10歳のナポレオン(1779年)

ブリエンヌ陸軍幼年学校に入学。

父のカルロはもともとコルシカ島の判事であり、コルシカ独立戦争(ジェノヴァ共和国や他国からの干渉と戦った独立戦争)では副官をつとめていた。
コルシカ島がフランス王国領となると、フランス王国側へ転身(寝返る)したためフランスの新貴族として認められた。

父が貴族になったためナポレオンは国費で学校に通えた。
陸軍幼年学校は数学で優秀な成績をおさめた。

20歳のナポレオン(1789年)

フランス革命の勃発。
※ブルジョア(市民階級)が起こした王政(当時はブルボン朝)への市民革命

ナポレオンは革命当初は革命に関心が無かった。
しかし、3年後に家が親仏派であったことから、コルシカ島の親英派から弾劾・追放されマルセイユに移住する。

マルセイユではクラリー家の末娘・デジレと結婚する。

24歳のナポレオン(1793年)

大尉に昇進。

フランス革命によってルイ16世やマリーアントワネットらが処刑されると、ジャコバン派の指導者・ロベスピエールが恐怖政治・独裁体制をしいていた。

ナポレオンはロベスピエールにより「貴族士官の亡命」という恩恵を得て大尉に昇進する。
以後、ロベスピエールに従い、王党派(王政支持政党)が起こした蜂起を鎮圧する(トゥーロン攻囲戦)。
この戦いでは、途中から砲兵司令官を務め少佐に昇進している。

25歳のナポレオン(1794年)

テルミドールのクーデターが起こる。
※反ジャコバン派によるクーデター

このクーデターによってロベスピエールが失脚・処刑される。
この時、ナポレオンはイタリア方面軍の砲兵司令官であったが、ロベスピエールと親交があったことから逮捕される。
※処刑はされず降格処分となる

26歳のナポレオン(1795年)

師団陸将に昇進。

パリで王党派が蜂起する(ヴァンデミエールの反乱)。
この蜂起の際に、軍の司令官・バラスと以前からの知り合いだったことから副官に任命される。
ナポレオンは副官として活躍し師団陸将(中将)に昇進。
国外軍司令官ならびに国内軍司令官に任命され「ヴァンデミエール将軍」の異名をとる。

27歳のナポレオン(1796年)

司令官として活躍する。

フランス総裁政府の総裁・バラスによりイタリア方面軍の司令官になる。
当時はフランス革命の影響が欧州各国に広がっており、フランスに対抗しようと半同盟を結んでいた。
このような中、総裁政府はオーストリアを包囲するためにドイツとイタリアの一部方方面から攻略しようとした。
ドイツ側からの部隊が苦戦する中、イタリア方面軍を指揮したナポレオンは連戦連勝を飾る。

翌年にはフランスはオーストリアとカンポ・フォルミオ条約を結び、第一次対仏同盟は崩壊する。

29歳のナポレオン(1798年)

イギリスとの戦い。

オーストリアとの戦いでの功績によって、ナポレオンは今度はエジプト(オスマン帝国の支配下)に進軍する。
エジプトは当時イギリスとインドの交易中継地点であったことから、イギリスを抑えるためにはエジプトを支配下に置く必要性があった。

ナポレオンは軍を率いてカイロを落とす。
しかし、エジプトのアレクサンドリア沿岸でフランス艦隊はイギリス艦隊に敗れる(ナイルの海戦)。
翌年にナポレオンはフランスへ帰還するも、イギリスの主導で第二次対仏大同盟が結成された。

30歳のナポレオン(1799年)

第一統領になる。

エジプトから帰還したナポレオンはフランス民衆から歓喜もって迎えられた。
しかし、この時のフランスはイギリスに敗れたこともあり、ブルジョワジー(中産階級)は総裁政府に対して糾弾する声を上げていた。
※総裁政府は5人の総裁が行政を担当した

このような中、ナポレオンはブルジョワジーの期待に答えて総裁の1人であったエマニュエル・シエイエスらとともにクーデターをおこし(ブリュメールのクーデター)、統領政府(執政政府)を樹立する。
ナポレオンは第一統領(行政権・軍の統帥権を持つ)となる。
※第二、第三統領は諮問機関に近い

