13歳の時に、三春城主・田村清顕の娘(愛姫)を正室に迎える。
投稿者: agebook_ito
13歳の伊達政宗(1581年)
4月に、相馬氏との戦いで初陣を飾る。
この頃から父・伊達輝宗の代理として外交を担当する。
16歳の伊達政宗(1584年)
父から家督を譲られ、17歳で伊達氏の当主となる。
17歳の伊達政宗(1585年)
5月~8月中に隣接する蘆名氏と大内氏を攻める。
※小手森城の城内の者をことごとく撫で切りにする(近隣への見せしめ)
この時に、降伏した二本松義継によって父・伊達輝宗が拉致される。
政宗は義継を追い、阿武隈川付近で父と義継を銃撃する。
※政宗の父殺しの陰謀とも言われている
父の葬儀後、父の弔い合戦として二本松城を包囲するが、11月に二本松の援軍としてきた南奥州諸侯連合軍によって大敗する(人取り橋の戦い)。
19歳の伊達政宗(1587年)
関白・豊臣秀吉の惣無事令を無視し、各地に進軍する。
20歳の伊達政宗(1588年)
大崎氏を攻めるが、伯父・最上義光が大崎氏に付いたため敗れる(大崎合戦)。
しかし、母・義姫の仲介によって和睦し窮地を脱する。
21歳の伊達政宗(1589年)
蘆名氏を摺上原の戦いで破り、蘆名氏を滅ぼす。
22歳の伊達政宗(1590年)
豊臣秀吉の小田原征伐に従軍する。
25歳の伊達政宗(1593年)
豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍する。
31歳の伊達政宗(1599年)
長女の五郎八姫を徳川家康の六男・松平忠輝に嫁がせる。
32歳の伊達政宗(1600年)
関ヶ原の戦いが起こると、東軍に味方し東北で上杉氏を戦い勝利する(慶長出羽合戦)。
33歳の伊達政宗(1601年)
初代仙台藩主となる。
45歳の伊達政宗(1613年)
家臣の支倉常長らをメキシコ・スペイン・ローマへ派遣する(慶長遣欧使節)。
46歳の伊達政宗(1614年)
大坂冬の陣では、豊臣方との和議成立後に大坂城外堀を埋め立ての責任者となる。
47歳の伊達政宗(1615年)
大坂夏の陣では、真田隊と戦うも反撃にあい後退する。
68歳の伊達政宗(1636年)
がん性腹膜炎または食道癌のため死去。
犬養毅の名言・格言
江戸時代から昭和時代に活躍した日本の政治家。
第29代内閣総理大臣。文部大臣、逓信大臣、外務大臣、内務大臣を歴任。
「政党には、党勢拡張、政権獲得などという一種の病気がつきまとう。そのために、種々の不正手段に出たり、あるいは敵に向かって進む勇気を失ったりすることがある。これを監視し激励するのが言論に従事する人々の責任でなければならない。」
「そもそも政界百弊の根源は、選挙に莫大の金を要するがゆえなれば、まずもって現行選挙法を改正しなければならない。」
「仏教もキリスト教も道教も異途回帰で、要するに根本の信念を固めることにある。しかるに、現在の我方国民教育の不完全は、道徳の根本たる信念に導くべき教えが欠けている。」
「話せば分かる。」
幼少期の犬養毅
6月4日に備中国賀陽郡(現 岡山県岡山市)で生まれる。
父は庄屋・郡奉行を務めていた犬飼源左衛門。
※源左衛門は庭瀬藩(備中松山藩の分家)に仕えていた郷士(下級武士で農民を兼業)
2歳の頃に父がコレラで亡くなり、以後の生活は苦しくなる。
20歳の犬養毅(1876年)
20歳の時に東京へ上京する。
福沢諭吉が開設した慶應義塾に入学する。
また、二松学舎にも通い漢学(中国の学問)も学ぶ。
在学中には郵便報知新聞(後の報知新聞)に入社し、記者として西南戦争にも行った。
26歳の犬養毅(1882年)
大隈重信が党首を務めていた立憲改進党に入党。
大隈重信の参謀役として活躍するほか、大同団結運動に参加し軍閥や財閥を批判した。
※大同団結運動とは帝国議会を開設しようとする自由民権運動の一派
また、東京専門学校(後の早稲田大学)の第1回議員にも選出される。
34歳の犬養毅(1890年)
第1回衆議院議員総選挙が行われる。
犬養毅は岡山県で立候補し見事当選する。
立憲改進党としても41議席獲得し第3党になった。
