33歳の杉原千畝

満洲国外交部では政務局ロシア科長兼計画科長としてソ連との北満洲鉄道譲渡交渉を担当。鉄道及び付帯施設の周到な調査をソ連側に提示して、ソ連側当初要求額の6億2,500万円を1億4,000万円にまで値下げさせた。
ソ連側の提示額は、当時の日本の国家予算の一割強に値するものであり、杉原による有利な譲渡協定の締結は大きな外交的勝利であった。

35歳の杉原千畝

杉原は、破格の金銭的条件で、関東軍から間諜(スパイ)になるよう強要されたが、これを拒否。千畝自身の言葉によれば、「驕慢、無責任、出世主義、一匹狼の年若い職業軍人の充満する満洲国への出向三年の宮仕えが、ホトホト厭」になって外交部を辞任した。

千畝は、この頃から「日本の軍国主義」を冷ややかな目で見るようになる。

杉原手記には、「当時の日本では、既に軍人が各所に進出して横暴を極めていたのであります。私は元々こうした軍人のやり方には批判的であり、職業軍人に利用されることは不本意ではあったが、日本の軍国主義の陰りは、その後のヨーロッパ勤務にもついて回りました」と、千畝にはまれな激しい言葉が見られる。

千畝の拒絶に対し、関東軍は、前妻クラウディアが「ソ連側のスパイである」という風説を流布し、これが離婚の決定的理由になった。満洲国は建前上は独立国だったが、実質上の支配者は関東軍だったので、関東軍からの要請を断り同時に満洲国の官吏として勤務することは、事実上不可能だった。

外務省大臣官房人事課勤務、情報部第一課勤務を命じられる。前妻クラウディアと別れた離婚。幸子と結婚。

39歳の杉原千畝

リトアニアの在カウナス領事館・領事代理に任命される。
カウナスは、ソ連邦に併合される以前のリトアニア共和国における臨時の首都で、そこに最初の日本領事館を開設した。
日独伊三国同盟後もヒトラーの言明に全幅の信頼を寄せることが出来なかった日本は、ドイツ軍が本当にソ連を攻撃するつもりかどうかの確証をつかみたいと思い、日本人が誰もいないカウナスに日本領事として赴任し、リトアニアとドイツとの国境地帯から入ってくるドイツ軍による対ソ攻撃の準備と部隊の集結などに関するあらゆる情報を、外務省ではなく参謀本部に報告することがその役割であった。

40歳の杉原千畝

7月領事館に救いを求めてやって来たユダヤ避難民等に同情し、本省の訓命に反して通過ビザを発給。
一時に多量のビザを手書きして万年筆が折れ、ペンにインクをつけては査証を認める日々が続くと、一日が終わり「ぐったり疲れて、そのままベッドに倒れ込む」状態になり、さらに「痛くなって動かなくなった腕」を夫人がマッサージしなくてはならない事態にまで陥った。
ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながら一カ月余寝る間も惜しんでビザを書き続けた千畝は、本省からのベルリンへの異動命令が無視できなくなると、領事館内すべての重要書類を焼却し、家族と共に今日まで残る老舗ホテル「メトロポリス」に移った。杉原は領事印を荷物に梱包してしまったため、ホテル内で仮通行書を発行した。そして9月5日、ベルリンへ旅立つ車上の人になっても、杉原は車窓から手渡しされたビザを書き続けた。その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2,139枚にのぼった。一家族につき、一枚のビザで充分であったため、家族を含めて少なくとも数千名の難民の国外脱出を助けたと考えられている。
9月5日、カウナス駅より国際列車で退去。プラハの日本総領事代理として赴任。

68歳の杉原千畝

カウナスの「杉原ビザ」受給者の一人で、新生イスラエルの参事官となっていたニシュリ氏と東京のイスラエル大使館で28年振りに再会。

カウナス駅頭で「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」と叫んだかつての青年は、杉原夫人の「手をとり固く握って涙を流して喜んだ」といわれている。

69歳の杉原千畝

イスラエルの宗教大臣となっていたゾラフ・バルハフティクとエルサレムで29年ぶりに再会。この時初めて、今日誰でも閲覧できる本省との電信のやりとりが明かされ、失職覚悟での千畝の独断によるビザ発給を知ったバルハフティクが驚愕する。

86歳の杉原千畝

7月31日鎌倉市にて永眠。
千畝の死を知るや、駐日イスラエル大使のヤーコブ・コーヘンが駆けつけ、葬儀には、かつてのハルビン学院の教え子やモスクワ駐在員時代の同僚など、生前の千畝を知る三百人余が参列。

彼を外交官から追放した日本国政府による公式の名誉回復が行われたのは2000年10月10日になってのことだった。

サン=テグジュペリの名言・格言

サン=テグジュペリ(A1900年6月29日 – 1944年7月31日)は、フランスの作家、操縦士。『星の王子さま』などの著作で有名。
郵便輸送のためのパイロットとして、欧州-南米間の飛行航路開拓などにも携わった。

