チェコスロバキアへ武力恫喝、チェコを保護領に、スロバキアを保護国化(チェコスロバキア併合)。同年に独ソ不可侵協定を締結、ポーランド侵攻を開始、第二次世界大戦が勃発する。以降大半を各地の総統大本営で過ごす。
投稿者: agebook_ito
51歳のアドルフ・ヒトラー
ドイツ軍がノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻。フランス降伏後、パリを訪れる。
アウシュヴィッツ強制収容所がつくられた。
終戦までに約150万人が亡くなったとされている。
52歳のアドルフ・ヒトラー
ソビエト連邦に侵攻を開始(独ソ戦)。年末には日本に追随してアメリカに宣戦布告。翌年、ドイツ国内や占領地区におけるユダヤ人の強制収容所への移送や強制収容所内での大量虐殺などの、いわゆるホロコーストの方針を決定づける。
軍事指導に異常な程の熱意を注いだ事も、他の独裁者に比べて顕著であった。
大戦中期間、ほとんどを前線に近い総統大本営で好んで過ごした。また1942年からは自ら陸軍総司令官を兼任、1942年9月から11月までは前線のA軍集団司令官を兼任して指揮するなど元首として異例の行動をとった。
54歳のアドルフ・ヒトラー
スターリングラードの戦いで大敗。また連合軍が北アフリカ、南欧に攻撃を開始、イタリアが降伏する。
55歳のアドルフ・ヒトラー
ソ連軍の一大反攻(バグラチオン作戦)により東部戦線が崩壊、連合軍が北フランスに大規模部隊を上陸させる(ノルマンディー上陸作戦)。敗色濃厚な中、自身に対する暗殺未遂事件によって負傷。
56歳のアドルフ・ヒトラー
4月29日、親衛隊全国指導者ヒムラーがヒトラーの許可を得ることなく英米に対し降伏を申し出たことが世界中に放送され、ヒトラーに最後の打撃を与えた。ヒトラーは激怒し、ヒムラーを解任するとともにその逮捕命令が出されたが、もはやドイツ国内はその執行すらできない状態であった。
遺書をタイプした後の午前2時、長年の恋人エヴァ・ブラウンと結婚式を挙げた。そして4月30日、毒薬の効果を確かめるため愛犬ブロンディを毒殺した後、午後3時に妻エヴァと共に総統地下壕の自室に入り、自殺した。
手塚治虫の名言・格言
手塚 治虫(てづか おさむ、本名:手塚 治(読み同じ)、
1928年11月3日 – 1989年2月9日は、日本の漫画家、アニメーター、アニメーション監督。
大阪帝国大学附属医学専門部を卒業、医師免許取得、のち医学博士(奈良県立医科大学・1961年)。血液型A型。戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画の草分け存在として活躍。
デビューから1989年の死去まで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された。
手塚治虫の名言・格言
“人を信じよ、しかし、その百倍も自らを信じよ”
“人生は一人じゃない。二人三脚で走らねばならんこともある。”
“人の命なんて、心配してもしなくても、終わる時には無情に終わるもの。”
“物語はここから始まるのだ。”
“ぼくたちは、かけがえのない地球に「同乗」している、仲間です。”
“最後まで努力をするってのが、本当の生き甲斐ではないでしょうか。”
“僕の体験から言えることは、好きなことで、絶対にあきないものをひとつ、続けて欲しいということです。”
“後世に残る作品をなどと気張らず、百歳まで描きたい。”
“名声も財産もできてあぐらをかいてしまうと、
逆に面白くなくなるわけです。”
“人間の「善」が、常に「悪」よりも先んじてほしいものです。”
“今ここで自分が描かなければ、誰が描くんだろう。”
“三十年たって振り返りもされない建築はまずいと思うんです。
漫画だって三十年たっても読まれなけりゃ本物じゃないと思ってるんです。”
“合理化はゆとりや遊びの空間を消して、むしろ人を遠ざけることになります。”
“インプットがないのに、アウトプットは出来ません。”
“漫画に必要なのは風刺と告発の精神である。”
“医者は生活の安定を約束していた。しかし、僕は画が描きたかったのだ。”
