夢を諦めて日本に帰りたいと思った時期、ふと寄ったリオの公園で現地の貧しい少年達がサッカーをしているのを見た。その中には裸足の子や片足がない子もおりボールは古く汚いものだったが、皆楽しそうにボールを追っていた。カズは「自分には両足も、スパイクも、いいボールもある。何を俺は贅沢なことを言っているんだ」と思い、帰国を思いとどまった。
SBSユースに出場したキンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋し、当時静岡高校選抜のDF中山雅史、FW武田修宏らと試合を行った。
夢を諦めて日本に帰りたいと思った時期、ふと寄ったリオの公園で現地の貧しい少年達がサッカーをしているのを見た。その中には裸足の子や片足がない子もおりボールは古く汚いものだったが、皆楽しそうにボールを追っていた。カズは「自分には両足も、スパイクも、いいボールもある。何を俺は贅沢なことを言っているんだ」と思い、帰国を思いとどまった。
SBSユースに出場したキンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋し、当時静岡高校選抜のDF中山雅史、FW武田修宏らと試合を行った。
サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ(U-21)に、日本人として初出場、この大会やキンゼ・デ・ジャウーの育成組織で活躍。
サンパウロ州のサントスFCとプロ契約。5月にはSEパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップで凱旋帰国。
しかしサントスFCで出場できたのは1部リーグ2試合だけに留まり、1986年10月にはパラナ州のSEマツバラへレンタル移籍、1987年2月にはマツバラと正式契約を結び、レギュラーとして南部三州リーグ優勝に貢献。
同年10月、アラゴアス州のクルベ・ジ・レガタス・ブラジル(CRB)に移籍し、ここでもレギュラーとして活躍、日本人で初めてブラジル全国選手権に出場。
サンパウロ州のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍。コリンチャンス戦で日本人としてリーグ戦初得点を記録し、格上の人気チーム相手に3-2で勝利するというジャイアント・キリングを起こした。
このときの試合はブラジル全土にテレビ中継されていたために、カズという日本人の名前が広く知れ渡った。
ブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の年間ポジション別ランキングで左ウィングの第3位に選ばれた。
サントスFCへ4年振りに再移籍した。もう一度サントスでプレーして自分の力を証明したいと思っていたため、誘いを掛けてきた他のチームの話もあったがそれを断っての移籍という。
ブラジルで活躍すれば、いずれは日本へ戻ると公言していたカズは、1990年7月、Jリーグ発足が現実味を増す中、日本のW杯出場に貢献するためにブラジルに残ることよりも日本でプレーすることを決断し、日本サッカーリーグの読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎 = 現東京ヴェルディの前身)に移籍。
1992年のJリーグカップではヴェルディを優勝に導き大会MVP、Jリーグ開幕後はラモス瑠偉、北澤豪、武田修宏、ビスマルク、柱谷哲二、ペレイラ、菊池新吉らその他多くのチームメイトに恵まれV川崎の黄金期を築いた。1992年の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)受賞
FIFAワールドカップ・アメリカ大会予選では、1次予選では9ゴール、最終予選では4ゴールを挙げエースとして活躍。中でも大韓民国戦での決勝ゴールは、日本サッカーが40年もの間超えられなかった壁であった韓国を、ワールドカップ予選で初めて破ったという大きな意味をもつ。
しかし最終予選最終戦のイラク戦でロスタイムに同点にされ(「ドーハの悲劇」)、ほぼ手中にしていた本大会出場をあと一歩のところで逃した。
1993年、日本人最高の20得点を記録しV川崎を初代チャンピオンに導き、Jリーグ初代MVPを受賞。
6試合連続得点を達成。これは日本人Jリーガーとしては現在も最多記録。
日本リーグとJリーグを跨いで年間最優秀選手に輝いた。1993年のアジア年間最優秀選手賞を受賞した。
この年にタレントの設楽りさ子と結婚。
イタリア・セリエAのジェノアCFCに1年契約で期限付移籍。
アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。
この移籍には商業的な価値を期待していたと見る向きが強く、胸スポンサーとしてケンウッドが入っていたこともあって、入団会見では「スポンサーを得るために獲得したと言われているが、どう思うか?」などと辛辣な質問も浴びせられた。ACミランとのセリエAデビュー戦において、鼻骨骨折と眼窩系神経を損傷してしまい、一ヶ月の戦線離脱を余儀なくされた21試合出場(先発10試合)1得点に留まった。
その後、トリノFC、スポルティング・リスボンといったチームからオファーが来ていたが、シーズン終了後にはV川崎へ復帰することとなった
1996年Jリーグ得点王になるなど活躍し第76回天皇杯全日本サッカー選手権大会制覇。
怪我もあって試合出場数は半分に満たない14試合にとどまり得点数もわずか4点しか上げることができず、チームは初の二桁順位。この年あたりから以前のようなキレが徐々に無くなり、怪我も多くなっていたが、追い討ちをかけてW杯最終予選の韓国戦でのラフプレーで尾てい骨を骨折しコンディションを大きく落としてしまう。
