連合艦隊司令長官に就任。
投稿者: agebook_ito
56歳の山本五十六(1940年)
日独三国同盟の締結。
五十六は、米英との関係悪化・距離が遠くドイツやイタリアとの支援ができないなどを理由に反対する。
※三国同盟賛成派によって、山本五十六を悪くするプロパガンダが展開された
57歳の山本五十六(1941年)
太平洋戦争の勃発。
アメリカとの開戦に反対していたが、連合艦隊司令長官としてハワイ真珠湾攻撃を命じる。
59歳の山本五十六(1943年)
ブーゲンビル上空で米軍の襲撃で戦死。59歳。
い号作戦(日本軍によるソロモン諸島、ニューギニア島の連合国艦隊への攻撃)成功後に、パプアニューギニア島の前線航空基地の将兵をねぎらうために、五十六自ら行く予定を立てた。
しかし、戦艦「武蔵」から送られた暗号をアメリカ海軍に解読され、4月18日に襲撃され戦死した。
山本五十六の死は1ヶ月以上隠され、その死が新聞で世にでると、多くの国民が衝撃を受けたと言われている。
また、6月5には日比谷公園で国葬が行われた。
※皇族、華族以外で初めて国葬がおこなわれた人物
黒田官兵衛の名言・格言
戦国時代から江戸時代に活躍した武士、大名。筑前国福岡藩の祖。キリシタン大名。
「天下に最も多きは人なり。最も少なきも人なり」
「まず自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせていれば、叱ったり脅したりしなくても、自然に威は備わるものだ。」
「神の罰や主人への罰は謝れば良いけど、臣下や領民に恨まれては許してもらえず、国を失うことになる。だから下の立場の者から恨みを買うことはないようにしなければ。」
「上司の人選ミスは、仕事のミスをした部下の失敗よりも重い」
幼少期の黒田官兵衛
母が亡くなる。
この頃から文学に励むようになる。
この時、円満という僧侶から軍師・張良の話を聞かされた。
※張良は漢(中国)の高祖・劉邦に仕えた軍師
幼少期の黒田官兵衛
播磨国(現 兵庫県南部)の姫路で生まれる。幼名は万吉。
父は黒田職隆(播磨国御着城主・小寺政職の家臣で、姫路城城代)。
※黒田一門は小寺の名を名乗っている
16歳の黒田官兵衛(1562年)
小寺政職の近習(主君のぞばに仕える者)となる。
父とともに土豪を討伐し初陣を飾る。
18歳の黒田官兵衛(1564年)
官兵衛の姉か妹が備前国の戦国大名浦上政宗の次男・清宗に嫁ぐ。
しかし、婚礼当日に浦上家と対立する龍野城主・赤松政秀の襲撃に遭い、官兵衛の姉か妹は政宗・清宗ともに討たれる。
21歳の黒田官兵衛(1567年)
21歳の時に父から黒田家の家督を継ぎ姫路城城代となる。
小寺政職の銘・光(てる)を正室に迎える。
23歳の黒田官兵衛(1569年)
青山・土器山の戦いが勃発。
龍野城主・赤松政秀が3000の兵で姫路城へ侵攻してくる。
この戦いで黒田軍は300程度しかいなかったが、英賀城城主・三木通秋の援軍もあり、なんとか赤松軍を撃退する。
しかし、重臣の井手友氏(叔父)・母里小兵衛・母里武兵衛(官兵衛の幼なじみ)が戦死した。
29歳の黒田官兵衛(1575年)
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の取り次ぎにより、岐阜城で織田信長に謁見する。
31歳の黒田官兵衛(1577年)
長男の松寿丸(後の黒田長政)を織田信長のもとへ人質として送る。
※松寿丸は秀吉の居城・長浜城で過ごす
主君の小寺政職ら播磨国の大名や領主らが毛利方に付こうとする中、黒田家は織田方に従う姿勢を見せ、織田家家臣の羽柴秀吉に姫路城を明け渡す。
また、官兵衛は秀吉の参謀として仕える。
32歳の黒田官兵衛(1578年)
有岡城主で織田家家臣であった荒木村重が謀反を起こす。