“人間は何万年も、あした生きるために今日を生きてきた。”
“時代は移り変わっても、子供たちの本質は変わらない。”
幼少期の手塚治虫
1928年11月3日、摂津国であった大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)に長男として生まれた。
曽祖父・手塚良仙は適塾に学んだ蘭方医で、1858年(安政5年)に江戸の神田お玉ヶ池種痘所(現在の東京大学医学部の前身)を設立した人物の一人でもある。
父はカメラを愛好するなどモダンな人物であった。当時非常に珍しかった手回しの映写機を所有、治虫は小学校2年生から中学にかけて、日曜日には家にいながらにしてチャップリンの喜劇映画、マックス・フライシャーやディズニーのアニメ映画を観ることができた。そのため治虫は幼少時から漫画家よりもむしろアニメ監督になることを夢見ていたという。
なお、父はカメラにはまる前は漫画にも凝っていて、漫画への理解があり、手塚の家には田河水泡の『のらくろ』シリーズや、中村書店の「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」など、200冊を超える漫画本があったという
5歳の手塚治虫
一家は兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)川面(かわも)に移った(そこは1932年に他界した祖父の屋敷であった)。戦前の寶塚(宝塚)は田園風景の中に新興の住宅地が散在して、その中心に宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の本拠地である宝塚大劇場、宝塚ファミリーランドの前身である宝塚新温泉や宝塚ルナパークなどの行楽施設が立ち並んで、一種の異空間を形作っていた。宝塚の人工的な近代都市の風景は手塚の作品世界の形成に大きな影響を及ぼしたと考えられる
7歳の手塚治虫
近畿方言を話せず、浮いていた存在だったため、小学校2年の時に「ガヂャボイ」というあだ名を付けられ、からかいの対象になった。しかし、幼い頃から見様見真似で描いていた漫画絵が治虫を救うことになる。小学校3年の時に、最初の漫画「ピンピン生チャン」を完成させる
11歳の手塚治虫
小学5年生の頃には長編漫画「支那の夜」を完成。同作品は、仲間内のみならず学校の教師の間でも話題になるほどであり、以後教師からも漫画を描くことを黙認されるようになった。
この時期に、同級生の石原実(大阪淀屋橋石原時計店・現社長)と親しくなり、彼の影響を受けて昆虫や科学、天文学に興味を持つようになる。手塚家の広い庭は昆虫の宝庫であり、また周囲の田園地帯にも虫が豊富にいて、昆虫採集には最適の環境だったことから、趣味に対し深みを持たせた。友人から借りた平山修次郎『原色千種昆蟲図譜』を読み、甲虫のオサムシの存在を知り、それにちなみ、この時期からペンネームとして「手塚治虫」を使い始めた。1950年頃までは、「治虫」はそのまま「おさむし」と読ませていた
13歳の手塚治虫
大阪府立北野中学校(現在の大阪府立北野高等学校)に入学。時節柄軍事色が強まっていった時期であり、小学校時代とは一転し、手塚は漫画を描いているのを軍事教練の教官に見つかり殴られるなどしている。この時期、仲間内で作った同好会の会誌などで漫画を執筆する一方で、手塚版「原色甲蟲圖譜」などイラストレーションによる図鑑を自作するなど精力的に活動する。
16歳の手塚治虫
夏には体の弱い者が入れられる強制修練所に入れられ、9月からは学校に行く代わりに軍需工場に駆り出され、ここで格納庫の屋根にするスレートを作っていた
17歳の手塚治虫
戦時中の修業年限短縮により中学を4年で卒業。6月、勤労奉仕中に大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得る。
この空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなり、後に『紙の砦』や『どついたれ』などの自伝的作品の中にその様子が描かれている。この体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになった。