V川崎は親会社の撤退で大幅な経営縮小のため、高年俸のベテラン選手達のリストラを敢行し、カズに対しても年俸ゼロ円提示がなされる。カズはクロアチアのクラブチーム、クロアチア・ザグレブへ2年契約で移籍。
ワールドカップ本大会のためスイスでの直前合宿に臨んだ。しかし、北澤豪、市川大祐と共に、本大会出場メンバーの選考から漏れ苦渋の帰国となった。カズは帰国会見で「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」とコメントした。
1999年京都パープルサンガに移籍。2000年5Jリーグ通算100得点を達成。33歳ながら17得点を記録し得点ランキング3位に入るなど活躍する。しかしこのシーズン、京都は降格し、自身2回目であるゼロ円提示を受ける。
ヴィッセル神戸に所属、4年間キャプテンとしてチームを引っ張る。
7月、横浜FCに移籍。
横浜FCに移籍後間もない11月、2005年に設立したばかりのオーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)としてシドニーFCに期限付き移籍した。
2月からは横浜FCの選手兼任の監督補佐に就任するが、登録上は選手扱いである(Jリーグの規定では選手が監督・コーチを兼任することが出来ない)。このシーズン、39試合に出場し6得点、横浜FCのJ1初昇格に貢献
シーズン全34試合中24試合に出場、3得点をマークする。9月15日のサンフレッチェ広島戦で日本人選手史上最年長ゴールを記録。
2011年3月29日に行われた東日本大震災の日本代表のチャリティマッチにおいてJリーグ選抜に選出され、得点を挙げ、試合前の宣言通りカズダンスを披露。
このシーズンでは得点を挙げることができず、「J連続得点記録」は18年でストップ。
12月、横浜FCに所属しながらFリーグ・エスポラーダ北海道にJリーグ選手枠として登録。
サングラスだけでなくメガネの愛好家としても有名なカズは同年「第24回 日本メガネベストドレッサー賞」においてスポーツ界部門で受賞。
2012 FIFAフットサルワールドカップ日本代表に選出。
10月27日にフットサルウクライナ代表戦に出場、前半14分にフットサル選手として初ゴールを挙げた。
横浜FCで自身の持つ最年長ゴール記録を48歳1か月10日に更新。
司馬 遼太郎(しば りょうたろう、1923年(大正12年)8月7日 – 1996年(平成8年)2月12日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家、評論家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。大阪府大阪市生まれ。筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。
産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』など多くがあり、戦国・幕末・明治を扱った作品が多い。『街道をゆく』をはじめとする多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。
司馬遼太郎の名言・格言
男というものは思慮きわまれば、
常識、情勢をもって判断すべきではない。
男たる者の道をもって判断すべきだ。
人間にとって、その人生は作品である。
人間は決して、孤立して生きられるようには、作られていない。
安室奈美恵(あむろ なみえ、1977年9月20日 – )は、日本の女性歌手、ダンサーである。
ライブでは2015年4月時点まで、544公演を行い、計約345万人を動員
安室奈美恵の名言・格言
“私は、ひとつのことがうまくいったからといって現状維持しようと守りに入りたくない。リスクを恐れず、現状維持ではないことをあえて選択してでも、常に挑戦し続けたいんです。”
出典More 2010年5月号
“簡単にダメだと折れるのか、それとも「どうにかしてやろうじゃん」と立ち上がるのか。私は後者の方が楽だと思う。”
出典GINGER 2009年6月号
“自分に自信を持つことはすごく勇気のいること。だって、それだけのことをしなきゃいけないから。責任もあるし、責任をとれる自分であるかどうかも不安になっちゃうけど、それも勢いとハッタリが後押しをしてくれる!結果ダメだったとしても、『きちんと尻拭いはします』っていう態度でいないと、何をするにも無理ですよね。やっぱり好き勝手して、逃げちゃいそうな人には誰もついていかないから。”
出典Mina 2008年8月20日号
“母のことがあってからはずっと辛かった。なんでこんなに濃い人生なんだろう。もう仕事も“安室奈美恵でいること”もやめたいと思っていました。だけど、今がどん底だとすれば、これ以上悪くなることはないはず。そう思うと、少しずつ楽になれました。”
出典AERA 2008年5月号
1923年8月7日、大阪府大阪市浪速区西神田町(現・塩草)に、薬局を経営する父・福田是定(薬剤師)、母・直枝の次男として生まれた。
兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。乳児脚気のために3歳まで奈良県北葛城郡當麻町(現・葛城市)の母の実家に里子に出されていた。
安室奈美恵 1977年9月20日
沖縄県那覇市首里に3人兄妹の末っ子として生まれる。
私立上宮中学校に進学。入学後の成績は300名中でビリに近く本人も驚いたらしいが、慌てて勉強をしたら二学期には上位20位に入ったという。井伏鱒二の『岩田君のクロ』に感銘を受ける。3年生から松坂屋の横の御蔵跡町の図書館に通うようになる。
