彼の工場は1942年末までに、巨大な琺瑯容器工場にして、軍需工場に成長していった。 45,000 m²の敷地に800人近い労働者がここで働いたのである。その中にはクラクフ・ゲットーのユダヤ人370人もいた。
カテゴリー: 実業家
35歳のオスカー・シンドラー
クラクフのゲットーは解体され、ユダヤ人たちは、クラクフ郊外のプワシュフ強制収容所へ移送された。
シンドラーは、残忍な強制収容所所長の親衛隊大尉アーモン・ゲートが、彼の飲み仲間でもあったことから、彼の工場にユダヤ人労働者のための小屋を建てさせてくれるようにと説得した。
この秘密交渉で、彼はそのユダヤ人労働者に比較的快適な生活条件を提供し、貧弱な栄養状態を補ってやることが出来るようになった。このための食糧は、シンドラーがすべて闇の市場で調達してきた。収容所の親衛隊の警備兵たちは、工場の敷地内への立ち入りは禁止されたのである。
シンドラーのユダヤ人救済において大きな力となったのは、彼の工場が“軍需工場”ということでポーランド占領のドイツ軍司令部からも特別の格付けを承認されていたことである。
労働者が工場の生産ラインに不可欠だと主張することで、雇用者が絶滅収容所へ移送される危険がせまった時にも特例措置を働きかけた。
36歳のオスカー・シンドラー
1944年末、ソビエト連邦の赤軍の侵攻により、すべての収容施設の解体を余儀なくされ、
ここにいた20,000人以上のユダヤ人が絶滅収容所に移送された。
シンドラーは、ドイツ軍の司令官から、彼とその妻がズデーテン地方のブリュンリッツ(現・チェコのブルニェネツ Brněnec)で新たに手に入れた工場で「軍需物資の生産」を継続し、そのための労働者を連れていくという許可を得た。
その労働力には、プワシュフの収容所からかなりの大人数が選ばれ、総数で800人にもなった。そのうち700人がユダヤ人、300人が女性だった。
ところが女性たちをのせた列車は強制収容所アウシュヴィッツに進行することとなった。
シンドラーは、グロース・ローゼンの収容所から人々を助け出しに駆けつけ、彼らを助け出すことに成功した。シンドラーが、ユダヤ人1人当たり1日につきゲシュタポに7マルク支払うことを約束し、彼の秘書がアウシュヴィッツで女性たちを更に移送する交渉を行ったのである。これは、絶滅収容所の運用期間中において最も多くの集団が出て行くことを許されたケースである。
オスカーとエミーリエのシンドラー夫妻は、アウシュヴィッツの収容施設から加えて120人のユダヤ人を救出した。
37歳のオスカー・シンドラー
53歳のオスカー・シンドラー
貿易商の仕事をしたのち、ドイツに帰国した。ドイツでは、セメント工場の仕事をし、これもまた1961年に倒産に追い込まれた。
から次に事業に失敗し、資金繰りで奔走しているシンドラーの噂は彼が救ったユダヤ人にも伝わる。彼らは、シンドラーをイスラエルに招待した。
この時点から、オスカー・シンドラーの「二重生活」が始まる。つまり、年の半分を彼が隠居生活をしているフランクフルトで過ごし、他の半分をエルサレム在住の、彼が救ったユダヤ人たちの下で過ごすということである。
66歳のオスカー・シンドラー
1974年、ドイツのヒルデスハイムで亡くなる。彼の墓は彼自身の希望により、エルサレムのローマ・カトリックの教会墓地にある。
時とともにシンドラーの事績はドイツやポーランドでも次第に忘れ去られていった。彼の名が一般にも広く知られるようになったのは、1982年にオーストラリアの作家トーマス・キニーリーが著したノンフィクション小説『シンドラーの箱船』がベストセラーになり、これをスティーヴン・スピルバーグ監督が映画化した1993年のユニバーサル映画『シンドラーのリスト』が世界的な興行成功を収めたことによる。
正力松太郎の名言・格言
正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年(明治18年)4月11日 – 1969年(昭和44年)10月9日)は、日本の内務官僚、実業家、政治家。元読売新聞社社主。位階勲等は従二位勲一等。富山県高岡市名誉市民。京成電鉄OB。
正力松太郎の名言・格言
多くの人は人の成功を嫉み、反感を持ち、誤解する。嫉みや反感や誤解されるのが嫌だったら、何もしないで役に立たぬ人間になるだけだ。
いまだからやるのだ。
最も重要なことは、自分一人で決めることだ。
僕はよく「愚痴をこぼすな、くよくよ後悔するな」と言っている。第一に時間の空費だし、体も弱る。それに周囲を暗くするから、これほど馬鹿なことはないと思っている。
幼少期の正力松太郎
1885年4月11日 富山県射水市に土建請負業を営む父・正力庄次郎、母・きよの次男として生まれる。松太郎が生まれたとき、父・庄次郎は立山連峰の雪解け水で氾濫した庄川の修復工事に忙しく、松太郎に対面したのはお七夜の晩だった。
