「理化学研究所の大河内正敏が書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京。だが、東京に着いてみると書生の話は通っておらず、やむなく仮寓先としていた井上工業に住み込みで働きながら、神田の中央工学校土木科(夜間部)に通う。その後、保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員といった職に就いた。
一時は、海軍兵学校入学を目指して研数学館や正則英語学校などにも通ったが、母の病気の報を受けて実業に志望を変えた
投稿者: agebook_ito
18歳の田中角栄
中央工学校土木科を卒業し、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937年(昭和12年)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する。
これに前後して、日比谷のビルで大河内正敏と偶然エレベーターに乗り合わせたことから知遇を得て、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた。
21歳の田中角栄
1939年に陸軍騎に入営し、4月より満州国富錦で兵役に就く。
内務班での私的制裁を古兵から受けたが、夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、部隊内の事務や能筆といった技能により、上官に一目置かれるように。
22歳の田中角栄
騎兵上等兵となる。しかし、同年11月にクルップ性肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。
23歳の田中角栄
クルップ性肺炎治癒後の1941年10月に除隊、除隊翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、1942年(昭和17年)3月に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚。家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。
25歳の田中角栄
事務所を改組して田中土建工業を設立した。理研コンツェルンとの関係も復活し、理化学興業(ピストンリング製造、現リケン)などから仕事を請け負う。田中土建工業は年間施工実績で全国50位入りするまでになった。
26歳の田中角栄
長女眞紀子が誕生。
27歳の田中角栄
理化学興業の工場を大田(たいでん、テジョン)に移設する工事のため、朝鮮半島に渡る。8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡した。
敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げた。田中土建工業は戦災を免れる。
28歳の田中角栄
田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の大麻唯男からの要請で献金をおこなったことをきっかけに、大麻の依頼により1946年4月の第22回衆議院総選挙に進歩党公認で、郷里の新潟2区(当時は大選挙区制でのちの中選挙区制での区とは異なる)から立候補。
誤算もあり、候補37人中11位(定数は8)で落選。
29歳の田中角栄
日本国憲法による最初の総選挙となった 第23回総選挙に、新たに設定された中選挙区制の新潟3区から、進歩党が改組した民主党公認で立候補し、12人中3位で当選。
9月に長男正法4歳で死亡
11月に炭鉱を国家管理する臨時石炭鉱業管理法が提出されると、田中は本会議で反対票を投じ、他の14名とともに離党勧告を受ける。同様の理由で除名・離党した民主党議員と共に11月28日結成された同志クラブ(のち民主クラブ)に加盟した。
30歳の田中角栄
第2次吉田内閣が発足。新内閣で田中は法務政務次官に就任。
まもなく、1年前の炭鉱国家管理法案をめぐって炭鉱主側が反対議員に贈賄したとされる疑惑(炭鉱国管疑獄)が表面化し、11月23日には田中の自宅や田中土建工業が東京高等検察庁に家宅捜索される。12月12日、衆議院は逮捕許諾決議を可決し、翌日田中は逮捕されて東京拘置所に収監された。