この時、官兵衛は旧知の仲であった荒木村重を説得しに行くが幽閉される。
幽閉は約1年続き、この間に皮膚病を煩い片脚が曲がってしまう。
一方、黒田官兵衛が戻ってこないことに織田信長は寝返ったと思い、人質だった松寿丸の処刑を命じる。
しかし、秀吉の参謀であった竹中半兵衛が偽の首を送るように秀吉に進言し、松寿丸を助けた。
34歳の黒田官兵衛(1580年)
主君・小寺政職が織田軍によって討伐され、大名・小寺家が滅ぶ。
これ以降、織田家臣として羽柴秀吉に仕えた。
36歳の黒田官兵衛(1582年)
毛利方の備中高松城を攻める。
この城攻めでは秀吉が水攻めを行うが、堤防を築いて水をせき止めるという最初の策を失敗するが、官兵衛が考案した船に土嚢を積んで沈める策で水攻めが成功する。
6月に本能寺で織田信長が死亡(本能寺の変)。
官兵衛は毛利家との和睦を秀吉に進言し中国大返しを成功させる。
山崎の戦いでも活躍し羽柴軍を勝利に導く。
39歳の黒田官兵衛(1585年)
四国攻めに宇喜多秀家の軍監として参戦。
※軍監とは軍事を監督する職
キリスト教の洗礼を受け「シメオン」の名を与えられる。
40歳の黒田官兵衛(1586年)
九州征伐に毛利勢の軍監として参戦。
日向方面(現 宮崎県)の先鋒を務め島津軍を破る(根城坂の戦い)。
九州平定後は豊前国(現 福岡県東部、大分県北部)を与えられる。
43歳の黒田官兵衛(1589年)
家督を嫡男の黒田長政に譲る。
44歳の黒田官兵衛(1590年)
小田原征伐。
官兵衛が降伏の使者として小田原城へ行き無血開城させる。
46歳の黒田官兵衛(1592年)
文禄の役。
総大将・宇喜多秀家の軍監として参戦。
晋州城攻めに加わる。
途中に病のため日本に帰るも、秀吉に戦線離脱したと見なされ追い返される。
51歳の黒田官兵衛(1597年)
慶長の役。
総大将・小早川秀秋の軍監として参戦。
蔚山城の加藤清正の所へ息子・黒田長政が救援へ行った際に、長政が留守にした梁山城が敵兵に襲われると救援に駆けつける。
52歳の黒田官兵衛(1598年)
豊臣秀吉が死去。
54歳の黒田官兵衛(1600年)
関ヶ原の戦いが勃発。
石田三成と厳しく対立してきた息子の黒田長政は、東軍の将として関ヶ原に参陣、家康とともに西上。
官兵衛は九州にいた。正面からぶつかることはせず、西軍につく不利を説き、説得にあたったものの不発。東軍方に味方し、九州にて西軍方の大友氏や毛利氏と戦う。
武将として、類いまれな活躍をした黒田父子は、筑前一国52万石を与えられる。
58歳の黒田官兵衛(1604年)
慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見の邸で亡くなる。
遺言はシンプルで、葬儀は地味に、国を治め、民を安んじるよう長政に伝えます。
辞世の句は
おもひおく 言の葉なくて つひにゆく みちはまよわじ なるにまかせて
※意訳:思い残す言葉もなくて、ついに最期の時を迎えた。この先の道にも迷わない なるがままに任せていこう
源頼朝の名言・格言
平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武士、政治家。
鎌倉幕府の初代征夷大将軍。
「自分の身を重々しく、気長に心を保つようにし、軽率な行動はすることなく、力のなさそうな的を見ても侮らず、冷静にじっくりと計画を練るようにせよ。」
「大きな野望をかなえようと考えている者は、こまkなことを咎めることをせず、ささいなことを取り立てて問題にしないのである。」
「今は天下が始まろうとしている次期であり、それがばぜ必要とされているのかの根本的な理由を、深く突き詰めて考えるべきである。」
「合戦の時は、諸国の住民の気持ちを大切にする必要がある。」
幼少期の源頼朝
尾張国熱田(現 愛知県名古屋市熱田区)で生まれる。幼名は鬼武丸。