35歳のナポレオン(1804年)

皇帝への即位。

第一統領となったナポレオンは次第に独裁体制を築いていく。
内政では産業に力を入れるほか、フランス銀行を設立(1800年)し通貨と経済の安定を図った。また、法整備にも力を入れ、ナポレオン法典を公布する。

外交ではイギリス主導の第二次対仏大同盟を打破すべく、オーストリアと戦い勝利し北イタリアを手に入れる。
また、オーストリアとリュネヴィルの和約を結び、第二次対仏大同盟は崩壊する。

そして、ナポレオンは5月に国会の議決と国民投票によって皇帝に即位する。
※ナポレオン1世
以後10年、ナポレオンは欧州を征服するべく戦争をする(ナポレオン戦争)

36歳のナポレオン(1805年)

第三次対仏大同盟の結成。
※イギリス・神聖ローマ帝国(現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア)・ロシア帝国といった欧州各国の対仏同盟

10月にフランス海軍はイギリス本島に上陸しようしたが、ネルソン率いるイギリス海軍に敗れる(トラファルガーの海戦)。
一方、ナポレオン率いるフランス陸軍はウルム(現在はドイツの都市)近郊で神聖ローマ帝国軍に圧勝しウィーンを占領する。

12月にはアウステルリッツの戦いでロシア・オーストリア連合軍に勝利し、オーストリアとプレスブルク条約を結ぶ(第三次対仏大同盟の崩壊)。

37歳のナポレオン(1806年)

第四次対仏大同盟の結成。
※プロイセン・イギリス・ロシア帝国の対仏同盟

10月にナポレオンはイエナの戦い・アウエルシュタットの戦いでプロイセンに勝利しベルリンを占領する。
これにより、フランスは中央ヨーロッパをほぼ制圧した。

外交ではライン同盟を各国と結び神聖ローマ帝国を解体させるほか、11月には欧州各国に対して大陸封鎖令(イギリスと欧州各国との貿易を禁止する)を出す。

38歳のナポレオン(1807年)

フランス帝政が絶頂期を迎える。

大陸封鎖令によりイギリスを封じ込めたナポレオンは2月と6月にプロイセンと戦い勝利し、プロイセンとティルジット条約を結ぶ。

この条約によってロシア帝国を大陸封鎖令に参加させた他、傀儡国家としてワルシャワ公国とヴェストファーレン王国を建てる。

この時点で、ナポレオンはイギリスとスウェーデン以外の欧州各国を支配下に置いた。

39歳のナポレオン(1808年)

大陸で初の敗北。

同盟国であったスペインの内紛に介入し、兄のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王に就けた。
しかし、マドリードの市民が蜂起を起こしたため、ナポレオンは軍を派遣するがスペイン軍の前に敗北する。

さらに、イギリス・ポルトガル・スペイン連合軍と戦った半島戦争(イベリア半島)でも敗北する。

40歳のナポレオン(1809年)

第五次対仏大同盟の締結。

イベリア半島でのフランス軍の敗北を聞いたオーストリアは反旗を翻し、イギリスと対仏同盟を結ぶ。
しかし、ナポレオンは4月のエックミュールの戦いと7月のヴァグラムの戦いで辛勝し、オーストリアとジェーンブルンの条約を結ぶ(対仏同盟の崩壊)。

43歳のナポレオン(1812年)

ロシア遠征の開始。

ナポレオンによる大陸封鎖令はイギリスだけでなく欧州各国も経済的に困窮した。
そんな中、ロシア帝国が大陸封鎖令を破りイギリスと貿易を再開する。
ナポレオンはロシア遠征を決意し6月に進軍を開始する。

フランス軍はモスクワへ向かって進軍し、ボルジノの戦いなどでロシア軍に勝利し9月にはモスクワを占領。
しかし、ロシア軍がモスクワに火をつけたことで物資が燃え、フランス軍は物資の補給に失敗し撤退を決意する。
フランス軍撤退の知らせを聞いたロシア軍は、フランス軍を追撃し大打撃を与えた。
※国境まで帰還したフランス兵は全軍の1%(約5千人)