ちなみに、犬養毅は以後42年間で18回連続当選をはたす。
38歳の犬養毅(1894年)
中国進歩党を結成。
犬養毅は立憲改進党を離党し、岡山県を中心とする議員で中国進歩党を結成。
ただし、立憲改進党とは協力する姿勢を見せる。
42歳の犬養毅(1898年)
6月に第1次大隈内閣が発足。
8月に共和演説事件で文部大臣を辞職した尾崎行雄に代わって文部大臣に就任。
しかし、4ヶ月で大隈内閣は総辞職。
55歳の犬養毅(1911年)
辛亥革命が起こる。
(清帝国に対して孫文らが起こした共和革命)
犬養毅は辛亥革命の援助のため中国に渡る。
孫文が日本へ亡命した際には、宮崎滔天(みやざきとうてん、日本で辛亥革命を援助した人物)の家にかくまう。
孫文は1912年に大総統に選出され中華民国が成立する。
57歳の犬養毅(1913年)
第1次護憲運動が起こる。
第1次大隈内閣の総辞職後、陸軍出身の山県有朋や桂太郎らが総理大臣となると軍政が強くなる。
中でも、1900年に第2次山県有朋内閣で制定された軍部大臣現役武官制によって、軍部大臣に現役武官の中将・大将が務めることになると、軍政・藩閥政治が強くなり政党政治は衰退することになった。
そんな中、1910年に政治改革と立憲主義を主張していた立憲国民党が結成されると、1913年には犬養毅が党首となる。
そして、犬養毅は立憲政友会の尾崎行雄と協力し護憲運動を展開、第3次桂内閣を約2ヶ月で総辞職させた。
この時の活躍によって、犬養毅と尾崎行雄は「憲政の神様」と呼ばれた。
67歳の犬養毅(1923年)
第2次山本権兵衛内閣が発足。
犬飼毅は文部大臣と逓信大臣(逓信省は現在の総務省・日本郵便・NTTの前身)を務めるが、12月に虎ノ門事件(皇太子で後の昭和天皇である裕仁親王が狙撃される)が起こると、山本権兵衛は責任を取り総辞職。
68歳の犬養毅(1924年)
1月に第2次護憲運動が起こる。
第2次山本内閣が総辞職すると、貴族院議員の清浦奎吾が総理大臣となる。
清浦内閣の支持基盤は研究会(貴族院の会派)であったため、内閣は貴族院に大きく偏った。
この清浦内閣に対して、革新倶楽部(立憲国民党の後身)を率いていた犬養毅は、立憲政友会(衆議院の第1党)の高橋是清や憲政会の加藤高明らと協力して護憲運動を始める。
※革新倶楽部・立憲政友会・憲政会の3党を「護憲三派」という。
6月には加藤高明内閣が発足。
犬養毅は逓信大臣を務めた。
※加藤内閣下では普通選挙法・治安維持法など成立。外交では日ソ基本条約が締結。
一旦、政界を引退する。
73歳の犬養毅(1929年)
政界に復帰する。
犬養毅は政界を引退していたが、犬養を支持する支持者(とくに岡山県)が無理矢理に立候補させ衆議院選挙で当選させる。
犬養毅は当初は断っていたものの、結局は政界復帰を決断し、10月に立憲政友会の総裁となった。
75歳の犬養毅(1931年)
12月に内閣総理大臣に就任する。
1月から4月の間にロンドン海軍軍縮会議が開催される。
当時の浜口雄幸内閣は、この会議で話し合われていた補助艦保有数を巡って海軍の艦隊派と対立していた。
さらに、犬養毅は鳩山一郎とともに軍縮問題を内閣が決めるのは「統帥権の干犯」と言い反対した。
※統帥権とは軍を指揮する最高指揮権のこと
また、9月には満州事変が起こり第2次若槻内閣が総辞職すると、犬養毅は中華民国との話し合いで解決しようとする。
そして、12月に総理大臣になる。
76歳の犬養毅(1932年)
五・一五事件が起こり暗殺される。
犬養毅は高橋是清を大蔵大臣し積極財政を推し進め世界恐慌に対応した。
また、満州事変に対しては、軍部の主導で満州国を建国することに反対し、中国国民党の蒋介石と外交交渉での解決を目指す。
ただ、膨大な軍事費を出していることから軍部との関係はそれほど悪くなかった。
しかし、5月15日に日本を変えたいと思っていた海軍の青年将校と陸軍の士官候補生によって、襲撃され暗殺される。享年76。
犬養の死後、日本は軍部の独裁ならびに挙国一致内閣となっていった。
リクルートとは