旧制浪速高等学校を受験したものの、不合格となった。同年7月、手塚は大阪帝国大学医学専門部の試験を受け、入学を許可された。医学専門部は戦争の長期化に伴い軍医速成のために臨時に大阪帝国大学の学内に付設されたもの。
手塚は焼け残った大阪の松竹座で海軍省製作の長編漫画映画『桃太郎 海の神兵』を観て感涙し、このとき将来必ず自分の手で漫画映画を作ることを決意したという。
18歳の手塚治虫
学生である手塚は戦時中に描き溜めた長編の中から『幽霊男』(『メトロポリス』の原型)という長編を選んで描き直し、毎日新聞学芸部へ送った。
これは音沙汰無しに終わったが、その後、隣に住んでいた毎日新聞の印刷局に勤める女性からの紹介で、子供向けの『少国民新聞』(現在の毎日小学生新聞)学芸部の程野という人物に会い、彼の依頼を受けて『少国民新聞』の大阪版に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』を連載(1946年1月1日 – 3月31日)、この作品が手塚のデビュー作となった。
上京した際には漫画映画製作会社「芦田漫画製作所」(芦田巌)に出向いて採用を志願したが断られている。当初、漫画は手塚にとってアニメ-ション制作の資金を得るための手段だった。
19歳の手塚治虫
200ページの描き下ろし長編『新寶島』が制作され、1947年1月に出版されると、当時としては異例のベストセラーとなった。映画的な構成とスピーディな物語展開を持つ『新寶島』は、一般に戦後ストーリー漫画の原点として捉えられている。
20歳の手塚治虫
手塚は描き下ろし単行本の形で長編作品を発表できるようになった。
手塚は忙しくなり、これまでに描き溜めてきた長編を基に、学業の傍ら月に1、2冊は作品を描き上げなければならなくなった。
当初は子供向けを意識したB級映画的な作品であったが、1948年の『地底国の怪人』からは悲劇的な展開も取り入れるようになり、SF、冒険などを題材に作品中でさまざまな試みが行なわれた。
同年末に描かれた『ロストワールド』では様々な立場の人物が絡み合う地球規模の壮大な物語が描かれた。
このロストワールドを見て赤塚不二夫は漫画家を志すようになる。
21歳の手塚治虫
西部劇『拳銃天使』では児童漫画で初のキスシーンを描いている。
22歳の手塚治虫
東京への持ち込みも行なった。当初期待した講談社では断られた。
新生閣という出版社で持ち込みが成功し、『ジャングル大帝』の連載を開始
23歳の手塚治虫
『鉄腕アトム』(1952年 – )の前身となる『アトム大使』を『少年』(光文社)に連載する。
漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。教授からも医者になるよりも漫画家になるようにと忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める。
もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)
25歳の手塚治虫
大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務め、1953年7月に国家試験を受けて医師免許を取得。
同年に数多くの漫画家を輩出したトキワ荘に入居。
関西の長者番付の画家の部でトップとなっている。
26歳の手塚治虫
『火の鳥』の連載を開始、『火の鳥』はその後幾度も中断しながら長年描き継がれた手塚のライフワークとなった。
雑誌連載という形態は、手塚がそれまで描き下ろし単行本で行なってきた複雑な物語構成の見直しを余儀なくさせ、読者を引っ張るための魅力的なキャラクター作りや単純な物語構成などの作劇方法へ手塚を向かわせることになった
30歳の手塚治虫
