23歳の伊藤博文

米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨と共に急ぎ帰国し6月10日に横浜上陸後長州藩へ戻り戦争回避に奔走する。英国公使オールコックと通訳官アーネスト・サトウと会見したが、両名の奔走も空しく、8月5日に4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発、長州の砲台は徹底的に破壊される。

伊藤は戦後、宍戸刑馬こと高杉晋作の通訳として、ユーリアラス号で艦長クーパーとの和平交渉にあたる。

長州藩が第一次長州征伐で幕府に恭順の姿勢を見せると、12月に高杉らに従い力士隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。この時、高杉の元に一番に駆けつけたのは伊藤だった。その後、奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派が藩政を握った。後に伊藤は、この時のことを述懐して、「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」と語っている。

29歳の伊藤博文

工部省の長である工部卿として、殖産興業を推進する。後にこれは、内務卿・大久保利通のもとで内務省へと引き継がれる。また同年11月から翌年5月まで財政幣制調査のため、芳川顕正・福地源一郎らと渡米し、ナショナル・バンクについて学び、帰国後に伊藤の建議により、日本最初の貨幣法である新貨条例が制定される。

31歳の伊藤博文

大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信と共に殖産興業政策の一環として、鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年5月7日(1872年6月12日)に品川 – 横浜間で仮営業を始め、同年9月12日(1872年10月14日)、新橋までの全線が開通した。

41歳の伊藤博文

1882年、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられる。プロイセン憲法の逐条的講義や歴史法学や行政について学ぶ。これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながる。

44歳の伊藤博文

朝鮮で起きた甲申政変の事後処理のため清に派遣され、4月18日には李鴻章との間に天津条約を調印。
12月の内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。
太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。以後、伊藤は4度にわたって内閣総理大臣を務める

45歳の伊藤博文

官僚育成のため帝国大学(現在の東京大学)を創設
当時あまり顧みられていなかった、女子教育の必要性を痛感した伊藤は、自らが創立委員長となり「女子教育奨励会創立委員会」を創設した(翌年には「女子教育奨励会」となる)。委員には、伊藤の他に実業家の渋沢栄一、岩崎弥之助や、東京帝国大学教授のジェムス・ディクソンらが加わり、東京女学館を創設するなど女子教育の普及に積極的に取り組んだ。

46歳の伊藤博文

井上馨を外務大臣として条約改正を任せたが、井上馨が提案した改正案に外国人判事の登用などを盛り込んだことが問題になり、閣内分裂の危機を招いたため外国へ向けた改正会議は中止、9月に井上馨が辞任したため失敗に終わった、同年6月から夏島で伊東巳代治・井上毅・金子堅太郎らと共に憲法草案の検討を開始

53歳の伊藤博文

2度目の首相を務めていた時、日清戦争がおこる。翌年の明治28年(1895年)4月に、陸奥宗光と共に全権大使として、李鴻章との間に下関の春帆楼で講和条約の下関条約(馬関条約)に調印する。また、戦争前に陸奥がイギリスと治外法権撤廃を明記した条約を結び、条約改正に大きく前進した。

59歳の伊藤博文

立憲政友会を創立し、初代総裁を務める。10月に政友会のメンバーを大勢入れた第4次伊藤内閣が発足するが、政党としての内実が整わない状態での組閣だったため、内部分裂を引き起こし翌34年(1901年)5月に辞任。政友会はその後西園寺公望・原敬らが中心となり伊藤の手を離れるが、立憲民政党とならぶ2大政党の1つとなり、大正デモクラシーなどで大きな役割を果たすまでに成長した

61歳の伊藤博文

伊藤は対露宥和政策をとり、陸奥宗光・井上馨らと共に日露協商論・満韓交換論を唱え、ロシアとの不戦を主張した。
1904年から始まった日露戦争をめぐっては、金子堅太郎をアメリカに派遣し、大統領セオドア・ルーズベルトに講和の斡旋を依頼している。1905年のポーツマス条約に結びつく。講和後は、勝利を手にした日本と敗戦国ロシアとの間の戦後処理に奔走