株式会社リクルートホールディングス(英: Recruit Holdings Co.,Ltd.)は、求人広告、人材派遣、人材紹介、販売促進などのサービスを手掛ける企業である。
創業期のリクルート
1960年 江副浩正が、東京大学の学生新聞である「東京大学新聞」の広告代理店「大学新聞広告社」として創業。
創業2年目のリクルート(1962年)
大学生向けの求人情報誌『企業への招待』創刊。
情報誌ビジネスの先駆けといわれ、学生を求める企業と、就職先を探す学生の橋渡しとなる。
創業14年目のリクルート(1974年)
適性検査「総合検査SPI」開発
創業15年目のリクルート(1975年)
『就職情報』創刊 転職の自由化を促進。
創業16年目のリクルート(1976年)
『住宅情報』首都圏版創刊 以後不動産事業に本格的に参入していく
創業17年目のリクルート(1977年)
「株式会社人材情報センター(のちのリクルートエージェント)」設立
企業と転職希望者をダイレクトにつなぐ事業を開始。
創業20年目のリクルート(1980年)
『とらばーゆ』創刊
日本が女性差別撤廃条約に署名した年に誕生。
女性の就職・転職情報に特化し、注目を集めました。
「とらばーゆする」が、「女性が転職する」を意味する流行語になり、働く女性の選択肢を広げました。
創業22年目のリクルート(1982年)
アルバイト情報誌『フロム・エー』創刊
アルバイト(非正規雇用)で生計を立てるフリーアルバイターの略語「フリーター」という言葉を生み、1987年の流行語に選ばれました。
創業26年目のリクルート(1986年)
新企業理念とスローガン「コミュニケーション・エクセレンス」を発表
創業38年目のリクルート(1998年)
リクルート事件発覚。
リクルートの関連会社であり、未上場の不動産会社、リクルートコスモス社の未公開株が賄賂として譲渡された。贈賄側のリクルート社関係者と、収賄側の政治家や官僚らが逮捕され、政界・官界・マスコミを揺るがす、大スキャンダルとなった。戦後最大の贈収賄事件とされている。
事件後、会社としての信用失墜と共にバブル経済の崩壊に伴い、マンション・不動産事業の子会社リクルートコスモスや、金融子会社のファーストファイナンスなどの不良資産問題が顕在化。グループ全体が窮地に追い込まれていく。
創業31年目のリクルート(1991年)
『ガテン』創刊
土木・建築・ドライバー・調理師などの職種に特化した就職情報誌。
「ガテン系」は肉体労働の職種を指すキーワードになった
創業33年目のリクルート(1993年)
『ゼクシィ』創刊。 「結婚式で費用を抑えるのは縁起が悪い」と避けられがちだった既存の常識に風穴をあけ節約系の記事をどんどん発信し、読者の支持を得ました。 結婚=ゼクシィと認知されるほど、リクルートを代表するブランドに成長
創業40年目のリクルート(2000年)
無料クーポンマガジン『Hot Pepper』創刊
創業44年目のリクルート(2004年)
リクルート初の総合週刊誌『R25』創刊
創業51年目のリクルート(2011年)
オンライン予備校『受験サプリ』 リリース
創業52年目のリクルート(2012年)
会社分割による持株会社体制へ移行し、株式会社リクルートホールディングスに商号変更
人材メディア事業を海外展開するため、世界各国で求人情報検索サイトを運営するIndeed, Inc. の株式を取得(完全子会社化)
創業54年目のリクルート(2014年)
東京証券取引所市場第一部に上場
ヘロンの蒸気機関(1世紀頃)
最初のボイラー(デニス・パパン 1679年)
高圧蒸気機関(1698年)
イギリスのトマス・セーバリが炭鉱から水を汲み出す時に蒸気を利用したが失敗に終わる
ニューコメンの蒸気機関(1712年)
ジェームス・ワットの蒸気機関(1765年)
蒸気自動車(1769年)
トレビシックの蒸気機関(1801年)
蒸気船(1802年)
アメリカのロバート・フルトンが蒸気機関の客船への応用に成功。
流れに逆らって航行させることができた










