳の松下幸之助
関西商工学校夜間部予科に入学。翌年に中退している。
母・とく枝病没したのもこの年。
21歳の松下幸之助
9月4日井植むめの(19歳)と結婚
22歳の松下幸之助
大阪電灯在職中、電球は自宅に直接電線を引く方式で、電球の取り外しも専門知識が必要な危険な作業であったため、簡単に電球を取り外すことができる電球ソケットを考案する。
23歳の松下幸之助
大阪電灯(株)を退社。
自宅で、妻むめのと、その弟の井植歳男(営業担当、後に専務取締役、戦後に三洋電機を創業して独立)、および友人2名の計5人で、同ソケットの製造販売に着手。
新型ソケットの売り上げは芳しくなく、友人2名は幸之助のもとを去ったが、川北電気(現在のパナソニック エコシステムズ)から扇風機の部品を大量に受注したことにより窮地を脱した。
その後、アタッチメントプラグ、二灯用差込みプラグがヒットしたため経営が軌道に乗る。
29歳の松下幸之助
電池式自転車ランプを考案発売
33歳の松下幸之助
電熱部門を設置して電気アイロン、ストーブ等の生産販売開始
角型ランプにはじめて「ナショナル」の商標をつけて発売
はじめて新聞に3行広告を出す
翌年には月販売額10万円突破、従業員300名に。
35歳の松下幸之助
松下電器製作所と改称綱領・信条を制定し、松下電器の基本方針を明示する
キーソケット、電気コタツ発売この年、世界的恐慌となったが、半日勤務、生産半減、給与全額支給とし、従業員を解雇することなく不況を乗り切る
36歳の松下幸之助
ラジオ発売
38歳の松下幸之助
1932年を『命知元年』と定めて5月5日に第1回創業記念式を開き、ヘンリー・フォードに倣った『水道哲学』『250年計画』『適正利益・現金正価』を社員に訓示した。
日本無線通信(株)所有のラジオに関する特許を買収し、これを一般に無償公開する。
49歳の松下幸之助
軍の要請で松下造船(株)、松下飛行機(株)を設立
51歳の松下幸之助
終戦翌日、幹部社員を集め、平和産業への復帰を通じて祖国の再建を呼びかける。続いて8月20日「松下電器全従業員に告ぐ」の特別訓示を行い、難局に処する覚悟を訴える
戦後ただちにGHQによって戦争協力者として公職追放処分を受ける。
52歳の松下幸之助
PHP研究所を設立。
「PHP」とは、「Peace and Happiness through Prosperity」(繁栄によって平和と幸福を)の頭文字をとった語で、「物心両面の繁栄により、平和と幸福を実現していく」という松下幸之助の願いがこめられている。
53歳の松下幸之助
制限会社指定を解除され、1947年に社長に復帰
57歳の松下幸之助
主にテレビ事業視察のため長期外遊し、翌1952年に蘭フィリップスと技術導入提携。
60歳の松下幸之助
レコード事業参入のため、当時の資本金相当額を投入して日本ビクターを子会社化(経営の独立性は担保)
63歳の松下幸之助
自社製品販売要請に応じた小売店を自社系列電器店網へ組み込み、日本初の系列電器店ネットワークとなる「ナショナルショップ(現:パナソニックショップ)」を誕生させた。
66歳の松下幸之助
幸之助がポケットマネーを寄進して、100年近く仮設状態のままになっていた浅草寺(東京都台東区)の雷門と大提灯を再建。
68歳の松下幸之助
『タイム』誌のカバーをかざる(当時日本人で2人目)
70歳の松下幸之助
家電品の廉売を巡り、当時のダイエー社長・中内功と30年にわたるダイエー・松下戦争が勃発
79歳の松下幸之助
94歳の松下幸之助
1989年4月27日午前10時6分に気管支肺炎のため、松下記念病院(守口市)において死去した。享年94。
吉田秀雄の名言・格言
吉田 秀雄(よしだ ひでお、1903年11月9日 – 1963年1月27日)は、電通の経営者。広告の鬼と呼ばれ、日本の広告業界の発展に尽力した。
電通鬼十則
1、仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
2、仕事とは、先手々と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
3、大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
4、難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
5、取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
6、周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
7、計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
8、自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚みすらない。
9、頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
10、摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。
幼少期の吉田秀雄
1903年、11月9日 父渡辺勝五郎(34歳)、母サト(21歳)の二男として福岡県小倉市(現・北九州市)で誕生
後に入社することになる電通の前身になる電報通信社が光永星郎により設立されてるのはこれに近い1901年。
8歳の吉田秀雄
一家4人(母、兄二人の妹)で父が働いている台湾に赴く
10歳の吉田秀雄
父のみを台湾に残し、母とともに小倉に戻る。
11歳の吉田秀雄
父勝五郎が高雄港の埠頭工事中に事故死。
新聞配達で家計を援助
14歳の吉田秀雄
小倉中学に入学。横井家の養子となるが、横井家に実子誕生し縁組解消となる。
翌大正7年吉田一次の養子となる
18歳の吉田秀雄
鹿児島の第七高等学校に補欠で入学。
柔道だ、寮対抗の野球だと活発に体を動かす。
20歳の吉田秀雄
東京帝国大学経済学部に入学
法科を志望したものの不合格となって、経済の商科へ横すべりでどうにか合格したという。
22歳の吉田秀雄
小倉の旧家で醸造業を営む小林家の娘で東京の実践女学校に通っていた雪枝と小倉で結婚式を挙げる。大学生での結婚であった。
長男宏誕生
24歳の吉田秀雄
前年の三月には金融恐慌がはじまっており就職活動は苦戦した。妻子をかかえる吉田は必至に就職活動を行った。
日本電報通信社(現電通)の採用試験では偶然、高校の同級生が試験担当として働いていた。
当時のことを吉田は「偶然を喜んだり久闊を叙している暇なんかない。単刀直入その迫大平に、社長は何という名前か、資本金はいくらだ、仕事はどんな仕事をやっているか、その場で聞いて試験を受けた。」
と述べている。
25歳の吉田秀雄
日本電報通信社(現電通)に入社。
地方内勤課に配属される
当時のことを吉田は
「当時は広告取引きというものが本当のビジネスになっていない。実業じゃないのだ。 ゆすり、かたり、はったり、泣き落としだ。僅かにそれを会社という企業形態でやっているだけで、まともな人間や地道なものにはやれなかった仕事なんだ。(中略)三年位の間、これはとんでもない事だ、一日も早くこんな商売からぬけ出さねば、これは大変なことになると、実はしょっ中考えておったのだけれども、(中略) そうこうしている内に、だんだん仕事の上でつき合いも出来てくる。顔馴染みも出来てくる。自分自身の私生活までが、その仕事の環境の中に捲き込まれちゃって、抜き差しならなくなったというのが真相だ。」(電通入社二十五周年回顧座談会より)
と語っている。
26歳の吉田秀雄
入社二年目から、同期入社の日比野恒次、坂本英男ら有志を誘って、そも広告とは何か、を勉強することにした。先進国であるアメリカやイギリスの関連書籍を見つけ、週二回の輪講をもっていた。
30歳の吉田秀雄
光永社長に随行し、満州国を視察旅行。
1936年に電通は通信部門と別れ広告専門会社として改組される。
39歳の吉田秀雄
日常生活は戦争遂行のために犠牲にされ、衣食は国の統制下に置かれてしまった。新聞や雑誌などの広告媒体は、軍の統制のもとでやせほそり、広告活動そのものが価値をもたない時代となっていた。
1941年に営業局地方部長に昇格。
翌1942年六月には取締役に選任され、同年十二月には常務取締役に就任した。
40歳の吉田秀雄
商工省の勧告に基づく広告代理業整備に尽力。
全国186社を12社になる。電通は全国の16社を吸収した。
41歳の吉田秀雄
新聞広告料公定問題の解決に努力。
農商務省によって全国50新聞社に対する公定料金が公認。
単価の極めて曖昧だった広告料金に、公正な広告料金設定の基準をもうけたことは広告業界に大きな影響を与えた。
42歳の吉田秀雄
終戦の8月15日、本社二階の広間のラジオの前に集まって、玉音放送を数十名の社員で聞いてた際、「これからだ」 吉田は と大きな声で叫んだという。
鉄かぶと、防空頭巾などをかなぐり捨て、社員の先頭に起って、社内外の清掃をはじめたという。
電通などを中心に「民衆放送」(後の東京放送)開設を申請。
吉田がまとめ役となる
44歳の吉田秀雄
上田3代社長がGHQの改正公職追放令に該当し辞任、吉田秀雄が第4代社長に就任
この年に電通経営の三施策を打ち出していた。その一つが商業放送の設立であった。残る二つは、クリエーティブ技術の向上、マーケティング理論の確立。
吉田が設立準備委員長に就任。商業放送実現の推進をする。
社の資金繰りに悪戦苦闘を強いられる中、ときを同じくして自薦他薦に関係なく、「電通」の社員を募集しつづけた点であった。
しかも、「公職追放」に該当する者を、それを承知で傍系会社まで作って入社させている。 優秀な人材こそが広告界の発展にかかせないという考えがあったという。
46歳の吉田秀雄
広告電通賞を制定