64歳の伊藤博文

韓国統監府が設置されると伊藤が初代統監に就任した。以降、日本は実質的な朝鮮の統治権を掌握した[注釈 3]。

伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄を急ぐ山縣有朋や桂太郎・寺内正毅ら陸軍軍閥と、しばしば対立。
韓国併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取っていた(1907年)。

20歳の福澤諭吉

中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし諭吉本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。
大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から「江戸へは行くな」と引き止められ、「大坂で蘭学を学ぶ」よう説得されれ、大坂の中津藩屋敷に居候しながら緒方洪庵の適塾で学ぶ。

25歳の福澤諭吉

咸臨丸の従者としてアメリカへ立つ。帰国し、蘭学塾から英学塾へと方針を転換する。この時同行した木村摂津守とは晩年まで親交があった。後に慶應義塾の土地を用意したのも木村であった。
アメリカでは文化の違いに驚きをもった。日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民がジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している。

27歳の福澤諭吉

文久遣欧使節に翻訳方として同行する、欧州帝国主義を目の当たりにし衝撃を受ける。
ロンドンでは万国博覧会を視察し、蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。樺太国境問題を討議するために入ったペテルブルクでは、陸軍病院で外科手術を見学した。

28歳の福澤諭吉

帰国後、「西洋事情」などの著書を通じて啓蒙活動を開始。「理化学・器械学」が特に強調されており、病院・銀行・郵便・徴兵の制度や設備についても言及してある。
薩英戦争が起こったことにより幕府の仕事が忙しくなり、外国奉行・松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳に当たった。その後、翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案していった

32歳の福澤諭吉

横浜から再渡米。
帰国後、『西洋旅案内』を書き上げた。この年の末(12月9日)、朝廷は王政復古を宣言した。江戸開城後、諭吉は新政府から出仕を求められたが辞退し、以後も官職に就かなかった。翌年には帯刀をやめて平民となった

40歳の福澤諭吉

大久保利通と会談。大久保は諭吉のことを民権論者の首魁のように思っていたのでそれを否定し会談を終えた(「面白」(流石有名に恥じず。大久保の日記。)による)が、大久保は出版検閲の権限を文部省から内務省に移管したことで、秋山恒太郎が官吏を移動するという災難に遭った。これを見た諭吉は、『民間雑誌』に「内務卿の凶聞」という社説を大久保暗殺後に掲載。これが問題となり、編集長の加藤政之助が内務省警視局に呼び出され、『民間雑誌』は廃刊となる。
そこで目を付けたのが、薩長藩閥では無い、大隈重信の存在だった。諭吉は大隈を頼りに統計院(後の内閣統計局)を設立させる。統計院にはある秘密があり、設立直後から「憲法の調査立案」というおよそ統計と関係の無い機能を併せ持っていた。ここに、矢野文雄・犬養毅・尾崎行雄といった人材を投入し、大隈のブレーンとして活躍できるようにした。

45歳の福澤諭吉

「慶應義塾維持法案」を作成し、自らは経営から手を引き、渡部久馬八・門野幾之進・浜野定四郎の3人に経営を任せることにした。この頃から平民の学生が増えた事により、運営が徐々に黒字化するようになった。
交詢社を結成、専修学校(現専修大学)の創設に協力

46歳の福澤諭吉

明治十四年の政変(憲法制定論議の中でのビスマルク憲法派と議院内閣制派との対立)
伊藤博文と井上毅により大隈重信とそのブレーンの慶應義塾門下生が政府から一掃される。
諭吉は、この事件に際して人生で最も長い手紙を伊藤と井上馨に送った。 この手紙に対して井上は返事の手紙を返したが伊藤は返答しなかったらしい。
さらに井上が大日本帝国憲法・皇室典範・教育勅語・軍人勅諭の起草全てに参加したため、諭吉は伊藤と井上馨との交際を絶つこととなった。

