33歳のカール・マルクス

ニューヨークで発行されていた当時20万部の発行部数を持っていた急進派新聞『ニューヨーク・トリビューン』のロンドン通信員に。借金に追われるマルクスにとっては重要な収入源だった。マルクスは英語が不自由だったので記事の執筆にあたってもエンゲルスの力を随分と借りたようである。

幼少期のペリー

マシュー・カルブレイス・ペリー
ロードアイランド州ニューポートでアメリカ海軍私掠船長のクリストファー・レイモンド・ペリーと妻セーラの間に三男として生まれる。
兄は米英戦争に従軍し、アメリカ海軍に決定的な勝利をもたらし「エリー湖の英雄」と呼ばれたオリバー・ハザード・ペリー。

52歳のペリー

米墨戦争が勃発すると、後年日本に来航するミシシッピ号の艦長兼本国艦隊副司令として参加、メキシコ湾のベラクルスへの上陸作戦を指揮、後には本国艦隊の司令官に昇進した。
蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めると共に、士官教育にあたり、蒸気船海軍の父(Father of the Steam Navy)とたたえられ、海軍教育の先駆者とされている。

57歳のペリー

1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出していた。そこでは、以下のように述べている。

・任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること。
・日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。
・中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」
・オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。

58歳のペリー

東インド艦隊司令長官に就任、日本開国へ向けて交渉するよう依頼する大統領の親書を手渡すよう指令を与えられた。同年11月、アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアの親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航した。フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊はマデイラ諸島・ケープタウン・モーリシャス・セイロン・シンガポール・マカオ・香港・上海・琉球(沖縄)を経由した。

59歳のペリー

1853年7月8日、浦賀に入港した。7月14日、幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸、戸田氏栄と井戸弘道に大統領の親書を手渡した。ここでは具体的な協議は執り行われず開国の要求をしたのみで、湾を何日か測量した後、幕府から翌年までの猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあり、琉球へ寄港した。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たつた四杯で夜も眠れず」と狂歌に詠まれた。

60歳のペリー

中国で太平天国の乱が起こり、アメリカでの極東事情が変化する中、1854年2月13日に7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に迫り、早期の条約締結を求め、3に神奈川で日米和親条約を調印した。

幕府へ電信機と模型機関車を献上した。
4分の1の大きさの蒸気機関車の模型は、円形のレールの上を実際に走らせ、人々を驚かせた。同模型は、1872年に工部少輔の山尾庸三が京都博覧会で展示するため、正院に払い下げを求め、調査の結果、幕府海軍所が保存していた時代に火災によって失われたことが判ったという
電信機の電線を1km程引き、公開実験を行った。このとき、「YEDO, YOKOHAMA」(江戸、横浜)と打った。針金を通して一瞬にして言葉を送る機械に、当時の人たちは大変驚いた。このエンボッシングモールス電信機は逓信総合博物館に伝わる。

またその後、那覇に寄港して、7月11日、琉球王国とも琉米修好条約を締結した。

晩年のペリー

帰国した後は遠征記などを記す。晩年は鬘を着用していた。また、アルコール使用障害、痛風、リウマチを患っていた。1858年3月4日ニューヨークで死去、63歳だった。墓所はロードアイランド州アイランド墓地にあり、娘アンナとともに納められている。

岩崎弥太郎の名言

日本の実業家。三菱財閥の創業者で初代総帥。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物。
弥太郎には多くの子供がいるが、正妻3人のみである。次男・豊弥は養子(実父は郷純造)、他の子供は弥太郎と妾(死亡当時6人いた)との間に生まれた子供たちである。

名言
「経済的な分野で成功を収めた人たちの名言を収録しています。
創業は大胆に、事業を受け継ぐには小心で当たれ。」
「およそ事業をするには、まず人に与えることが必要である。それは、必ず大きな利益をもたらすからである。」
「小事にあくせくするものは大事ならず。ひとたび着手せし事業は必ず成功を期せ。決して投機的な事業を企てるなかれ。国家的観念を持って全ての事業に当たれ。」
「部下を優遇し、事業の利益はなるべく多く彼らに分け与えよ。」

20歳の岩崎弥太郎

江戸遊学で安積艮斎の塾に入塾するが、父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。父の冤罪を訴えたことにより弥太郎も投獄されるが、この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが、後に商業の道に進む機縁となった。

32歳の岩崎弥太郎

後藤象二郎に藩の商務組織、土佐商会の主任・長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。グラバー、ウォルシュ兄弟などの世界の商人を相手に経済官僚として奮戦した。

坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の経理を担当した。龍馬の「世界の海援隊を目指す」考え方に共感する。しかし二人が出会い、わずか数ヵ月で龍馬は暗殺されてしまう。弥太郎は龍馬の遺志を受け継ぎ、世界の海援隊を実現させることを決断。そして弥太郎は解散した海援隊の人間を土佐商会で引き取る。

38歳の岩崎弥太郎

九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立。三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせ、広く知られる三菱のマーク「スリーダイヤ」を作った。
最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引であった。弥太郎は最初から政商として暗躍した。