売れっ子漫画家が多数出現。この時期の手塚は人気面ではそのような漫画家たちのうちの一人に過ぎなくなっていた。さらに手塚を脅やかしたのは、この時期に新らしく登場してきた劇画の存在であった。社会の闇をストレートに描く劇画の人気は当時の手塚を大いに悩ませ、階段から転げ落ちたり、大阪の劇画作家の拠点に押しかけ、集会に参加したりした。
手塚はノイローゼに陥り、精神鑑定も受けたとい
31歳の手塚治虫
1959年 週刊誌ブームを受けて週刊漫画雑誌『少年マガジン』(講談社)および『少年サンデー』(小学館)が創刊され、それ以後月刊の少年誌は次第に姿を消していくことになった。この時、手塚は誘いを受けて小学館の専属作家となった。
同年、血の繋がらない親戚で幼馴染であった岡田悦子と宝塚ホテルにて結婚式を挙げる。多忙な手塚は結婚前に2回しかデートができず、しかも結婚披露宴では1時間前まで閉じ込められて原稿を描き遅刻してしまったという
33歳の手塚治虫
アニメーション制作のため「手塚治虫プロダクション動画部」を設立。翌年「株式会社虫プロダクション」(以降虫プロ、旧虫プロ)として法人化。社長は手塚自身が務めた
34歳の手塚治虫
日本初となる30分枠のテレビアニメーションシリーズ『鉄腕アトム』の制作に取り掛かった。
毎週放送のアニメーション番組を実現するために試行錯誤と創意工夫を積み重ねて作り出したさまざまなリミテッド・アニメの手法や様式は、その後の日本のアニメーション制作全般に大きな影響を与えることとなる。
テレビ放送の30分枠用に1本あたり2,000枚分の動画を動画家5名で担当し、一人が1日66枚を仕上げるという苛酷な労働状況が作られることとなった。また作品を破格の製作費で売り込んだことが制作部の首を絞めることになった。手塚がアニメの値段を安くして売り込んだのは、当時の普通のテレビ番組の制作費が50万程度であったことと、安くすればテレビアニメが普及させやすいのと、他の会社と差を付けるためだったと語る。
アニメーターの給料が安いのは手塚のせいであると雑誌で非難されることがあったが、杉井ギサブローは、手塚治虫が独自のリミテッド・アニメの手法を日本に定着させなければ日本は世界一のテレビアニメ生産国にはなっていなかったであろうとも語っている。
38歳の手塚治虫
実験漫画雑誌『COM』を創刊。先行した白土三平の劇画作品『カムイ伝』を看板作品とする『ガロ』に対抗したもので、手塚の『火の鳥』を目玉として、石森章太郎や永島慎二などの意欲的な作品が掲載された。
この時期には少年誌において手塚はすでに古いタイプの漫画家とみなされるようになっており、人気も思うように取れなくなってきていた。
40歳の手塚治虫
1968年には青年誌『ビッグコミック』(小学館)、『プレイコミック』(秋田書店)などが相次いで創刊し、青年漫画が本格的にスタートしており、手塚も『ビッグコミック』に『地球を呑む』『奇子』『きりひと讃歌』、『プレイコミック』に『空気の底』シリーズなど青年向けの作品を手がけている。この時期の手塚の青年向け作品は安保闘争などの社会的な背景もあり、暗く陰惨な内容のものが多かった
45歳の手塚治虫
1973年に自らが経営者となっていた虫プロ商事、それに続いて虫プロダクション(すでに1971年には経営者を退いていた)が倒産し、手塚も個人的に1億5000万円と推定される巨額の借金を背負う。
作家としての窮地に立たされていた1968年から1973年を、手塚は自ら「冬の時代」であったと回想している
『週刊少年チャンピオン』で連載開始された『ブラック・ジャック』も、少年誌・幼年誌で人気が低迷していた手塚の最期を看取ってやろうという、壁村耐三編集長の厚意で始まったものであった。
しかし、連綿と続く戦いで読み手を惹き付けようとするような作品ばかりであった当時の少年漫画誌にあって、『ブラック・ジャック』の毎回読み切り形式での連載は逆に新鮮であり、後期の手塚を代表するヒット作へと成長していくことになった。
50歳の手塚治虫
日本アニメーション協会の初代会長となった。
52歳の手塚治虫
1980年代になると、幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』(ビッグコミック)や、アドルフ・ヒトラーを題材に一般週刊誌で連載された『アドルフに告ぐ』(週刊文春)など、青年漫画の新たな代表作を手がける