田中の主張は、受け取った金銭はあくまで相手からの請負代金であり、贈収賄ではないとするものだった。
12月23日に衆議院は解散し、第24回総選挙が実施される。この選挙に田中は獄中立候補する。
32歳の田中角栄
長岡鉄道(後の越後交通長岡線)の沿線自治体から、路線の存続と電化の要望を受け、1950年10月に同社の社長に就任。
田中は電化を実現させるため、鉄道省OBで「電化の神様」といわれた西村英一に依頼したり、やはり鉄道省OBの佐藤栄作を顧問に呼ぶなどの手を打ち、1951年12月に電化を実現させる。
それまで弱かった三島郡で支持を広げることとなった。この効果も寄与する形で、田中は1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では初めてトップ当選を果たしている。
33歳の田中角栄
大野市郎や亘四郎の地盤であった(長岡鉄道沿線の)三島郡で支持を広げることとなった。この効果も寄与し、田中は1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では初めてトップ当選を果たしている。
35歳の田中角栄
母校の中央工学校の校長に就任
39歳の田中角栄
第1次岸信介改造内閣で郵政大臣に就任。
戦後初めて30歳代での大臣就任。テレビ局と新聞社の統合系列化を推し進め、その強力な権力と指導力により、現在の新聞社 – キー局 – ネット局体制の民間放送の原型を完成させる。その過程で官僚のみならず報道機関も掌握した。特に民放テレビ局の放送免許(とりわけ地方局の免許)を影響下に置いたことは、その後の田中の飛躍の原動力になった。
47歳の田中角栄
大蔵大臣を辞任し、自由民主党幹事長に就任。
53歳の田中角栄
第3次佐藤栄作内閣の改造で通商産業大臣。
54歳の田中角栄
5月 – 佐藤派から田中派が分離独立。
6月 – 『日本列島改造論』を発表。
7月5日 – 佐藤栄作が支持した福田赳夫を破り自由民主党総裁に当選。
7月6日 – 第1次田中内閣が成立。
9月 – 中華人民共和国を訪問。首都北京で周恩来首相や毛沢東共産党主席と会談。9月29日、両国の共同声明により日中国交正常化が実現し、日華平和条約の終了を確認
56歳の田中角栄
月刊誌「文藝春秋」に立花隆が「田中角栄研究」を発表し金脈問題を追及する
58歳の田中角栄
2月 – ロッキード事件発生。アメリカの上院外交委員会で、ロッキード社による航空機売り込みの国際的リベート疑惑が浮上。7月27日に、同社による全日本空輸に対する売りこみにおける5億円の受託収賄罪と外国為替・外国貿易管理法違反の容疑により、秘書の榎本敏夫などと共に逮捕される。
当時のニュース
64歳の田中角栄
上越新幹線暫定開業(大宮 – 新潟)。第1次中曽根内閣発足。田中の全面的な支持を受け、「田中曽根内閣」と揶揄される。
65歳の田中角栄
ロッキード事件の一審判決、懲役4年、追徴金5億の実刑判決で即日控訴
第37回総選挙、自身は圧倒的支持で当選するが、自民党は大敗、田中批判で立候補した野坂昭如も落選
一連の流れを受け、中曽根総裁が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」と声明を発表
67歳の田中角栄
脳梗塞で倒れ入院。言語症や行動障害が残り、以降政治活動は不可能に。
68歳の田中角栄
トップ当選。田中は選挙運動が全く行えず、越山会などの支持者のみが活動。自民党は圧勝。4年近くの任期中、田中は一度も登院できなかった。
71歳の田中角栄
政界引退を表明「顧みて我が政治生活にいささかの悔いもなし」との声明文が読み上げられた。勤続43年
75歳の田中角栄
第40回総選挙。眞紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。田中自らも病をおして新潟入りし、眞紀子の応援をする。後に自民党へ入党。選挙で過半数を下回った自民党は下野し、元田中派所属の細川護熙による非自民8党連立内閣が発足。
12月16日 – 慶應義塾大学病院にて75歳で死去
ロバート・キャパの名言・格言
ロバート・キャパ1913年10月22日 – 1954年5月25日)は、ハンガリー生まれの写真家。
本名はフリードマン・エンドレ・エルネー。フランス語読みのアンドレ・フリードマンの名で呼ばれることも多い。