学生広告懸賞論文(現学生広告論文電通賞)を制定
商業放送開局の機運を高めるために、電通社内で商業放送・広告放送に関する調査研究を進めさせ、最新動向を全国各地の地方紙に提供、さらに「ラジオ広告研究会」を組織して、広告放送のテスト版を製作し大手広告主に試聴してもらうなど、広告放送について関係者の理解を深める活動も展開するなど商業放送開始に備える。
47歳の吉田秀雄
民放開始に備えた放送法案審議の参議院公聴会で、吉田が商業放送専門家として意見陳述
「日本新聞広告業者協会」の設立に尽力。幹事長に就任
創立50周年記念事業として第1回広告功労者顕彰17人を発表
48歳の吉田秀雄
全国で民放の申請が乱立。郵政省は周波数配分上の必要から、東京地区で申請を出していた朝日、毎日、読売の新聞社系3社の申請の一本化に乗り出しましたが失敗、これを受けて吉田が新聞社系3社と「東京放送」の4社の一本化を進めた。
「電通」の創業五十一周年を機に、鬼十則を発表した。
粘り強い折衝によって4社の一本化に成功、1951年1月、「株式会社ラジオ東京」として免許申請を行った。「ラジオ東京」は、同年12月24日のクリスマスイブに晴れて本放送を開始。
49歳の吉田秀雄
全国の開局ラッシュが本格化すると、申請者の中心であった各地方新聞社に対し、電通を通じて免許申請の手続きから、番組編成、番組制作の技術、営業の方法等に至るまでを全面的に支援、また出資協力はもとより必要があれば、地方局のスタッフとして電通社員を移籍させることまで行なった。
新聞雑誌発行部数公査機関「ABC懇談会」の創立を実現
55歳の吉田秀雄
アジア広告会議を開催
米国フォーチュン誌が「広告の大鬼」と題して吉田の業績を紹介
56歳の吉田秀雄
「日本放送連合会」設立、理事に就任
59歳の吉田秀雄
官邸で池田首相と広告問題で懇談、次官会議で「広告の文化的・経済的使命」を力説
東芝、電通、民放18社出資の「ビデオリサーチ株式会社」創立
テレビの視聴率調査装置を完成させ、テレビ広告取引の料金の参考となる指標を業界に導入した。
1963年 1月27日逝去
オスカー・シンドラーの名言・格言
幼少期のオスカー・シンドラー
1908年4月28日、現在チェコのスヴィタヴィに生まれた。
シンドラー一家の信仰はカトリックだったが、シンドラー自身は宗教に関心がなく、カトリックの影響はほとんど受けることはなかった。
近隣のユダヤ人家族の子どもたちは、彼の遊び仲間だった。
16歳のオスカー・シンドラー
国民学校に入学し、さらに実科学校、上級実科ギムナジウムと進んだが、成績証明書の改ざんを行ったことで1924年に退学処分となった。
後に学校へ戻る事を許されたが、クラスメイトから「詐欺師シンドラー」と呼ばれる。
学業優秀ではなく大学進学もあきらめている。
19歳のオスカー・シンドラー
電機会社で働いたが、1927年に一旦辞職してシェーンベルク(現・チェコのシュムペルク)のオートバイ学校へ通った。
20歳のオスカー・シンドラー
在学中にチェコスロバキア陸軍の徴兵を受けた。また1928年5月からしばしばオートバイ・レースに出場。
1928年エミーリエと結婚。
23歳のオスカー・シンドラー
軍の勤務を終えた後、シンドラーはブリュンの電機会社に復職したが、この会社は1931年に倒産してしまった。シンドラーはこの後一年ほど失業者になった。シンドラーの父の農業機械工場も倒産していたため援助を受けられず、結局はエミーリエの父に援助してもらって生活を耐え凌いだ。シンドラーは養鶏場を買い、またプラハの銀行の代理人の仕事に就き、ブリュンの商人に国有財産を売却する仕事に携わる。
25歳のオスカー・シンドラー
妻エミーリエとの間に子供はできず、シンドラーは父の秘書だったアウレリエ・シュレーゲル(Aurelie Schlegel)を愛人にして、彼女との間に私生児2人をもうけている。
27歳のオスカー・シンドラー
ドイツ民族主義的な政党に入党した。ここを通じてヴィルヘルム・カナリス提督率いるドイツ国防軍諜報部「アプヴェーア」と接触し、その諜報員として活動することになった
30歳のオスカー・シンドラー
彼の諜報活動が露見した時、チェコの鉄道内部の秘密情報を漏らしたということで、大叛逆罪の罪で死刑の宣告を受ける。
しかし、1938年10月にドイツのズデーテン併合があったため、ドイツによって刑の執行は中止された。
31歳のオスカー・シンドラー
没収前ユダヤ人の所有になっていた、落ちぶれた琺瑯(ホーロー)容器工場を買い取る。彼は、ユダヤ系ポーランド人会計士イツァーク・シュテルンの助言を受けながら、闇商売で資産を拡大していく。
クラクフ近くにあるザプロヴィツの小さな工場は、ドイツ軍の厨房用品を製造して急激な成長を遂げた。
工場はわずか3カ月で250人のポーランド人労働者を使うようになり、その中には7人のユダヤ人労働者もいた。
シンドラーは、快楽主義者で遊び人で、金を湯水のように使い、プレイボーイだったという。