父は河内源氏の源義朝。母は由良御前(熱田大宮司・藤原季範)。
9歳の源頼朝(1156年)
保元の乱が起こる。
※保元の乱とは朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し戦った政変
この戦いで、父の源義朝は後白河天皇側につき勝利する(味方には平清盛もいた)。
一方、祖父の源為義は崇徳上皇側につき負け、義朝によって斬首される。
11歳の源頼朝(1158年)
後白河天皇の准母(じゅんぼ、生母ではない女性が母として擬された称号)・統子内親王の皇后宮権少進となる。
12歳の源頼朝(1159年)
上西門院(統子内親王の院号)ならびに二条天皇の蔵人(秘書的存在)となる。
平治の乱が起こる。
※平治の乱とは後白河上皇の家臣(院近臣)間の対立(平氏vs源氏)によって起こった政変。
この戦いで、源氏は敗れ父・兄弟とともに東国へ逃げる。
逃げる途中で離ればなれになり父は謀殺、次兄は傷の悪化で死亡、長兄は捕らえられ処刑される。
一方、頼朝は近江国(現 滋賀県)で捕らえられるが、平清盛の養母・池禅尼の助命嘆願によって処刑は免れ伊豆国へ流された。
33歳の源頼朝(1180年)
後白河法皇の皇子・以仁王から平家追討の令旨(命令書)が届く。
京都の宇治で以仁王が敗死したことで、頼朝はしばらく動かなかったが、平家が源氏追討を企てたことで挙兵を決意する。
しかし、相模国真鶴(現 神奈川県小田原市)で平家方に敗れ、安房国(千葉県南部)に逃れた。
安房国へ逃れたものの、房総半島に勢力を持っていた上総氏や千葉氏を配下にし、さらに武蔵国でも配下を増やすと鎌倉へ向かう。
そして、平維盛(清盛の孫)を富士川の戦いで破った。
さらに、全国各地の源氏が平家打倒のため挙兵する。
34歳の源頼朝(1181年)
平清盛が死去。
この頃の頼朝は、北関東の平家方残党や奥州藤原氏とも対峙していた。
また、後白河法皇を介して平宗盛(清盛の3男)と和睦をしようとするが失敗する。
36歳の源頼朝(1183年)
関東を完全に支配する。
しかし、従兄弟の源義仲と対立し、武力衝突寸前まで行くがなんとか和議を成立させる。
※義仲は後に源義経によって討たれる
37歳の源頼朝(1184年)
1月に京へ上洛する。
2月に源義経が一ノ谷の戦いで勝利すると、頼朝は畿内の武士を掌握するとともに四国に逃げた平家追討に動く。
一方、公文所(後の政所、政務と財務を司る)や問注所(訴訟を司る)を開設した。
38歳の源頼朝(1185年)
2月に源義経が屋島の戦いで平家に勝利する。さらに4月には壇ノ浦の戦いで勝利し平家を滅亡させる。
平家を滅ぼした頼朝ではあったが、大きな功績を残した源義経の討伐に動く。
42歳の源頼朝(1189年)
奥州藤原氏を討伐。
6月に奥州藤原氏のもとへ逃れていた源義経の首を取るように圧力をかけ、藤原泰衡は源義経の屋敷を襲撃した。
源義経の首を確認した頼朝は7月に奥州藤原氏討伐を開始し、9月には藤原泰衡の首が頼朝の元へ届けられた。
45歳の源頼朝(1192年)
鎌倉幕府の開始。
3月に後白河法皇が崩御すると、7月に即位した後鳥羽天皇によって「征夷大将軍」に任ぜられる。
52歳の源頼朝(1199年)
死去。持仏堂(後の法華堂、白幡神社)に葬られる
毛利元就の名言・格言
室町時代後期から戦国時代にかけての国人領主、戦国大名、毛利氏12代目当主
「一年の計画は春に立て、一ヶ月の計画はその月の一日に立て、一日の計画は朝に立てる」
「百万の心を一つにする」
「言葉は心の使いである、言葉によって、その人の善悪、才能、剛勇か臆病、利口か愚かか、正直かそうでないかがわかる」
「3人の力を一つにまとめよ」
幼少期の毛利元就
3月14日に安芸国の国人領主・毛利弘元の次男として生まれる。幼名は松寿丸。
