27歳の高杉晋作

3月、グラバーの蒸気船に便乗、薩英会盟に加わるため長崎へ。
グラバーの説得で上海外遊(更にイギリス密航)を断念。

5月、伊藤俊輔と共に薩摩行きを命じられ、その途次長崎で蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を独断で購入。

第二次長州征伐では海軍総督として「丙寅丸」に乗船し戦闘指揮を執った。周防大島沖で幕府艦隊を夜襲してこれを退け、周防大島を奪還している。小倉方面では艦砲射撃の援護のもと奇兵隊・報国隊を門司・田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走させている。その後小倉城近くまで進撃したものの肥後藩細川家の軍勢に撃退され戦況は停滞した。

しかし7月20日将軍徳川家茂が死去すると7月30日には各藩が撤兵幕府軍の敗北が決定的となった。幕府の権威は大きく失墜し翌年11月の大政奉還へとつながることとなった。