元々一介の庶民の出だった正力家が富山県射水市屈指の名家として名を成したのは、松太郎の祖父の庄助がこの地に度々災厄をもたらした庄川の氾濫を防いだ功による。
12歳の正力松太郎
雄神小学校から高岡中学(現富山県立高岡高等学校)に進んだ正力は、「勉強よりは体を鍛えろ」という父親の教えに従って、寄宿舎には入らず、八キロの道のりを地下足袋姿で通った
22歳の正力松太郎
東京帝国大学法科大学独法科入学
26歳の正力松太郎
東京帝国大学卒業。内閣統計局に入る(同郷の南弘の推薦による)
28歳の正力松太郎
警視庁入庁、警務部警務課勤務。
32歳の正力松太郎
早稲田大学の学園騒動を鎮圧。翌年の米騒動鎮圧の功により従六位に叙せられる。
38歳の正力松太郎
1923年(大正12年)6月の日本共産党に対する大規模な一斉取締り(第1次)や、特別高等警察などにも関わり、同年9月に発生した関東大震災の際、社会主義者の扇動による暴動に備えるための警戒・取締りを指揮した。
39歳の正力松太郎
虎ノ門事件を防げなかった責任を問われ懲戒免官。直後、摂政宮(のちの昭和天皇)婚礼により恩赦。
財界人の斡旋と、帝都復興院総裁だった後藤新平の資金援助により、経営不振であった読売新聞社(現・読売新聞東京本社)の経営権を買収し、社長に就任した。正力は、自社主催のイベントや、ラジオ面、地域版の創設や、日曜日の夕刊発行などにより部数を伸ばした。
49歳の正力松太郎
ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらが参加した大リーグ選抜チームを招聘した。アマチュア野球しか存在しなかった日本側でも全日本チームが結成された。後に同チームを基礎として大日本東京野球倶楽部(現讀賣巨人軍)が創設され
50歳の正力松太郎
右翼団体「武神会」長崎勝助のテロに遭い瀕死の重傷。
55歳の正力松太郎
大政翼賛会総務に就任。
58歳の正力松太郎
内閣情報局参与に就任。
60歳の正力松太郎
A級戦犯の第三次戦犯指名となり、逮捕されたが、起訴はされず、巣鴨プリズン収容者の1人となった。
正力が戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後に中央情報局(CIA)の非公然の工作に協力していた記録も残っている。日本へのテレビ放送の導入と原子力発電の導入について、正力はCIAと利害が一致していたので協力し合うことになった。その結果、勝利期および読売新聞社、そして日本テレビ放送網を通じて日本政界に介入する計画がCIAでは「Operation Podalton」と呼ばれていた。
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67歳の正力松太郎
日本テレビ初代社長に就任(1955年まで務める)
1953年に日本テレビ放送網本放送開始。
普及促進とスポンサー獲得のため、キャラバン隊による移動宣伝の他、繁華街、主要鉄道駅、百貨店、公園など人の集まる場所に受像機を常設し、テレビの魅力を直接訴える作戦に打って出た。街頭テレビそのものは、試験放送時代から幾つも存在していたが、大々的な展開は日テレが最初であり、小さい画面にもかかわらず、特に人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には観衆が殺到した。都内各地に街頭テレビを据えた正力は、「台数は少なくても視聴者は多い」とアピールしてスポンサーを説得し、結果、開局7ヶ月で黒字化を達成した。
70歳の正力松太郎
衆議院議員総選挙に富山2区から出馬、当選。
第3次鳩山内閣で北海道開発庁長官
71歳の正力松太郎
前年の原子力基本法が成立し、原子力利用の大綱が定められたことをうけ、1956年原子力委員会の初代委員長に就任。1月4日、日本に原子力発電所を5年後に建設する構想を発表。
これに対して、原子力委員の湯川秀樹は、「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない」と強く訴え、抗議のために辞任した。
初代科学技術庁長官に就任。
関連動画
72歳の正力松太郎
第1次岸内閣改造内閣で国務大臣(国家公安委員会委員長、科学技術庁長官、原子力委員会委員長)に就任。
また、自民党総裁になることも考えていた正力は渡邉恒雄を参謀の中曽根康弘との連絡役に起用していた。
79歳の正力松太郎
長年の懸案だった九州に読売新聞西部本社を設立、1ブロック紙に過ぎなかった読売新聞を正力・務臺との二人三脚で朝日・毎日と肩を並べる全国紙に発展させた。
84歳の正力松太郎
10月9日 – 国立熱海病院で死去。奇しくもこの日は、読売巨人軍がセントラルリーグを制覇(5連覇)した日だった。叙・従二位。 14日に日本武道館にて葬儀。
サッカークラブチーム・読売クラブ(後の東京ヴェルディ1969)を立ち上げ、これが事実上正力の最後の仕事となった。
