35歳のオスカー・シンドラー

クラクフのゲットーは解体され、ユダヤ人たちは、クラクフ郊外のプワシュフ強制収容所へ移送された。

シンドラーは、残忍な強制収容所所長の親衛隊大尉アーモン・ゲートが、彼の飲み仲間でもあったことから、彼の工場にユダヤ人労働者のための小屋を建てさせてくれるようにと説得した。
この秘密交渉で、彼はそのユダヤ人労働者に比較的快適な生活条件を提供し、貧弱な栄養状態を補ってやることが出来るようになった。このための食糧は、シンドラーがすべて闇の市場で調達してきた。収容所の親衛隊の警備兵たちは、工場の敷地内への立ち入りは禁止されたのである。

シンドラーのユダヤ人救済において大きな力となったのは、彼の工場が“軍需工場”ということでポーランド占領のドイツ軍司令部からも特別の格付けを承認されていたことである。
労働者が工場の生産ラインに不可欠だと主張することで、雇用者が絶滅収容所へ移送される危険がせまった時にも特例措置を働きかけた。

36歳のオスカー・シンドラー

1944年末、ソビエト連邦の赤軍の侵攻により、すべての収容施設の解体を余儀なくされ、
ここにいた20,000人以上のユダヤ人が絶滅収容所に移送された。
シンドラーは、ドイツ軍の司令官から、彼とその妻がズデーテン地方のブリュンリッツ(現・チェコのブルニェネツ Brněnec)で新たに手に入れた工場で「軍需物資の生産」を継続し、そのための労働者を連れていくという許可を得た。

その労働力には、プワシュフの収容所からかなりの大人数が選ばれ、総数で800人にもなった。そのうち700人がユダヤ人、300人が女性だった。

ところが女性たちをのせた列車は強制収容所アウシュヴィッツに進行することとなった。

シンドラーは、グロース・ローゼンの収容所から人々を助け出しに駆けつけ、彼らを助け出すことに成功した。シンドラーが、ユダヤ人1人当たり1日につきゲシュタポに7マルク支払うことを約束し、彼の秘書がアウシュヴィッツで女性たちを更に移送する交渉を行ったのである。これは、絶滅収容所の運用期間中において最も多くの集団が出て行くことを許されたケースである。

オスカーとエミーリエのシンドラー夫妻は、アウシュヴィッツの収容施設から加えて120人のユダヤ人を救出した。

37歳のオスカー・シンドラー

1945年工場内で終戦を聞く。従業員たちを集めて話もしたと言われている。

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1945年5月8日、シンドラーの元にあったユダヤ人たちから彼に一つの指輪が贈られた。この指輪は、シンドラーに命を救われたユダヤ人たちが感謝のしるしに、彼らが唯一持っていた本物の金歯からつくったものである。「一人の人間を救う者は世界を救う」 - タルムードにあるこの言葉が贈り物の指輪に刻まれた。

1945年11月から1950年5月まで、彼はレーゲンスブルクにいた。しばらくアルゼンチンに赴き、毛皮をとるためにヌートリアの飼育も手掛けたが、農場を閉鎖せざるを得なくなる。

53歳のオスカー・シンドラー

貿易商の仕事をしたのち、ドイツに帰国した。ドイツでは、セメント工場の仕事をし、これもまた1961年に倒産に追い込まれた。
から次に事業に失敗し、資金繰りで奔走しているシンドラーの噂は彼が救ったユダヤ人にも伝わる。彼らは、シンドラーをイスラエルに招待した。

この時点から、オスカー・シンドラーの「二重生活」が始まる。つまり、年の半分を彼が隠居生活をしているフランクフルトで過ごし、他の半分をエルサレム在住の、彼が救ったユダヤ人たちの下で過ごすということである。

66歳のオスカー・シンドラー

1974年、ドイツのヒルデスハイムで亡くなる。彼の墓は彼自身の希望により、エルサレムのローマ・カトリックの教会墓地にある。

時とともにシンドラーの事績はドイツやポーランドでも次第に忘れ去られていった。彼の名が一般にも広く知られるようになったのは、1982年にオーストラリアの作家トーマス・キニーリーが著したノンフィクション小説『シンドラーの箱船』がベストセラーになり、これをスティーヴン・スピルバーグ監督が映画化した1993年のユニバーサル映画『シンドラーのリスト』が世界的な興行成功を収めたことによる。

正力松太郎の名言・格言

正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年(明治18年)4月11日 – 1969年(昭和44年)10月9日)は、日本の内務官僚、実業家、政治家。元読売新聞社社主。位階勲等は従二位勲一等。富山県高岡市名誉市民。京成電鉄OB。

