勲一等に叙し瑞宝章を授与される。
カテゴリー: 実業家
72歳の渋沢栄一
ニューヨーク日本協会協賛会創立・名誉委員長。
73歳の渋沢栄一
日本結核予防協会創立・副会頭。(後に会頭)
74歳の渋沢栄一
日中経済界の提携のため中国訪問。
75歳の渋沢栄一
パナマ運河開通博覧会のため渡米。ウイルソン大統領と会見もしている。
76歳の渋沢栄一
第一銀行の頭取等を辞め実業界を引退。
77歳の渋沢栄一
日米協会創立・名誉副会長。
78歳の渋沢栄一
渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』(竜門社)刊行。
80歳の渋沢栄一
日本国際連盟協会創立・会長。国際平和を訴える。
81歳の渋沢栄一
排日問題善後策を講ずるため渡米。ハーディング大統領と会見。
83歳の渋沢栄一
大震災善後会創立・副会長。
84歳の渋沢栄一
東京女学館・館長。
86歳の渋沢栄一
日本太平洋問題調査会創立・評議員会長。日本放送協会創立・顧問。
87歳の渋沢栄一
日本国際児童親善会創立・会長。日米親善人形歓迎会を主催。
88歳の渋沢栄一
日本航空輸送会社(後のJAL)創立・創立委員長。日本女子高等商業学校(後の嘉悦学園)発起人。
89歳の渋沢栄一
中央盲人福祉協会創立・会長。
90歳の渋沢栄一
海外植民学校顧問。
91歳の渋沢栄一
11月11日永眠。
岩崎弥太郎の名言
日本の実業家。三菱財閥の創業者で初代総帥。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物。
弥太郎には多くの子供がいるが、正妻3人のみである。次男・豊弥は養子(実父は郷純造)、他の子供は弥太郎と妾(死亡当時6人いた)との間に生まれた子供たちである。
名言
「経済的な分野で成功を収めた人たちの名言を収録しています。
創業は大胆に、事業を受け継ぐには小心で当たれ。」
「およそ事業をするには、まず人に与えることが必要である。それは、必ず大きな利益をもたらすからである。」
「小事にあくせくするものは大事ならず。ひとたび着手せし事業は必ず成功を期せ。決して投機的な事業を企てるなかれ。国家的観念を持って全ての事業に当たれ。」
「部下を優遇し、事業の利益はなるべく多く彼らに分け与えよ。」
幼少期の岩崎弥太郎
土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎弥次郎と美和の長男として生まれる。
14歳の岩崎弥太郎
幼い頃から文才を発揮し、14歳頃には当時の藩主・山内豊熈に漢詩を披露し才を認められる。
19歳の岩崎弥太郎
エネルギッシュな若者に育った彌太郎は、江戸遊学への思いを募らせる。その夢が、奥宮慥斎の従者ということで実現する。
20歳の岩崎弥太郎
江戸遊学で安積艮斎の塾に入塾するが、父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。父の冤罪を訴えたことにより弥太郎も投獄されるが、この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが、後に商業の道に進む機縁となった。
23歳の岩崎弥太郎
出獄後、村を追放されるが、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾。後藤象二郎らの知遇を得る。
24歳の岩崎弥太郎
東洋が参政となるとこれに仕え、藩吏の一員として長崎に派遣されるが、公金で遊蕩したことから半年後に帰国させられる。
27歳の岩崎弥太郎
喜勢と結婚、長男・久彌が誕生する。
32歳の岩崎弥太郎
後藤象二郎に藩の商務組織、土佐商会の主任・長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。グラバー、ウォルシュ兄弟などの世界の商人を相手に経済官僚として奮戦した。
坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の経理を担当した。龍馬の「世界の海援隊を目指す」考え方に共感する。しかし二人が出会い、わずか数ヵ月で龍馬は暗殺されてしまう。弥太郎は龍馬の遺志を受け継ぎ、世界の海援隊を実現させることを決断。そして弥太郎は解散した海援隊の人間を土佐商会で引き取る。
34歳の岩崎弥太郎
開成館大阪出張所に異動。土佐藩士たちが設立した海運を主事業とする九十九商会の活動を監督した。
38歳の岩崎弥太郎
九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立。三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせ、広く知られる三菱のマーク「スリーダイヤ」を作った。
最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引であった。弥太郎は最初から政商として暗躍した。
39歳の岩崎弥太郎
台湾出兵に際して軍事輸送を引き受け、政府の信任を得る。1875年 横浜・上海間航路が開かれると、外国企業との攻防が始まる。三菱は政府御用達となる。
41歳の岩崎弥太郎
台湾出兵後、海運会社の育成が急務とされ、船員養成を目的に三菱商船学校(現国立大学法人東京海洋大学海洋工学部)が設立される。1878年には実業家育成の為の三菱商業学校も開校した。
44歳の岩崎弥太郎
吉岡銅山の入手をはじめ、金融や倉庫業、水道事業、海上保険、生命保険など、あらゆる分野に参入した。
47歳の岩崎弥太郎
大久保利通が暗殺され、1881年には政変で大隈重信が失脚したことで、弥太郎は強力な後援者を失う。大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強める。
1882年には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさだった。共倒れを危惧した政府の仲介で両社は合併を決定。1884年に日本郵船が発足する。
50歳の岩崎弥太郎
パシフィック・メール社やP&O社などの外国資本とも熾烈な競争を行い、これに対し弥太郎は船荷を担保にして資金を融資するという荷為替金融(この事業が後の三菱銀行に発展)を考案し勝利した。こうしたライバルとの競争の最中、1885年2月7日、弥太郎は51歳で病死した。
遺志に従って三菱は彌之助が引き継ぎ、さらに久彌、小彌太が継承し、そして、世紀を二度跨いで今日の三菱グループとなった。