フランス軍の敗北を聞いた欧州各国は反フランスに転身し、プロイセンらが第六次対仏大同盟を結成する。

45歳のナポレオン(1814年)

エルバ島への追放。

ロシア遠征の失敗後、ナポレオンは立て直しを図りドレステンの戦い(1813年8月)でオーストリア・ロシア連合軍に勝利したが、ライプツィヒの戦い(1813年10月)で対仏同盟軍に大敗し、ナポレオンはフランスへ逃げ帰った。

1814年に入るとフランスと国境にはオーストリア・プロイセン・スウェーデン・イギリスなどの連合軍が包囲し、3月にはパリが陥落する。

ナポレオンは外交で自信の退位ならびに終戦を図ったが、部下の裏切りによって無条件で退位させられた。

この後、ナポレオンはエルバ島(イタリア半島とコルシカ島の間にある島)に追放された。

46歳のナポレオン(1815年)

再び即位する。

ナポレオンの失脚後、欧州ではウィーン会議が開かれたが各国の思惑が入り乱れてうまく進まなかった。

そんな中、2月にナポレオンはエルバ島を脱出してパリに戻り再び帝位についた。
この時、ナポレオンは武力ではなく話し合いで解決しようと考え、連合国側に講和を提案した。
しかし、連合国側はこの講和を拒否し戦争が起こる。

フランス軍は序盤は優勢であったものの、6月のイギリス・プロイセン連合国との戦い(ワーテルローの戦い)で大敗し降伏する。

ナポレオンは南大西洋のセントヘレナ島へ流され幽閉される。

エイブラハム・リンカーンの名言・格言

エイブラハム・リンカーン (Lincoln,Abraham)

アメリカ合衆国の第16代大統領。
南北戦争を終結させ、奴隷解放宣言を発布して「奴隷解放の父」と呼ばれた。
アメリカが生んだもっとも偉大な政治家であり、卓越した文学的才能の持ち主であり、広い世界観と深い道徳性を兼ね備えた人物。

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リンカーンの残した名言
Those who deny freedom to others deserve it not for themselves.
「他人の自由を否定する者は、自らも自由になるに値しない」

I am not concerned that you have fallen – I am concerned that you arise.
「あなたが転んでしまったことを心配しているのではない。そこからどう立ち上がるかが心配なのだ」

I walk slowly, but I never walk backward.
「私の歩みは遅い、しかし歩んだ道を後戻りすることはない」

It’s not the years in your life that count. It’s the life in your years.
「何歳まで生きたかは重要ではない。いかにして生きたかが重要だ」

I will prepare and someday my chance will come.
「準備しておこう。チャンスはいずれ来る」

That some achieve great success, is proof to all that others can achieve it as well. 「誰かが成功を収めることができたということは、他の人にも同じ事ができるということの証明である」

25歳のエイブラハム・リンカーン(1834年)

1834年8月、イリノイ州議会議員選挙にホイッグ党から再び立候補し、最多票を得て当選。
その後3回再選され、8年間務める。

このころから、州議会議員の仕事と並行して、弁護士となるべく独学で法律の勉強を本格的に進める

28歳のエイブラハム・リンカーン(1837年)

1837年スプリングフィールドで、州内で指折りの法律事務所「ジョン・トッド・スチュアート」に入所。弁護士活動も始める。
当時、すでに政治家としては州のホイッグ党を率いる神童的指導者として評判を得ていた

同僚たちのリンカーン評
「彼は悲しげな顔つきをした男で、陰気で、メランコリックだった」(ウィリアム・ハーンドン)
「持って生まれたメランコリーで、意気消沈の発作に陥りやすかった」(O・H・ブラウニング)
「メランコリーが常態で、時にそれが際立ち、時に極めて穏やかになったが、消え去ることはなく、一抹の悲哀感が残った。それを消し去るのが笑顔で、これは頻繁に見られた」(ジェイムズ・リーメン二世)

以降4年間、ジョシュア・スピードという青年と同居していた。

41歳のエイブラハム・リンカーン(1850年)