『アドルフに告ぐ』に関するインタビュー
60歳の手塚治虫
1988年3月に胃を壊し、一度目の手術を受ける。
1989年1月21日に手塚プロ社長の松谷孝征がお見舞いに来た時には、「僕の病状は何なんだ、君聞いてきてくれ」と頼んでいたという。胃癌ということは伏せたうえで聞いた事を話すと「そうか…」と一言言ったという。
100歳まで描き続けたいと言っていた手塚は病院のベッドでも医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていた。
同年1月25日以降、昏睡状態に陥るが意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言っていたという。息子である手塚眞は昏睡が覚めると鉛筆を握らせるが意識がなくなりの繰り返しだったと語る。死に際の状態でも「頼むから仕事をさせてくれ」と起き上がろうとし、妻は「もういいんです」と寝かせようとするなど最後まで仕事への執着心を無くさなかった。
手塚の死に立ち会った松谷孝征によるとこの「頼むから仕事をさせてくれ」が手塚の最後の言葉であったという。
周りの人間は誰も手塚に胃癌であることを伝えず、手塚自身は生き続けるということに何も疑問は持たなかったとされる。
しかし手塚が病院で描いていた遺作の一つ「ネオ・ファウスト」では主要な人物が胃癌にかかり、医者や周りは気遣って胃癌であることを伝えないが本人は胃癌であることを知っていて死亡するという内容が描かれている。
手塚治虫に関する映像
赤塚不二夫の名言・格言
赤塚 不二夫(あかつか ふじお、本名:赤塚 藤雄、1935年(昭和10年)9月14日 – 2008年(平成20年)8月2日)は、日本の漫画家。
1956年に貸本漫画『嵐をこえて』でデビュー。その後石森章太郎を慕い、トキワ荘に入居。以後作品発表の舞台を漫画雑誌に移し、1962年に『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』の大ヒットで一躍人気作家となる。1967年に代表作である『天才バカボン』の爆発的ヒットと、その後の『もーれつア太郎』『レッツラゴン』といった一連のヒット作や長期連載作品等により「ギャグ漫画の王様」と謳われ、戦後ギャグ漫画史の礎を築いた。
赤塚 不二夫の名言・格言
なにを落胆してるんだ。
バカだからこそ
真実を語れるんじゃないか!
バカボンのパパってさ、
別にラクして生きてるわけじゃないんだよ。
どうすれば家族を幸せにできるかを考えながら
一生懸命ガンバってるわけ。
世の中に友情と欲情ほど良いものはない。
バカっていうのは自分がハダカになることだ。
世の中の常識を無視して、
純粋な自分だけのものの見方や生き方を
押し通すことなんだよ。
バカだからこそ語れる真実っていっぱいあるんだ
幼少期の赤塚不二夫
1935年(昭和10年)9月14日、満州国熱河省灤平県古北口古城裡(現在の中華人民共和国河北省承徳市灤平県と北京市密雲県古北口(中国語版)との境界線)に赤塚藤七と妻リヨの6人兄弟の長男として生まれる。
10歳の赤塚不二夫
終戦を中国で迎える。
父は特殊警察の宣撫官という現地での人心をつかむという職務柄もあって、普段から現地に住む中国人とも平等に接することに努め、補給された物資を現地の村人達に分けてあげたり、子供たちにも中国人を蔑視しないよう教えるなど正義感の強い人物でもあった。そのため彼には抗日ゲリラ側から当時の金額で2000円もの懸賞金がかけられていたにも関わらずに現地の村人からも密告されることもなく、終戦直後に報復として赤塚家の隣に住む日本人一家が中国人に惨殺される中で普段から中国人と親密にしていた赤塚の家族は難を逃れている。
この時のことを赤塚は
「爆発音に続く銃声が聞こえた。「襲撃だ!」おやじは言うが早いか制服に着がえてぼくと一緒に外に飛び出した。「ぼくも行く」と言ったからなのか、それとも「お前もこい!」とおやじがぼくを促したからなのかは定かではない。しかし、火事場見物ではない。深夜の殺し合いに、たとえ子供にせがまれたからといって連れて行くというのは考えにくい。やはりおやじは自分の意志で息子をあえて殺戮現場に連れて行ったのだろう。