47歳の岩崎弥太郎

大久保利通が暗殺され、1881年には政変で大隈重信が失脚したことで、弥太郎は強力な後援者を失う。大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強める。
1882年には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさだった。共倒れを危惧した政府の仲介で両社は合併を決定。1884年に日本郵船が発足する。

50歳の岩崎弥太郎

パシフィック・メール社やP&O社などの外国資本とも熾烈な競争を行い、これに対し弥太郎は船荷を担保にして資金を融資するという荷為替金融(この事業が後の三菱銀行に発展)を考案し勝利した。こうしたライバルとの競争の最中、1885年2月7日、弥太郎は51歳で病死した。

遺志に従って三菱は彌之助が引き継ぎ、さらに久彌、小彌太が継承し、そして、世紀を二度跨いで今日の三菱グループとなった。

幼少期の清水次郎長

1820年、駿河国有渡郡清水町美濃輪町(後の静岡県静岡市清水区)の船持ち船頭・高木三右衛門(雲不見三右衛門)の次男に生まれる。

あととりのいない叔父山本次郎八の養子となる。

周囲が長五郎を次郎八の家の長五郎、次郎長と呼んだことがその由来

自前の廻船業の家に生まれ、米穀商の山本の養子である次郎長にとって、読み書きそろばんのスキルは必須であり、塾に入門をさせられる。

しかし、7歳の頃、村学先生に学ぶも破門。8歳の頃、寺子屋に入門するも破門

悪童で手がつけられなかったため、10歳の頃、伯父の倉沢村兵吉の預かり子となり、一定期間、家を離れ外で育てられることとなった。

15歳の清水次郎長

1834 年、山本の家に戻った。養母のへそくり450両を盗み、江戸を目指す。次郎八が追ってを出し、捕まえるが次郎長は300両しかもっていなかった。その100両について何も答えないところをみて、次郎八は次郎長を放逐した。

次郎長はどうやら捕まることをみこして、100両強を隠していただようだ。その金を持って服を新調し、浜松の米相場を貼り、巨利を得た。

その巨利をもって清水に凱旋し、100両と玄米50石を次郎八に渡し、勘当も解かれた。

養父の次郎八は1835年に死去。次郎長は甲田屋の主人となる。

次郎長は妻帯して家業に従事するが一方では博奕を行い喧嘩も繰り返している。

23歳の清水次郎長

次郎長は喧嘩の果てに人を斬る(殺したと思っていたが一命はとりとめたらしい)。

殺人をした自分との縁があると家族に迷惑がかかると、妻を離別して実姉夫婦に甲田屋の家産を譲り、江尻大熊ら弟分とともに出奔し、無宿人となる。

三河方面に向かい、路銀が尽きた後は、賭場を開き博徒を集めて稼ぎを得た。放漫な生活ぶりではあったが、武術の鍛錬のため、旧備前藩士の浪人小川武一に弟子入りし、剣術だけは磨いていたという。

38歳の清水次郎長

甲州における出入りにおいて役人に追われ、逃亡先の尾張国名古屋で一帯を取り仕切る保下田久六の裏切りに遭い、女房のおちょうを失う(逃亡先で病死)。
1859年には尾張知多亀崎乙川において久六を急襲し、殺害。

久六を殺害された子分・博徒ネットワークは黙っていない。「昼伏夜行」で次郎長一派は尾張からの脱出を試みる。大政、石松などを連れ、甲州上州、越後、加賀、越前、さらに四国へと長い逃避行。

 

41歳の清水次郎長

1860年、子分の石松が、久六とも縁がある都田吉兵衛たちに殺害される。

都田吉兵衛は50両での手打ちを持ちかけたが、次郎長は受け入れない。

下田金平・吉兵衛らが沼津から清水港へ上陸し、次郎長を急襲するも次郎長は不在。

1861年、駿河国江尻追分において石松の敵である都田吉兵衛を殺害する。

48歳の清水次郎長

東海道筋・清水港の警固役を任命された。
旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見され、見張りのため船に残っていた船員全員が交戦によって死亡した(咸臨丸事件)。
その後逆賊として駿河湾に放置されていた遺体を、次郎長は小船を出して収容し、向島の砂浜に埋葬し、翌年には「壮士墓」を建立した。新政府軍より収容作業を咎められたが、死者に官軍も賊軍もないと言って突っぱねたという。

60歳の清水次郎長

1880年頃
清水港の発展のためには茶の販路を拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を設立した。
この他にも県令・大迫貞清の奨めによって静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾の英語教育を熱心に後援したという口碑がある。

64歳の清水次郎長

「賭博犯処分規則」により静岡県警察本所に逮捕される。懲役4年を言い渡されるが、山岡鉄舟や養子とした天田愚庵らの尽力で翌年には釈放される。

天田愚庵が次郎長を釈放するために、世間にその功績を認めさせようと「東海遊侠伝・一名次郎長物語」を出版したのもこの年である。

幼少期の土方歳三

現在の東京都日野市石田)に農家の土方隼人(義諄)と恵津の間に生まれる。10人兄弟の末っ子であった。土方家は「お大尽(だいじん)」とよばれる多摩の豪農であったが、父は歳三の生まれる3ヶ月前の2月5日に結核で亡くなっている。
幼少時には風呂から上がると、よく裸のまま家の柱で相撲の稽古をしていたという