1850年2月1日 次男エデイが3歳で死去、

このころ「巡回裁判」のため、イリノイ州中を出張。スプリングフィールドに居たのはわずか100日という。

この時期のリンカーンの人生の主要な特徴は「政治家と弁護士の二足の草鞋で重労働をこなした」ことだとされる。

45歳のエイブラハム・リンカーン(1854年)

1854年1月23日、後にリンカーンの好敵手となるダグラス上院議員が、「カンザス・ネブラスカ準州法案」を連邦議会に提出。
5月30日、大差で同法が成立(北緯36度30分以北の準州に奴隷制を住民主権に委ねる法律が施行されることになった)
7月6日、奴隷制への対処を念頭に「共和党」がミシガン州ジャクソンで結成される。
10月16日、「ペオリアの演説」で、奴隷制の拡大に反対する演説を行う。

49歳のエイブラハム・リンカーン(1858年)

1858年6月16日、イリノイ州の共和党大会で連邦上院議員の共和党候補者として選出。その際、「分かれたる家は立つこと能わず」と演説。北部の有力政治家として初めて連邦の南北分裂に言及した

中間選挙において、奴隷制維持論者の民主党ダグラスと選挙戦を戦うことになる。全米の注目を集める。8月から10月まで計7回の立会演説会を実施。奴隷制を徹底的に批判し、その拡大に歯止めをかけるべきと主張した。選挙結果は当選しなかったものの、共和党の有力政治家として全国的に知られる存在となった

51歳のエイブラハム・リンカーン(1860年)

1860年2月27日、ニューヨークのクーパー・インスティテュートで「南部の現存する奴隷制度について、穏健な態度と方法で奴隷制の拡大を毅然として阻止すべきだ」と演説。演説内容は新聞に全文掲載され、東部における名声を不動のものとした。
5月16日の共和党全国大会において合衆国大統領候補に指名される。
11月6日、大統領選挙が実施され、民主党ダグラス候補に大差をつけて当選を果たす
12月20日、サウスカロライナ州が連邦から離脱し、翌年にかけて計13州が連邦を脱退

52歳のエイブラハム・リンカーン(1861年)

1861年2月4日、南部諸州が「アメリカ連合国(通称「南部連合」)を結成
3月4日、第16代大統領に就任。
4月12日、南部連合軍の攻撃により、南北戦争始まる
7月21日、第一次ブルランの戦いで、北軍は壊滅的な敗北を喫する。以降、南軍優勢で戦局が推移する

53歳のエイブラハム・リンカーン(1862年)

1862年2月16日、ドネルソン要塞の戦いで、北軍のグラント将軍が初の大勝利を得る。その後一進一退が続く
7月22日、奴隷解放宣言の最初の草案を閣議に提出
9月17日、アンティータムの戦いで、北軍が南軍リー将軍に勝利
9月22日、奴隷解放予備宣言を布告

54歳のエイブラハム・リンカーン(1863年)

1863年1月1日、奴隷解放宣言を発布。
7月1日、ゲティスバーグの戦い始まる(7月4日に南軍リー将軍が退却、北軍の勝利となった) ※南北戦争最大の激戦で、両軍の戦死傷者は5万人以上に上った
11月19日、ゲティスバーグに国立墓地を作る式典において、戦没将兵にささげる演説を行い、アメリカの新しい自由の誕生と民主政治の根本を簡潔に格調高く表現した不朽の名演説として語り継がれている
12月8日、南部反乱州に対する「大赦と再建の宣言」を布告

 

「ゲティスバーグの演説」

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It is for us the living, rather, to be dedicated here to the unfinished work which they who fought here have thus far so nobly advanced. It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us – that from these honored dead we take increased devotion to that cause for which they gave the last full measure of devotion – that we here highly resolve that these dead shall not have died in vain – that this nation, under God, shall have a new birth of freedom – and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.