おやじが砦の外の村へ出たとき、村人の1人が敵に連絡すればそれまでである。だが村人は誰もおやじを敵に売り渡さなかった。こういうわけで、おやじだけではなく赤塚家も襲撃されることがなかった。砦には時々、さまざまな物資を積んだトラックが到着した。おやじはその物資をよく村人に分けていた。「敵も味方も同じ人間じゃないか」なにか見返りを期待したわけではない、こちらに真心があればそれは必ず相手に通じるはずだ――これがおやじの人間観だった。」」と語っている
11歳の赤塚不二夫
父親がシベリアに抑留され、奉天に残された家族は葫芦島から大発動艇で4日かけて(赤塚にとって初めて見る日本である)佐世保港に引き揚げ、汽車で母の実家がある奈良県大和郡山矢田口に移った。
当時のことを
「オレは満州から引きあげてきて、奈良の大和郡山に3年間住んでいたんだけど、あのあたりってヨソ者を徹底的に排除する風潮があったんだ。隣がエタ村で、差別意識が定着してたのかもしれないな。オレも差別されたよ。配給の列に並んでて、オレの順番になると「満州、ダメ」とか言って本当にくれないんだから。いい大人が子供に対してだよ。今でも忘れられないよ」と回想している。
帰国までに妹はジフテリアにより死去し、弟は他家へ養子に出され(後に赤塚は茨城県の常磐炭田炭鉱で働いていた彼と一度だけ再会)、更には生後6か月の末妹も母の実家に辿りついた直後に栄養失調のため夭折。日本に帰還する頃には兄弟は藤雄と弟と妹の三人と半数となってしまった。その時の母親には泣く気力もなく、赤塚は「胸がえぐられるようだった」という
12歳の赤塚不二夫
帰国後、貸本屋で5円で漫画を借りて読むようになり、このとき手塚治虫の『ロストワールド』に出会ったことで漫画家になることを決意。見よう見まねで手塚風の漫画の執筆に没頭。
12歳になると『ダイヤモンド島』というSF長編漫画を描き、母親と一緒に出版社へ最初の持ち込みを行ったが失敗。
14歳の赤塚不二夫
母親のわずかな稼ぎでは残った3人の子供を養っていくことが困難であった為、兄弟は父の郷里である新潟の新類縁者にそれぞれ預けられることになり、赤塚は新潟県に住む父親の姉一家の母子家庭に預けられた。
当初新しい学校で差別を受けていたが、全校の図画コンクールで第1席になった。差別意識が強かった級友たちからも、驚きの目でみられたという。
15歳の赤塚不二夫
父親が舞鶴港に帰国するが過酷なシベリアでの抑留生活や日本の敗戦などで権威を失い、栄養失調による水疱でかつての面影もなくし、動作がのろくなって食欲が異常に強くなり台所を度々荒らしてしまうなど以前とは全く違うような人物になっていたという。
17歳の赤塚不二夫
学校を卒業したが、家庭の金銭的な事情から高校進学を断念し映画の看板を制作する新潟市内の看板屋に就職。
仕事柄、映画看板の制作に携わっていたことから花月劇場という映画館であらゆる映画を鑑賞することとなり、このときバスター・キートンや駅馬車、チャーリー・チャップリンの喜劇に感銘を受けたという。この時期に『漫画少年』への投稿も始めた。手塚治虫が投稿作品を審査するコーナーがあり、この頃から自分の絵柄を模索し始めるようになる。
19歳の赤塚不二夫
父親の友人の紹介で就職した東京のエビス化学工業所という化学薬品工場に勤務しながら『漫画少年』へ投稿を続けた。その漫画が石森章太郎(後の石ノ森章太郎)の目に留まり、石森が主宰する「東日本漫画研究会」が制作する肉筆回覧誌「墨汁一滴」の同人に参加。仲間が増えた。
21歳の赤塚不二夫
プロの漫画家だったつげ義春からの紹介で、描き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビュー。状況した友人石森を手伝う形でトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。