59歳の福澤諭吉

1894年 日清戦争。諭吉は終始、時事新報での言論をもって熱心に政府と軍を支持して戦争遂行を激励した。
日清戦争後の晩年にも午前に3時間から4時間、午後に2時間は勉強し、また居合や米炊きも続け、最期まで無造作な老書生といった風の生活を送ったという。この頃までには慶応義塾は大学部を設けて総生徒数千数百人という巨大学校となっていた。また時事新報も信用の厚い大新聞となっていた

64歳の福澤諭吉

意識不明で倒れるが約1時間後に回復。
19世紀と20世紀の「世紀送迎会」を開催。風刺画などで19世紀を振り返り、20世紀の幕開けとともに「儒学者の夢」「階級制度の弊害」「蓄妾の醜態」という3枚の風刺画に一斉射撃して点火、「二十センチュリー」という花火が夜空に浮かび上がるなど趣向を凝らしたものであった。

幼少期のアインシュタイン

1879年ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州ウルム市にて生まれる。
1880年から1894年の間、ドイツ南部のミュンヘンに居住した。
アインシュタインは、5歳頃まであまり言葉を話さなかったと伝えられる。

12歳のアインシュタイン

叔父からユークリッド幾何学の本をもらい独習。微分学と積分学も、この当時に独学で習得したといわれている。同じ頃、医学生だったマックス・タルメイから天文学の存在を知り、同時に物理学に関心を示すようになったという。

15歳のアインシュタイン

父親が事業に失敗したために一家はイタリアのミラノに引っ越すが、ギムナジウムを卒業する必要からアインシュタインはミュンヘンに残されることになる。しかし、規則ずくめで軍国主義的な校風に反逆して、家を追ってイタリアへやってきた。

16歳のアインシュタイン

スイスのチューリッヒ連邦工科大学を受験するも失敗。しかし数学と物理の点数が最高点だったがため、アーラウのギムナジウム(ドイツ語版)に通うことを条件に、翌年度の入学資格を得られることになった。
アーラウの学校の校風はある程度自由が保障されており、さらにこの学校は視覚教育に力を入れていた。言語に障害があったアインシュタインに、この視覚教育はよく合っていた。
この時期に兵役義務を逃れるためにドイツ国籍を放棄している。これにより、以後スイス国籍を取得するまで無国籍となった。

ある晴れた日の昼休み、アインシュタインは学校の裏にある丘に寝転んで空を眺めていた。いつの間にか眠り込んでしまい、不可思議な夢を見た。それは、自分が光の速さで光を追いかける夢であったという。彼は目が覚めると、すぐに思考実験を試みた。これが後の相対性理論を生み出す切っ掛けになったといわれている。

18歳のアインシュタイン

チューリッヒ連邦工科大学への入学を許可される。
大学では物理学を専攻し、自由な気風と数人の学友、そしてミレーバ・マリッチという女学生と出会う。チューリッヒ連邦工科大学は女性に門戸を開いていた当時の数少ない大学の一つであった。アインシュタインは大学の講義にはあまり出席せず、自分の興味ある分野だけに熱中し、物理の実験は最低の「1」、電気技術では優秀な「6」の成績をとっている。大学時代は、化学の実験中に爆発事故を起こし、学校をパニックに陥れてしまったこともあった。彼は教師には反抗的で、授業をよく休んだ。

22歳のアインシュタイン

チューリッヒ連邦工科大学を卒業したが、大学の物理学部長ハインリヒ・ウェーバー(英語版)と不仲であったために、大学の助手になれなかった。保険外交員、臨時の代理教員や家庭教師のアルバイトで収入を得つつ、論文の執筆に取り組んだ。

24歳のアインシュタイン

友人のマルセル・グロスマンの父親の口利きでベルンの、スイス特許庁に3級技術専門職(審査官)として就職した。年俸は3,500スイス・フランであった。ここで好きな物理学の問題に取り組む自由がたっぷりでき、特許申請書類の中のさまざまな発明理論や数式を知る機会を得る。

この頃、「アカデミー・オリンピア」を設立した。同じ頃、父親ヘルマンが死去する。

ミラノで埋葬を済ませると、再びチューリッヒに戻り、間もなくしてベルンに移った。