同じく写真家で、1974年にICPを創設したコーネル・キャパは弟。
スペイン内戦、日中戦争、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線、第一次中東戦争、および第一次インドシナ戦争の5つの戦争を取材した20世紀を代表する戦場カメラマン、報道写真家として有名である。
「ロバート・キャパ」と銘打たれた初期の作品群は、実際には、親しくしていたゲルダ・タローとの共同作業によるものである。
スペイン内戦で親交を持ったヘミングウェイ、アルジェで知り合ったスタインベック、ピカソら多方面の作家・芸術家たちとの幅広い交際も有名である。
ロバート・キャパの名言・格言
君がいい写真を取れないのは、 あと半歩の踏み込みが足りないからだよ。
撮影する人間を好きになれ、そしてそれを相手に伝えろ。
生き残る確率が50%もあるなら、 僕は迷わずパラシュートで降りて、 写真を撮りにいく。
戦場カメラマンの一番の願いは、 失業することなんだよ。
そばにいるのにその周囲で起きている苦しみを記録することしかできないというのは必ずしも気楽なものではない。
幼少期のロバート・キャパ
フリードマンは1913年10月22日、洋服店洋服店を営んでいたユダヤ系の両親の次男として、ハンガリーのブダペストに生まれた。
1919年に福音派の学校に入学、1923年にマダーチ・イムレ・ギムナジウムに入学。
18歳のロバート・キャパ
共産党活動容疑で逮捕される。釈放後はドイツのベルリンで写真通信社「デフォト」の暗室係となる。
19歳のロバート・キャパ
彼にとって最初期のものとなるデンマークで講演するレフ・トロツキーの写真を撮影。
20歳のロバート・キャパ
ユダヤ人排斥が激しくなり母と弟はアメリカへ亡命した。フリードマンもベルリンを脱出しブダペストでヴェレシュ旅行社のカメラマンとなる。翌年にフーク・ブロック通信社の臨時雇いとなる。
その後フランスのパリに拠点を構えたものの、フリードマンの写真はほとんど買ってもらえず、わずかに売れた場合でもひどく安値で、まともに生活できるほどの生活費が得られない状態だった。あまりに困窮したため、同時期にパリに在住していた川添浩史のアパルトマンに入り込む。親しく交流し、彼らに金を借りてライカを買ったという。パリ在住の日本人らと交流し、キャパの恋人であるゲルダが使ったペンネーム「ゲルダ・タロー」は当時パリに在住していた岡本太郎にちなんだものとされる。
23歳のロバート・キャパ
25歳のロバート・キャパ
27歳のロバート・キャパ
1940年にメキシコに数ヶ月滞在し大統領選を取材。
30歳のロバート・キャパ
31歳のロバート・キャパ
1944年にはノルマンディー上陸作戦を取材。第1歩兵師団第16連隊第2大隊E中隊に従軍した。最大の戦死者を出したオマハ・ビーチにてドイツ軍と連合軍が入り乱れる中、100枚以上の写真を撮影した。
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32歳のロバート・キャパ
1944年の8月にはパリ解放を撮影。同年12月のバルジの戦いを経て、1945年の終戦まで取材した。
33歳のロバート・キャパ
アメリカ市民権を獲得し、イングリッド・バーグマン(スエーデン出身のアカデミー賞を受賞した女優)やピカソら著名人を撮影した。

特にバーグマンとは恋仲になったものの、結婚するまでに至ることはなく別れている。
34歳のロバート・キャパ
1947年にアンリ・カルティエ=ブレッソン、デヴィッド・シーモア、ジョージ・ロジャーらと国際写真家集団「マグナム」を結成。同年にジョン・スタインベックらと共にソビエト連邦へ旅行に向かう。1948年にはイスラエルの建国と第一次中東戦争を取材した。
41歳のロバート・キャパ
1954年4月に日本の写真雑誌『カメラ毎日』の創刊記念で来日、市井の人々を取材した。程なく東京で『ライフ』から第一次インドシナ戦争の取材依頼を受け、北ベトナムに渡る。

5月25日、午前7時にナムディンのホテルを出発、タイビン省のドアイタンにあるフランス軍陣地に向かう。午後2時30分ころドアイタンに到着。2名の後輩カメラマンと共にフランス軍の示威作戦へ同行取材中の午後2時55分、ドアイタンから約1キロの地点にある小川の堤防に上った際に地雷に抵触、爆発に巻き込まれ死亡した。
桜井和寿の名言・格言