当時は原稿料の前借をして漫画を描く自転車操業状態にあった。将来を悲観して漫画家廃業を考え、新宿のキャバレーの住み込み店員になろうと思った時期もあったが、トキワ荘のリーダー的存在で兄貴分として慕われていた寺田ヒロオに相談。すると寺田から「ちょっと待て。これのある間は、ここにいろ。なくなっても、もし漫画家として売れていなかったら、キャバレーでもどこへでも行けばいい」と現金5万円を渡される(当時の国家公務員初任給は9200円)。またこの時期、石森のおごりで映画を浴びるほど観て、その経験が後の作品に活かされることになった。
23歳の赤塚不二夫
作家不足に陥った『少女クラブ』増刊号で1作家1作品の原則を守りながら既存の作家で補うために編集者が石森との合作を企画。合作ペンネーム「いずみあすか」]名義で作品を発表した。
27歳の赤塚不二夫
『週刊少年サンデー』で「おそ松くん」、『りぼん』で「ひみつのアッコちゃん」の連載を開始し、一躍人気作家となる。1964年(昭和39年)、『おそ松くん』で第10回(昭和39年度)小学館漫画賞受賞。
28歳の赤塚不二夫
1963年に、トキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加[注釈 5]。1966年(昭和41年)には『おそ松くん』がスタジオ・ゼロ製作により毎日放送・NET(現:テレビ朝日)系でテレビアニメ化された。
32歳の赤塚不二夫
『週刊少年マガジン』(講談社)にて「天才バカボン」、『週刊少年サンデー』にて「もーれつア太郎」を発表して天才ギャグ作家として時代の寵児となる。
テレビ番組『まんが海賊クイズ』で当時は漫画家としては異例のテレビの司会を、黒柳徹子と共に担当。
35歳の赤塚不二夫
母親が不慮のガス爆発事故で入院。一命は取り留め一時退院するものの、ショックからクモ膜下出血を発症して再入院となりその後容態が急変するも赤塚の懸命の呼びかけで再び息を吹き返すが、脳死状態となり8月20日に59歳で死去した。[21]この年に妻と別居状態となり、12月にはスタジオ・ゼロが事実上の解散となった。
36歳の赤塚不二夫
既に『少年サンデー』での新連載が決まっていたものの赤塚は既にアメリカに在住していた森田拳次との約束と『MAD』編集部への取材との口実で、長谷、滝沢解、そして当時交際していた愛人の女性とともに渡米。2か月間滞在し、入稿締め切りが迫る中でサンデーの担当編集者武居俊樹に宛て新連載のタイトルが入った旨を記した手紙と自由の女神との記念写真を送り付ける。そのタイトルが『レッツラゴン』で、写真はそのまま扉絵として使用されその後3年にわたり連載される。当初の設定は次第に有形無実となり、劇画や文芸作品までも茶化し武居が「タケイ記者」として作品に登場して赤塚を苛め抜く描写など、ナンセンスを越えたシュールでアナーキーなストーリー展開が連載当時はなかなか理解されなかったという。
アニメーション制作会社「不二アートフィルム」を設立。
39歳の赤塚不二夫
税務署の調査で税金の支払いが長期に渡り滞納していることが発覚。延滞金だけで6000万円ともされた。
原因はフシオプロの経理担当者の横領によるもので被害額は二億円とも言われ、実印まで預け信頼していた人物による裏切りであった。失踪したこの人物は後日逮捕されるが、赤塚はこの人物の将来を考え告訴することはなかった。。
しかし横領された二億円の中には古谷三敏や芳谷圭児といったフジオプロ所属の漫画家らのプール金もあり、このトラブルにより古谷、芳谷はフジオプロを退社。それぞれのスタッフを引き連れ、自身らの制作プロダクション・ファミリー企画を設立した。(その後、赤塚は古谷、芳谷らの被害額を返済している)
40歳の赤塚不二夫
1975年「元祖天才バカボン」が日本テレビ系列で放映開始。
この時期には漫画家としては最も多忙を極め、週刊誌五本、月刊誌七本の同時連載をこなす一方で長谷邦夫の紹介によりタモリと出会う。
42歳の赤塚不二夫
タモリを中枢とする芸能関係者との交流を深める中、1977年を境に、ステージパフォーマンスに開眼。タモリらと面白グループを設立。
10月29日、渋谷公会堂で『輝け!第一回いたいけ祭り』というタモリや赤塚の“宴会芸”を見せるイベントを行うが赤字。