名言・格言

愛、それはただ互いに見つめ合うことではなく、
ふたりが同じ方向を見つめることである

救いは一歩踏み出すことだ。さてもう一歩。
そしてこの同じ一歩を繰り返すのだ

計画のない目標は、ただの願い事にすぎない

他人を裁くより自分を裁く方がずっと難しい

人がそれを見つめて、
大聖堂を思い描いた瞬間、
石はただの石ではなくなる。

本当の贅沢というは、ただ一つしかない。
それは人間関係の贅沢のことだ。

生きながらえるためには、服従すべきであり、
存在しつづけるためには、戦うべきである。

未来とは、予知しようとするものではなく、
自分で可能にするもの。

僕の命を救ってくれたのは、他でもない。
このささやかなほほ笑みだったんだ。

参考;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%86%E3%82%B0%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%9A%E3%83%AA
http://pliocena.com/ticket/saint/antoin_c.html

26歳のサン=テグジュペリ

26歳で作家として「飛行家」の雑誌掲載でデビュー。
寡作ながら以後、自分の飛行士としての体験に基づいた作品を発表。著作は世界中で読まれ、有名パイロットの仲間入りをしたが、仲間のパイロットの間では反感も強かったという。後に敵となるドイツ空軍にも信奉者はおり、サン=テグジュペリが所属する部隊とは戦いたくないと語った兵士もいたという。

アエリエンヌ・フランセーズ社で遊覧飛行のパイロットとして臨時採用される。ラテコエール航空会社に操縦士として採用される。

31歳のサン=テグジュペリ

親会社に内紛が起こり、アルゼンチンでの地位を失う。カサブンランカとポールテチェンヌ間等の郵便輸送に従事。「夜間飛行」がアンドレ・ジッドの序文を付けて出版され、フェミナ章を受賞。英訳され、映画化される。

35歳のサン=テグジュペリ

「パリ=ソワール」誌の派遣記者としてモスクワに1ヶ月滞在。脚本を書いた映画「アンヌ=マリー」が成功を収める。これらで得た金をすべてつぎ込んで最新のシムーン型機を買う。この飛行機で各地を講演してまわる。12月29日朝、15万フランの賞金がかかったパリとサイゴン間の最短記録に挑戦して飛び立ったが、夜リビア砂漠に不時着して3日後に隊商に救われる。。

37歳のサン=テグジュペリ

2月、カサブランカ-トンブツク-バマコ-ダカールのサハラ砂漠を経由する路線を調査。4月、「パリ=ソワール」誌の特派記者として再びスペイン内乱を取材。8月、ナチズムの行為を見るためにドイツに飛ぶが、警戒が厳しくほとんど目的を果たさずに帰る。

39歳のサン=テグジュペリ

3月、自動車でドイツを旅行。7月、「人間の土地」出版でアカデミー・フランセーズ小説大賞を受賞。7月、友人ギヨメの飛行艇での大西洋横断飛行に同行。8月、「人間の土地」英語版宣伝のため、アメリカ訪問。ニューヨークでリンドバーグ夫妻に会う。戦争の危機を感じて、急遽帰国。9月対ドイツ開戦。召集され予備大尉となる。11月、偵察飛行大隊に配属される。

40歳のサン=テグジュペリ

「城砦」の執筆つづく。5月、フランス軍大敗走。アラスへ決死の低空偵察飛行。6月、アルジェに移動。休戦。8月、除隊になり帰国。11月、ギヨメ遭難死。アメリカの出版社からの要請やレオン・ウェルトの助言があって、参戦を促すためアメリカに向かう。大晦日、ニューヨーク着。

41歳のサン=テグジュペリ

1月、フランスの親独ヴィシー政権からメンバーに指名され、怒りの記者会見を開く。以降、アンドレ・ブルトンによる悪意の噂も手伝って、ヴィシー政府の回し者呼ばわりされる。滞在中、英語は一切話さなかったという。

「城砦」を中断して「戦う操縦士」の執筆にかかる。ジャン・ルノワールの誘いでハリウッドに移る。8月、腹痛のため手術。コンスエロがニューヨークへ来る。12月、日本の真珠湾攻撃により、アメリカ参戦。サン=テグジュペリは涙を流して喜んだという。

42歳のサン=テグジュペリ

「戦う操縦士」出版。英語版は「アラスへの飛行」で、ベストセラーとなる。フランスではドイツの検閲を受け、「この愚かな戦争を始めたヒトラー」という部分を削除して出版されるが、親独新聞から一斉に攻撃され、翌年には発売禁止になる。夏、「星の王子さま」に着手。挿し絵と平行して執筆が進められたため、書斎はアトリエに一変する。11月、フランス全土がドイツの支配下に入る。