桜井 和寿(さくらい かずとし、本名:櫻井 和寿(読み同じ)、1970年3月8日 – )は、日本のミュージシャンであり、Mr.Childrenのボーカリスト、ギタリストである。
東京都練馬区出身。アマチュア時代から一貫してMr.Childrenの楽曲の殆どの作詞、作曲を手掛けている。 2004年からはBank Bandとしても活動
トータルセールス(CD総売上枚数):5,861.6万枚(2015年2月時点・歴代2位)
桜井 和寿の名言・格言
何かのせいにするのではなく、発想を転換することでポジティブに、明るくなれる。それを提案みたいな感じでやっている。それが今のミスターチルドレンの音楽だと思う。
昨日の自分より、今日の自分を好きになれれば良いと思う。
幸福になりたい”っていう言葉を使っているうちはいつまでも幸福じゃないんじゃないかと。でも至福は至っているわけで、今ある状態で自分は十分に幸せだと思えていることが至福ということですね。
事件とか悲しいニュースの責任追及をするのではなくて、自分の内面にもその責任や原因の一端があるんじゃないかということを常に意識していたい。
人は簡単には理解しあえないそれでも僕は伝えたい
こうやって明かりを消すことによって普段は見えない何かが、見えてくると思うんです。
『あきらめる』とは『明らかに見極める』。
僕は笑者でありたい
オスカー・シンドラーの名言・格言
幼少期の桜井和寿
桜井和寿 1970年3月8日東京に生まれる
勉強はできなかったが、親は勉強については文句を言わず、
教育方針は、「何か一つみんなより自信を持って
優れていると言えるようなものを身につけろ」ということだったという。
体育だけは一生懸命。
音楽は女がやるものだと思い込んでいて、
音楽の時間に絶対に歌わない姿勢を貫き、
音楽の先生から往復ビンタ20発ぐらいくらったけど、
それでも歌わなかったという。
「ROCKIN’ON JAPAN1995年2月号:桜井和寿インタビュー」より
幼少期のオスカー・シンドラー
1908年4月28日、現在チェコのスヴィタヴィに生まれた。
シンドラー一家の信仰はカトリックだったが、シンドラー自身は宗教に関心がなく、カトリックの影響はほとんど受けることはなかった。
近隣のユダヤ人家族の子どもたちは、彼の遊び仲間だった。
13歳の桜井和寿
中学校時代
悪いグループに入っていたが、
「万引き」など命令する番長が嫌で、グループを抜けるために、
交番に行き「僕は万引きをしております」といい、
それで家に知られて、悪グループから抜けた。
その頃にギターを始めた。
友達のお兄さんがエレキギターを持っていて、「かっこいいなあ」と思った。姉が使っていないフォークギターをゆずりうけた。
「禁じられた遊び」を単音で弾いていたら、お姉さんがバカにして、
「あんた天才じゃないの?」と言ったのを真に受けた。
16歳のオスカー・シンドラー
国民学校に入学し、さらに実科学校、上級実科ギムナジウムと進んだが、成績証明書の改ざんを行ったことで1924年に退学処分となった。
後に学校へ戻る事を許されたが、クラスメイトから「詐欺師シンドラー」と呼ばれる。
学業優秀ではなく大学進学もあきらめている。
16歳の桜井和寿
高校受験を考える中3になった時、軽音楽部がある高校を選んで受験。
関東高校(現聖徳学園高校)に入学
入学後すぐにできた彼女がキーボード、現在MrChildrenメンバーの中川がベース、田原がギター、桜井がギター&ボーカルでバンド「Beatnik」結成(後のMr.Childrenとなる)。初のオリジナル曲「クリスマスナイト」を製作
彼女ができたことですごく自信になり、
自分の性格や考え方がガラっと変わったという。
「音楽と彼女の二つのことだけを一生懸命やった」
高校1年の時から「プロを目指してやって行こう!」と思い、オーディションにテープを送っていた。
田原と彼女めぐって三角関係になり、中川が仲裁したこともあるという
19歳のオスカー・シンドラー
電機会社で働いたが、1927年に一旦辞職してシェーンベルク(現・チェコのシュムペルク)のオートバイ学校へ通った。
18歳の桜井和寿
1988年(昭和63年)、コンクールのテープ審査を通過したがライヴ審査前にドラマーが脱退。田原、中川の中学時代の同級生で他のバンドで活動していた鈴木英哉の元へ桜井が審査用の曲が入ったテープを持ち込み、ライヴ審査当日までという期限付きの約束で代役を頼んだ。後日、正式なバンド加入を依頼して鈴木が承諾。現在のメンバーとなる