面白グループでの活動を筆頭に数多くのイベントを企画・出演するようになったが、その10年後には「漫画に費やしていたエネルギーをステージで発散してしまった」といった趣旨の発言があり、長いスランプに陥っている事を公言。
52歳の赤塚不二夫
アルコール依存症に陥った赤塚のサポートを行っていた、写真家の国玉照雄の元アシスタントで、スタイリストの鈴木眞知子と結婚。結婚にあたっては先妻・登茂子が後押しし、保証人になっている 。結婚記者会見には登茂子とりえ子も同席
60歳の赤塚不二夫
還暦のお祝いに800人もがつめかける
当時の様子はこちら
62歳の赤塚不二夫
「まんがバカなのだ 赤塚不二夫展」が開催され、好評を博す。
デビュー前の貴重な習作から1990年代初頭までの間に描かれた名作、怪作、およそ200枚に及ぶ美麗な生原稿が展観出来るだけではなく、赤塚自ら肉体を駆使し、挑戦したエドヴァルト・ムンク、レオナルド・ダ・ヴィンチ、エドガール・ドガ、フィンセント・ファン・ゴッホといった歴史上の画家のパロディ・アートも展示。
同年、吐血し緊急入院。精密検査の結果、食道がんと診断され22日に告知を受ける。医師から「2か月後には食べ物がのどを通らなくなる」と告げられ、「食道を摘出し小腸の一部を食道の代用として移植する」と今後の手術・治療の内容も告げられたが「小腸を食道に使ったら、口からウンチが出てきちゃうんじゃないの。」とギャグで返す気丈さを見せて24日には退院を強行
1998年には驚きももの木20世紀にて特集
65歳の赤塚不二夫
点字の漫画絵本『赤塚不二夫のさわる絵本“よーいどん!”』を発表。ある日テレビで見た視覚障害を持つ子供たちに笑顔がなかったことにショックを受け、「この子たちを笑わせたい」という思いから制作したもので、点字本としては空前のベストセラーとなり、全国の盲学校に教材として寄贈された。なお、赤塚は同書を少しでも安い価格で提供するためにと、著作権料を辞退している
73歳の赤塚不二夫
2008年(平成20年)8月2日午後4時55分、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去
タモリの告別式での別れの言葉
高柳健次郎の名言・格言
高柳 健次郎
1899年1月20日 – 1990年7月23日
日本の工学者、日本ビクター元副社長・技術最高顧問。静岡大学名誉教授。日本のテレビの父と呼ばれる。
高柳 健次郎の名言・格言・語録
「こつこつ努力の大切さ」
「10年先、20年先を目指せ」
「幸運の女神には前髪があるが、後ろ髪がない」
幸運は後から追いかけて捕まえようとしても、決して捕まえられない。前から、待ちかまえていて前髪をつかめば、捕まえられる。
「人工天才」
1人の天才に対して、一つの目的に結集した多人数の知恵は天才的な力を発揮する。
「天分に生きる」
“人にはそれぞれ才能がある。それを生かして世の中のためになるような人間として生きること。”
タモリの名言・格言
日本のお笑いタレント、司会者、俳優、歌手、ラジオパーソナリティー、作詞家、作曲家、作家、実業家。本名:森田 一義(もりた かずよし)。
タモリの名言・格言
名言は好きです。でも、名言を言おうとする人は嫌いです
まあ、私も結構活躍してるみたいなんですけども、宇宙から見たらもうどうでもいいですね
ストレスはね、発散することはできません。溜まる一方だからストレスを忘れるしかない
やる気のある者は去れ
俺のやる事に意味なんかあるわけないだろ!
真剣にやれよ!仕事じゃねぇんだぞ!
人間って「自分がいかに下らない人間か」ということを思い知ることで、スーッと楽にもなれるんじゃないかな
人見知りじゃない奴は面白くない
幼少期の高柳健次郎
1899年1月20日 静岡県浜松市東区安新町に生まれた。
幼少期のタモリ
太平洋戦争終戦から一週間後の1945年8月22日に福岡県福岡市、現在の南区に生まれる。母親は3度結婚し、子供を6人もうけた。祖父母に預けられて育ったため、父親とはあまり面会機会がない。
乳児時代は「赤ちゃんコンテスト」で優勝。