「ここで戦った人々が気高くもここまで勇敢に推し進めてきた未完の事業にここでささげるべきは、むしろ生きているわれわれなのである。われわれの目の前に残された偉大な事業にここで身をささげるべきは、むしろわれわれ自身なのである。―それは、名誉ある戦死者たちが、最後の全力を尽くして身命をささげた偉大な大義に対して、彼らの後を受け継いで、われわれが一層の献身を決意することであり、これらの戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、われわれがここで固く決意することである。(米国大使館訳)」

55歳のエイブラハム・リンカーン(1864年)

1864年3月9日、ユリシーズ・S・グラント将軍を連邦軍総司令官に任命。これにより3年に及ぶ内戦を決定的勝利の方向に導くことができた
9月2日、北軍、南部の中心地アトランタを占領し、北軍の勝利はもはや動かしがたいものに。
11月8日、大統領選挙の結果、圧倒的多数の支持を受けて再選

56歳のエイブラハム・リンカーン(1865年)

1865年2月3日、ハンプトン・ローズ会議(非公式な和平会議)がモンロー砦で開催。物別れに終わる
3月4日 2期目の大統領に就任
4月9日、南軍のリー将軍、アポマトックスで北軍のグラント将軍に降伏。南北戦争終結
4月14日、観劇中のワシントン市内フォード劇場において、南部連合の熱狂的支持者であった役者ジョン・ウィルクス・ブースに狙撃され、翌朝死去

リンカーンが発布した奴隷解放宣言は、大統領の戦時特権に基づいて大統領個人の責任においてなされたもので、法令に基づく一般的恒久的なものではなかった。立法措置は、1865年リンカーン死去後の合衆国憲法修正第13条の奴隷制廃止条項によってなされた

山本五十六の名言・格言

明治時代から昭和時代に活躍した日本の軍人(海軍)。第26・27代連合艦隊司令長官。

「内乱では国は滅びない。戦争で国が滅びる。」

「人は神ではない。誤りをするというところに、人間味がある。」

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」

「どんなことでも部下の失敗の責任は長官にある。下手なところがあったらもう一度使う。そうすれば必ず立派に成し遂げるであろう。」

「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。」

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幼少期の山本五十六

4月4日に新潟県古志郡長岡本町(現在の長岡市)で生まれる(五十六は6男)。

父は旧越後長岡藩士の高野貞吉。
※生まれは山本家ではなく高野家

「五十六」という名は父が56歳の時の子であったため。

幼少の頃から、アメリカ人宣教師のところで聖書を学ぶ。

幼少期の山本五十六

海軍兵学校に32期生として入学(200人中2番で入学)。

兵学校に入学した理由は、10歳年上の甥・高野力が病弱であったため兵学校を諦め病死した時に、力の両親から「五十六が力の代わりに立派な軍人なってくれれば」という話が原因と言われている。

※海軍兵学校は192人中11番で卒業

21歳の山本五十六(1905年)

日露戦争が起こる。

五十六は少尉候補生として装甲巡洋艦「日進」に乗艦する。

ロシア海軍のバルチック艦隊と戦った日本海海戦では、東郷平八郎率いる連合艦隊が勝利しますが、五十六は左手と左足(切断の可能性もあった)に重傷を負う。
※原因は敵砲弾の炸裂か「日進」の砲塔の早発といわれている

45歳の山本五十六(1929年)

ロンドン海軍軍縮会議が開催。

五十六は前首相の若槻禮次郎らと参加し、補助艦の保有を対米7割を主張する。
この会議の際、大蔵省から派遣された賀屋興宣が財政面の問題で反対すると、五十六は「賀屋黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ!」と怒鳴りつける。
また、海軍内で艦隊派(軍令部、軍縮条約に反対)と条約派(海軍省、軍縮条約に賛成)に分かれていたが、艦隊派の支持を受けて出世のきっかけになった。
※結果は対米6割となる
※ちなみに山本五十六は、戦後は三国同盟反対や対米避戦などから条約派といわれている。

52歳の山本五十六(1936年)

2月に二・二六事件が起こる。
※陸軍皇道派の青年将校らが起こしたクーデター未遂事件

この事件では、大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斎藤実らが死亡し、侍従長の鈴木貫太郎(太平洋戦争終了時の総理大臣)が負傷、そして岡田啓介内閣が総辞職した。

五十六はこの事件の際、反乱に賛同した海軍の青年士官を一喝するとともに、鈴木貫太郎や岡田啓介を助けた。

11月には日独防共協定が締結される。
※日独伊防共協定ならびに日独伊三国同盟の前身