20歳のオスカー・シンドラー
在学中にチェコスロバキア陸軍の徴兵を受けた。また1928年5月からしばしばオートバイ・レースに出場。
1928年エミーリエと結婚。
19歳の桜井和寿
1989年1月1日から「Mr.Children」に改名
当時4人は「チルドレン」という言葉の響きを気に入っていて、イギリスのバンド「THE MISSION」が1988年に発売したアルバム『CHILDREN』や、バンド「The Railway Children」、世界中の飢えや貧困に苦しむ子供を写したロバート・キャパの写真集『戦争・平和・子どもたち』など、好きなものに「チルドレン」含む名称が多かった。ただ、大人になった後も「Children」のままでは如何なものかと思い、正反対の「Mr.」を付けて年が明けた1989年1月1日から使用した。
23歳のオスカー・シンドラー
軍の勤務を終えた後、シンドラーはブリュンの電機会社に復職したが、この会社は1931年に倒産してしまった。シンドラーはこの後一年ほど失業者になった。シンドラーの父の農業機械工場も倒産していたため援助を受けられず、結局はエミーリエの父に援助してもらって生活を耐え凌いだ。シンドラーは養鶏場を買い、またプラハの銀行の代理人の仕事に就き、ブリュンの商人に国有財産を売却する仕事に携わる。
21歳の桜井和寿
11月に小林武史と初対面。後に小林はMr.Childrenとの初対面時を「(雰囲気が)暗いし、演奏も決して上手くは無かった」と回想している。
桜井は「曲の事に関して『こんなにシビアな人は鬼か!』と思ったことも」
と語る。
25歳のオスカー・シンドラー
妻エミーリエとの間に子供はできず、シンドラーは父の秘書だったアウレリエ・シュレーゲル(Aurelie Schlegel)を愛人にして、彼女との間に私生児2人をもうけている。
22歳の桜井和寿
アルバム『EVERYTHING』で「Mr.Children」としてメジャーデビュー。
この頃から100万枚売るというのが心の中にあったという。
ブレイクするきっかけはタイアップにあると考え、
レコード会社に「タイアップ取ってくれ」とも言ったという。
タイアップの世の中だった時代、「『だったら15秒の中で俺も勝負してやる』」と、秒数測って曲を書き、15秒の中で活きる曲をプールしておいたという。
初のシングル局「君がいた夏」
セカンドシングル「抱きしめたい」をリリース
27歳のオスカー・シンドラー
ドイツ民族主義的な政党に入党した。ここを通じてヴィルヘルム・カナリス提督率いるドイツ国防軍諜報部「アプヴェーア」と接触し、その諜報員として活動することになった
23歳の桜井和寿
ブレイクするきっかけとなった、4thシングル「CROSS ROAD」をリリース
この頃についての発言
「『今はミスターチルドレンが好き』なんつってる人がいても、
どうせ飽きるんだったら、新しいとこ(今までと違う年代のリスナー)を目がけてやった方がいいじゃんっていうのは思いますよね」
「やっぱり消費されて行くのはしょうがないし、でも誰かの気持ちの中に残るだろうっていう風には信じてやってますけど」
30歳のオスカー・シンドラー
彼の諜報活動が露見した時、チェコの鉄道内部の秘密情報を漏らしたということで、大叛逆罪の罪で死刑の宣告を受ける。
しかし、1938年10月にドイツのズデーテン併合があったため、ドイツによって刑の執行は中止された。
24歳の桜井和寿
トイズファクトリーの元社員と結婚
1994年のリリース
「innocent world」でオリコンチャート1位を獲得
「Tomorrow never knows」
「everybodygoes」
31歳のオスカー・シンドラー
没収前ユダヤ人の所有になっていた、落ちぶれた琺瑯(ホーロー)容器工場を買い取る。彼は、ユダヤ系ポーランド人会計士イツァーク・シュテルンの助言を受けながら、闇商売で資産を拡大していく。
クラクフ近くにあるザプロヴィツの小さな工場は、ドイツ軍の厨房用品を製造して急激な成長を遂げた。
工場はわずか3カ月で250人のポーランド人労働者を使うようになり、その中には7人のユダヤ人労働者もいた。
シンドラーは、快楽主義者で遊び人で、金を湯水のように使い、プレイボーイだったという。