43歳のサン=テグジュペリ

4月6日、「星の王子さま」出版。6月、カナダのモントリオールにて「ある人質への手紙」出版。北アフリカ行きの軍用船に乗船。星の王子さまの初刷りを持って、ニューヨークから北アフリカの連隊へと向かう船の中で、サン=テグジュペリはこう語っていたと船員が伝えている。「戦争が終わったら、ソレームの修道院に入りたいとよく言っていた。そして話の終わりはいつも賛美歌になっていた」 偵察飛行大隊に復帰、サルディニア島アルゲーロ基地に配属される。少佐に昇進。7月、フランス上空への偵察任務につく。8月、エンジン故障で引き返し、操作ミスによる着陸事故。このため予備役に回される。

44歳のサン=テグジュペリ

7月31日、9回目の出撃で、グルノーブル及びアヌシー方面の高空写真偵察につくが、ボルゴ基地を出たまま帰らなかった。地上に残した彼の最後の言葉は「ドレス・ダウン6号よりコルゲートに、滑走離陸してよろしいか」であった。ドレス・ダウンとは裸馬の意。彼の死亡については当初不明とされ、後にいろいろな説が出てきているが、ほとんどは結局不明としている。

高杉晋作の名言・格言

高杉晋作(1839年9月27日ー1867年5月17日)は、江戸時代後期の長州藩士。
幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。

高杉晋作の名言・格言

おもしろきこともなき世をおもしろく

「朝に人としての道を悟ることができれば、
その晩に死んでも悔いはない」
という事こそが人の道である。
人としての努力をすることもなく、
ただ死に向かうのは人の道ではない。

苦しいという言葉だけは
どんなことがあっても
言わないでおこうじゃないか。

真の楽しみは
苦しみの中にこそある。

過ちを改めれば、
それは過ちではないのだ。

今さらに なにをかいわむ 遅桜
故郷の風に 散るぞうれしき
先生を 慕うてようやく 野山獄

参考;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%89%E6%99%8B%E4%BD%9C

20歳の高杉晋作

師の松陰が安政の大獄で捕らえられると伝馬町獄を見舞って、獄中の師を世話をする。

投獄中の松陰から高杉に送られた死生観に対する手紙の内容。
「死んで自分が不滅の存在になる見込みがあるのなら、いつでも死ぬ道を選ぶべきです。また、生きて、自分が国家の大業をやり遂げることができるという見込みがあるのなら、いつでも生きる道を選ぶべきです。生きるとか死ぬとか…、それは『かたち』にすぎないのであって、そのようなことにこだわるべきではありません。」

藩より命じられて萩に戻る途中で、松陰は10月に処刑される。

長州藩の要職・周布政之助に宛てた手紙で「松陰先生の仇は必ず取ります」と激しい怒りを書き記している。

23歳の高杉晋作

藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。

「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていた。折りしも、外国公使を刺殺しようと同志と相談した。しかし玄瑞が土佐藩の武市半平太に話したことから、これが前土佐藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。

12月12日には、幕府の異勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。これらの過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩では晋作を江戸から召還する。その後、吉田松陰の生誕地である松本村に草庵を結び、東行(とうぎょう)と名乗って、十年の隠遁に入ると称した。

25歳の高杉晋作

京都では薩摩藩と会津藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が追放される。1月、晋作は脱藩して京都へ潜伏する。
桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、
脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。7月、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、久坂玄瑞は自害した。

8月、4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきた。晋作はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、取り下げさせることに成功した(古事記を暗誦して有耶無耶にしたと言われる)。

これは清国の見聞を経た晋作が「領土の期限付租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している。

10月、下関で大敗した長州藩では保守派が台頭する。晋作は福岡に逃れる。

26歳の高杉晋作

3月、長州藩内の保守派を武力で排斥し、藩の実権を握る。

海外渡航を試みて長崎でイギリス商人グラバーと接触するが、グラバーに説得され洋行を断念。

下関開港を推し進めたことにより、攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛妾・おうのとともに四国へ逃れる。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。

10月坂本・桂らと回天の策を謀る。

27歳の高杉晋作

3月、グラバーの蒸気船に便乗、薩英会盟に加わるため長崎へ。
グラバーの説得で上海外遊(更にイギリス密航)を断念。

5月、伊藤俊輔と共に薩摩行きを命じられ、その途次長崎で蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を独断で購入。

第二次長州征伐では海軍総督として「丙寅丸」に乗船し戦闘指揮を執った。周防大島沖で幕府艦隊を夜襲してこれを退け、周防大島を奪還している。小倉方面では艦砲射撃の援護のもと奇兵隊・報国隊を門司・田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走させている。その後小倉城近くまで進撃したものの肥後藩細川家の軍勢に撃退され戦況は停滞した。

しかし7月20日将軍徳川家茂が死去すると7月30日には各藩が撤兵幕府軍の敗北が決定的となった。幕府の権威は大きく失墜し翌年11月の大政奉還へとつながることとなった。

知里幸恵の生涯

知里幸恵(ちり ゆきえ、1903年(明治36年)6月8日 – 1922年(大正11年)9月18日)は、北海道登別市出身のアイヌ人女性。19年という短い生涯ではあったが、その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ民族・アイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたことで知られる。


参考;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E9%87%8C%E5%B9%B8%E6%81%B5
 http://www9.plala.or.jp/shirokanipe/nenpyou.html