渋沢栄一の名言・格言
江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父といわれる。理化学研究所の創設者でもある。
渋沢栄一の名言
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「もうこれで満足だという時は、 すなわち衰える時である。」
「人は全て自主独立すべきものである。 自立の精神は人への思いやりと共に 人生の根本を成すものである。」
「商売をする上で重要なのは、 競争しながらでも 道徳を守るということだ。」
「全て形式に流れると 精神が乏しくなる。 何でも日々新たにという 心がけが大事である。」
「人は死ぬまで 同じ事をするものではない。 理想にしたがって生きるのが 素晴らしいのだ。」
「事業には信用が第一である。 世間の信用を得るには、 世間を信用することだ。 個人も同じである。 自分が相手を疑いながら、 自分を信用せよとは虫のいい話だ。」
参考動画
幼少期の渋沢栄一
1840年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれる。
家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問 の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びます。
18歳の渋沢栄一
従妹ちよ(尾高惇忠の妹)と結婚。
23歳の渋沢栄一
高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが、計画を中止し京都に出奔。
24歳の渋沢栄一
一橋慶喜に仕える。
25歳の渋沢栄一
一橋家歩兵取立御用掛を命ぜられ領内を巡歴。
26歳の渋沢栄一
徳川慶喜、征夷大将軍となり、 栄一は幕臣となる。
27歳の渋沢栄一
徳川昭武に従ってフランスへ出立(パリ万博使節団)。
28歳の渋沢栄一
明治維新によりフランスより帰国、静岡で慶喜に面会。
静岡藩より出仕することを命ぜられるも慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受し、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、及び新政府からの拝借金返済の為、明治2年(1869年)1月、静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省する。
29歳の渋沢栄一
明治政府に仕え、民部省租税正と なる。
30歳の渋沢栄一
官営富岡製糸場設置主任となる。
33歳の渋沢栄一
大蔵省を辞める。第一国立銀行開業・総監役。
渋沢栄一は、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。抄紙会社創立(後に王子製紙会社・取締役会長)。
35歳の渋沢栄一
第一国立銀行(後のみずほ銀行)頭取。
第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。
38歳の渋沢栄一
東京商法会議所創立・会頭(後に東京商業会議所・会頭)。
40歳の渋沢栄一
博愛社創立・社員(後に日本赤十字社・常議員)。
42歳の渋沢栄一
ちよ夫人死去。
43歳の渋沢栄一
伊藤かねと再婚。
44歳の渋沢栄一
日本鉄道会社理事委員(後に取締役)。
45歳の渋沢栄一
日本郵船会社創立(後に取締役)。東京養育院院長に、身寄りのない子ども、老人、路上生活者や障害のある人などを救済する日本で最初の公立救貧施設でした。。
47歳の渋沢栄一
帝国ホテル創立・発起人総代(後に取締役会長)。
48歳の渋沢栄一
札幌麦酒会社創立・発起人総代(後に取締役会長)。
東京女学館開校・会計監督(後に館長)。
49歳の渋沢栄一
東京石川島造船所創立・委員(後に取締役会長)。
50歳の渋沢栄一
貴族院議員に任ぜられる。
51歳の渋沢栄一
東京交換所創立・委員長。
52歳の渋沢栄一
東京貯蓄銀行創立・取締役(後に取締役会長)。
55歳の渋沢栄一
北越鉄道会社創立・監査役(後に相談役)。
56歳の渋沢栄一
日本精糖会社創立・取締役。
57歳の渋沢栄一
澁澤倉庫部開業(後に澁澤倉庫会社・発起人)。
61歳の渋沢栄一
日本女子大学校開校・会計監督。(後に校長)
64歳の渋沢栄一
風邪をこじらせ長期に静養。
66歳の渋沢栄一
東京電力会社創立・取締役。京阪電気鉄道会社創立・創立委員長(後に相談役)。
67歳の渋沢栄一
帝国劇場会社創立・創立委員長(後に取締役会長)。
69歳の渋沢栄一
多くの企業・団体の役員を辞任。
渡米実業団を組織し団長として渡米。 タフト大統領と会見。
70歳の渋沢栄一
政府諮問機関の生産調査会創立・副会長。