2歳の毛利元就(1500年)
父の弘元が隠居し、兄の興元が毛利氏の当主となる。
父とともに多治比猿掛城に移る。
8歳の毛利元就(1506年)
父の弘元が死去。
多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛が城を奪ったため追放される。
以後は養母の杉大方に育てられる。
13歳の毛利元就(1511年)
兄・興元の許可で元服する。
名を多治比元就と改め、毛利氏の分家・多治比氏を立てる。
18歳の毛利元就(1516年)
兄で当主の興元が急死する。
後を継いだのは興元の嫡男・幸松丸だったが、2歳であったため元就が20歳で後見となる。
佐東銀山城の武田元繁が吉川領へ侵攻してくると、元就は吉川氏救援のため出陣する。
初陣ではあったが、武田元繁の討ち死にもあって武田軍を撃退させる(有田中井手の戦い)。
この頃に、吉川国経の娘を妻に迎える。
25歳の毛利元就(1523年)
当主の幸松丸が9歳で死去する。
元就は分家であったものの。家臣からの信頼があり毛利氏の当主となる。
この時、元就の家督継承に不満を持っていた相合元綱(元就の異母弟)と家臣を粛清する。
27歳の毛利元就(1525年)
毛利氏の家督相続問題の結果、それまで主従関係にあった尼子氏と手を切る。
※相合元綱は尼子氏が推していた
尼子氏と敵対関係にあった大内氏の傘下に入る。
39歳の毛利元就(1537年)
嫡男の隆元を大内氏のもとへ人質として送る。
42歳の毛利元就(1540年)
尼子氏が居城の吉田郡山城に攻めてくるが撃退する(吉田郡山城の戦い)。
佐東銀山城の武田信実を攻撃し城を落とす。
44歳の毛利元就(1542年)
主君の大内氏に従い、尼子氏の居城・月山富田城を攻める(第一次月山富田城の戦い)。
大内軍は大敗し、元就も負傷する。
46歳の毛利元就(1544年)
3男の隆景を安芸国の国人・小早川氏に養子として送る。
※後に小早川氏を継ぎ、小早川隆景と名乗る
48歳の毛利元就(1546年)
隠居し家督を嫡男の隆元に譲る。
49歳の毛利元就(1547年)
次男の元春を安芸国の国人・吉川氏に養子として送る。
※後に吉川氏を継ぎ、吉川元春と名乗る。
57歳の毛利元就(1555年)
大内氏を乗っ取った陶晴賢を厳島で破る(厳島の戦い)。
59歳の毛利元就(1557年)
大内氏を滅ぼし長門国・周防国を手に入れる(防長経略)。
65歳の毛利元就(1563年)
嫡男の隆元が急死。
67歳の毛利元就(1565年)
尼子氏の居城・月山富田城を攻撃し城を落とす(第二次月山富田城の戦い)。
毛利氏は中国地方の覇者となる。
73歳の毛利元就(1571年)
満73歳で死去。
※後継者は孫の輝元(隆元の子)。
伊達政宗の名言・格言
戦国時代の武将、出羽国・陸奥国の戦国大名、伊達氏第17代目の当主
「仁に過ぎれば弱くなる、義に過ぎれば固くなる、礼に過ぎれば諂い(へつらい)となる、智に過ぎれば嘘をつく、信に過ぎれば損をする」
「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」
「大事の義は、人に談合せず、一心に究めたるが良し」
「朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし、元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ」
幼少期の伊達政宗
9月5日に出羽国の米沢城で生まれる。幼名は梵天丸。
父は伊達氏16代目当主の伊達輝宗。
4歳の頃に天然痘にかかり、右目を失明する。
9歳の伊達政宗(1577年)
11月15日に元服して名を「伊達政宗」に改める。
「政宗」という名は、伊達氏9代目の伊達政宗にあやかった名。