6歳の土方歳三

母と死別。長兄の為次郎は失明していたため、次兄の喜六と、その妻・なかによって養育された。
少年期の歳三は、村では顔に似合わず「バラガキ」(触ると痛いイバラのような乱暴な少年)と呼ばれた。また、生家には、歳三が少年の頃に「武士になりたい。武士になったらこの竹で矢を作る」と言って植えたという竹がある。

25歳の土方歳三

天然理心流に正式入門

天然理心流道場では歳三は中極意目録までの記録しか現存していない。行商中に学んだ様々な流派の クセが取れなかったようである。しかし、多様なバックボーンを備えていたためか、路上での実戦では滅法強かったと言われている。斬り合いの時、足下の砂を 相手にぶつけてひるんだ隙に斬り伏せたり首を絞めて絞殺したり等、剣術修行の型にとらわれず縦横無尽に戦闘をしていたという。

29歳の土方歳三

八月十八日の政変後、壬生浪士組の活躍が認められ新選組が発足。
その後、新見錦が切腹、芹沢鴨などを自らの手で暗殺。権力を握った近藤が局長となった。歳三は副長の地位に就き、近藤の右腕として京都の治安維持にあたった。新選組は副長助勤、監察など職務ごとに系統的な組織作りがなされ、頂点は局長であるが、実際の指揮命令は副長の歳三から発したとされる。

30歳の土方歳三

池田屋事件の際は、半隊を率いて長州藩士・土佐藩士らが頻繁に出入りしていた丹虎(四国屋)方面を探索して廻ったが、こちらは誰もいなかった。すぐさま池田屋の応援に駆けつけたが、直ちに突入せずに池田屋の周りを固め、後から駆けつけた会津藩・桑名藩の兵を池田屋に入れず、新選組の手柄を守った。まだ立場の弱い新選組の事を考えての行動で、歳三らしい冷静な機転である。そのため池田屋事件の恩賞は破格のものとなり、天下に新選組の勇名が轟いた。

34歳の土方歳三

鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発し、歳三は墨染事件で負傷した近藤の代わりに新選組を率いて戦うが、新政府軍の銃撃の前に敗北する。
その後、江戸城に登城した土方歳三は、戦況を尋ねられると、「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を帯び槍を執り、一も用うるところなし」と語り、洋式軍備の必要性を痛感.
新政府軍に包囲された近藤が投降。このとき歳三が近藤の切腹を止めて投降を勧めたとも、最後まで投降に反対したとも言われる。歳三は江戸へ向かい、勝海舟らに直談判し近藤の助命を嘆願したが実現せず、近藤は板橋刑場(現JR板橋駅前に墓所有り)にて斬首された。

35歳の土方歳三

戦いながら蝦夷地(北海道)に逃れる。
榎本を総裁とする「蝦夷共和国」(五稜郭が本陣)が成立し、歳三は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねた。箱館の地でも歳三は冷静だったという。箱館政府が樹立され、榎本らが祝杯を交わしている時も歳三は1人沈黙を保ち、「今は騒ぎ浮かれる時ではない」と言っていたと伝わる。
5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため、歳三は籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣。新政府軍艦「朝陽」が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て「この機会を逃すな!」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役・大野右仲に命じて敗走してくる仲間を率いて進軍させ、「我この柵にありて、退く者を斬る!」と発した。歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦。

鬼のように戦い、馬上で指揮を執った。その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたという。敵の銃弾ないしは流れ弾に当たったとするのが通説だが、降伏に頑強に反対する土方を除くために味方の手によって暗殺されたとする説もある。

16歳の伊藤博文

吉田松陰の松下村塾に入門する。伊藤は友人の稔麿の世話になったが、身分が低いため、塾外で立ち聞きしていたという。
吉田松陰から「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」と評され、「俊輔、周旋(政治)の才あり」とされた。

18歳の伊藤博文

義兄の桂小五郎(後の木戸孝允)の従者となり長州藩の江戸屋敷に移り住んだ。ここで志道聞多(後の井上馨)と出会い、親交を結ぶ。
吉田松蔭が同年10月に安政の大獄で斬首された際、桂の手附として江戸詰めしていた伊藤は、師の遺骸を引き取ることなる。この時、伊藤は自分がしていた帯を遺体に巻いた。この後、桂を始め久坂玄瑞・高杉晋作・井上馨らと尊王攘夷運動に加わる一方で海外渡航も考えるようになる。

21歳の伊藤博文

公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、8月に自害した来原の葬式に参加、12月に品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加し、山尾庸三と共に塙忠宝[注釈 1]・加藤甲次郎を暗殺するなど、尊王攘夷の志士として活動

22歳の伊藤博文

井上馨の薦めで海外渡航を決意、井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉(後の井上勝)らと共に長州五傑の1人としてイギリスに渡航。途中に寄港した清の上海で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられた。
ロンドンでは英語を学ぶと共に博物館・美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広めた。留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じる。