正力松太郎の名言・格言

多くの人は人の成功を嫉み、反感を持ち、誤解する。嫉みや反感や誤解されるのが嫌だったら、何もしないで役に立たぬ人間になるだけだ。

いまだからやるのだ。

最も重要なことは、自分一人で決めることだ。

僕はよく「愚痴をこぼすな、くよくよ後悔するな」と言っている。第一に時間の空費だし、体も弱る。それに周囲を暗くするから、これほど馬鹿なことはないと思っている。

幼少期の正力松太郎

1885年4月11日 富山県射水市に土建請負業を営む父・正力庄次郎、母・きよの次男として生まれる。松太郎が生まれたとき、父・庄次郎は立山連峰の雪解け水で氾濫した庄川の修復工事に忙しく、松太郎に対面したのはお七夜の晩だった。
元々一介の庶民の出だった正力家が富山県射水市屈指の名家として名を成したのは、松太郎の祖父の庄助がこの地に度々災厄をもたらした庄川の氾濫を防いだ功による。

38歳の正力松太郎

1923年(大正12年)6月の日本共産党に対する大規模な一斉取締り(第1次)や、特別高等警察などにも関わり、同年9月に発生した関東大震災の際、社会主義者の扇動による暴動に備えるための警戒・取締りを指揮した。

39歳の正力松太郎

虎ノ門事件を防げなかった責任を問われ懲戒免官。直後、摂政宮(のちの昭和天皇)婚礼により恩赦。
財界人の斡旋と、帝都復興院総裁だった後藤新平の資金援助により、経営不振であった読売新聞社(現・読売新聞東京本社)の経営権を買収し、社長に就任した。正力は、自社主催のイベントや、ラジオ面、地域版の創設や、日曜日の夕刊発行などにより部数を伸ばした。

49歳の正力松太郎

ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらが参加した大リーグ選抜チームを招聘した。アマチュア野球しか存在しなかった日本側でも全日本チームが結成された。後に同チームを基礎として大日本東京野球倶楽部(現讀賣巨人軍)が創設され

60歳の正力松太郎

A級戦犯の第三次戦犯指名となり、逮捕されたが、起訴はされず、巣鴨プリズン収容者の1人となった。
正力が戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後に中央情報局(CIA)の非公然の工作に協力していた記録も残っている。日本へのテレビ放送の導入と原子力発電の導入について、正力はCIAと利害が一致していたので協力し合うことになった。その結果、勝利期および読売新聞社、そして日本テレビ放送網を通じて日本政界に介入する計画がCIAでは「Operation Podalton」と呼ばれていた。

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67歳の正力松太郎

日本テレビ初代社長に就任(1955年まで務める)
1953年に日本テレビ放送網本放送開始。

普及促進とスポンサー獲得のため、キャラバン隊による移動宣伝の他、繁華街、主要鉄道駅、百貨店、公園など人の集まる場所に受像機を常設し、テレビの魅力を直接訴える作戦に打って出た。街頭テレビそのものは、試験放送時代から幾つも存在していたが、大々的な展開は日テレが最初であり、小さい画面にもかかわらず、特に人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には観衆が殺到した。都内各地に街頭テレビを据えた正力は、「台数は少なくても視聴者は多い」とアピールしてスポンサーを説得し、結果、開局7ヶ月で黒字化を達成した。

71歳の正力松太郎

前年の原子力基本法が成立し、原子力利用の大綱が定められたことをうけ、1956年原子力委員会の初代委員長に就任。1月4日、日本に原子力発電所を5年後に建設する構想を発表。
これに対して、原子力委員の湯川秀樹は、「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない」と強く訴え、抗議のために辞任した。
初代科学技術庁長官に就任。

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72歳の正力松太郎

第1次岸内閣改造内閣で国務大臣(国家公安委員会委員長、科学技術庁長官、原子力委員会委員長)に就任。

また、自民党総裁になることも考えていた正力は渡邉恒雄を参謀の中曽根康弘との連絡役に起用していた。

84歳の正力松太郎

10月9日 – 国立熱海病院で死去。奇しくもこの日は、読売巨人軍がセントラルリーグを制覇(5連覇)した日だった。叙・従二位。 14日に日本武道館にて葬儀。
サッカークラブチーム・読売クラブ(後の東京ヴェルディ1969)を立ち上げ、これが事実上正力の最後の仕事となった。

渋沢栄一の名言・格言

江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父といわれる。理化学研究所の創設者でもある。

渋沢栄一の名言

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「もうこれで満足だという時は、 すなわち衰える時である。」

「人は全て自主独立すべきものである。 自立の精神は人への思いやりと共に 人生の根本を成すものである。」

「商売をする上で重要なのは、 競争しながらでも 道徳を守るということだ。」

「全て形式に流れると 精神が乏しくなる。 何でも日々新たにという 心がけが大事である。」

「人は死ぬまで 同じ事をするものではない。 理想にしたがって生きるのが 素晴らしいのだ。」

「事業には信用が第一である。 世間の信用を得るには、 世間を信用することだ。 個人も同じである。 自分が相手を疑いながら、 自分を信用せよとは虫のいい話だ。」

参考動画

28歳の渋沢栄一

明治維新によりフランスより帰国、静岡で慶喜に面会。
静岡藩より出仕することを命ぜられるも慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受し、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、及び新政府からの拝借金返済の為、明治2年(1869年)1月、静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省する。