小5の時、沖縄アクターズスクールに通う友達の付き添いで同校へ見学に訪れた際、同校のマキノ正幸校長にスカウトされる。母親と相談の末、月謝が払えないという理由で一度は入校を断念するが、校長に見込まれて異例の特待生として入校、その日から片道1時間半の距離を徒歩で週3日通う日々を送る。入校時は人見知りが激しく引っ込み思案であったが、ほどなくして琉球放送のローカル番組内で行われた『ちびっ子カラオケ大会』に出場し、見事優勝したことで周囲を驚かせた。
当初は女優志望で芝居の稽古などもしていたが、ビデオで観たジャネット・ジャクソンの「Rhythm Nation」のPVに衝撃を受けて以来、歌とダンスに没頭する
1940年旧制大阪高校、翌年には旧制弘前高校を受験するも不合格。
アクターズ内で結成されたダンスグループ“SUPER MONKEY’S”のメンバーに選出され、1992年より芸能活動を開始。同年9月に同グループは東芝EMIよりメジャーデビューし、自身はセンターボーカルを担当する。各メディアで積極的にプロモーションを行うが、デビュー当初はヒット作には恵まれなかった。
4月に旧制大阪外国語学校(新制大阪外国語大学の前身、現在は大阪大学外国語学部)蒙古語学科に入学。
当時の学生の大半がそうであったように語学が嫌いで、早稲田大学の中国文学に鞍替えしようかと考えたこともあった。しかし読書は依然として好み、ロシア文学や、司馬遷の『史記』を愛読。
フジテレビ系『ポンキッキーズ』に鈴木蘭々とのコンビ“シスターラビッツ”として出演し、注目を集める。同年7月にリリースしたシングル「PARADISE TRAIN」からSUPER MONKEY’Sは“安室奈美恵 with SUPER MONKEY’S”へと名義を変更。
同時期に所属プロダクションの社長から松浦勝人(MAX松浦)を紹介される。
学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業(翌年9月に正式卒業となる)。兵庫県加東郡河合村(現:小野市)青野が原の戦車第十九連隊に入隊。軍隊内ではかなり珍しい「俳句の会」を興し
1995年1月、松浦のプロデュースによりリリースされたシングル「TRY ME 〜私を信じて〜」が73万枚の大ヒットとなり、ユーロビートのカバーで初のヒットを生み出す。
4月からは日本テレビ系音楽バラエティ『THE夜もヒッパレ』にレギュラー出演。同年リリースのシングル「太陽のSEASON」からCDクレジットが単独名義となり、これが事実上のソロデビュー作となる。
松浦勝人のパートナーであった小室哲哉と出会い、1995年8月に行われたavex dance Matrix ’95 TK DANCE CAMPに出演。同10月にSUPER MONKEY’Sの楽曲を含んだファーストアルバム『DANCE TRACKS VOL.1』が初のオリコンチャート首位を獲得し、オリコン及び出荷ベースで初のミリオンセラーを記録した。
翌週には小室プロデュース第1弾シングル「Body Feels EXIT」をリリースし、同時にエイベックスへレコード会社を移籍。
以降は小室がプロデュースを担当する。
12月にリリースされた「Chase the Chance」は、シングルで初のオリコンチャート首位、ミリオンセラーを記録した。
同曲で『第46回NHK紅白歌合戦』に初出場。同日、『第37回日本レコード大賞』に初めてノミネートされ、「TRY ME 〜私を信じて〜」で優秀作品賞を受賞。
本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。
司馬は「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう? いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」との疑問を持ち、「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐している。佐野での敗戦の体験が、その後の作家生活の原点にあったと考えられる。復員後は直ちに図書館通いを再開する。
シングル「Don’t wanna cry」、「You’re my sunshine」、「a walk in the park」がミリオンセラーを記録。また若者のファッションリーダーとなり、彼女を真似する女性を指した“アムラー”がこの年の流行語に。
10代の歌手としての記録も次々と塗り替えた。同アルバムは出荷350万枚と当時の過去最高記録を達成。8月には女性アーティストでは史上最年少記録(当時18歳)でのスタジアム公演SUMMER PRESENTS ’96 AMURO NAMIE with SUPER MONKEY’Sを開催。そして大晦日の『第38回日本レコード大賞』では「Don’t wanna cry」で史上最年少での大賞を受賞。
初の写真集『#19770920』も発売
自身が学んだ沖縄アクターズスクールも注目を集め、沖縄出身アーティストの先駆けとなるなど、その人気は社会現象となった。
1946年に新日本新聞京都本社に入社。大学、宗教記事を書いたが、社は2年後に倒産。
「CAN YOU CELEBRATE?」はダブルミリオンを突破し、オリコン年間シングルチャート首位を獲得。同時に、邦楽女性ソロアーティスト歴代1位のシングル売上を記録。
10月22日、TRFのダンサー・SAMとの結婚を発表、妊娠3ヶ月であることも明らかにした。
1948年産経新聞社から「外語大卒だから英語くらいできるだろう」と誘われ、英語がまったくできないにもかかわらず「できます」と応じて京都支局に入る。同年11月歌人川田順の失踪事件を取材、「老いらくの恋」という見出しを付け流行語になる
出産のため1年間の産休に入り、育児に専念。この間にベストアルバム『181920』をリリース。同5月19日、長男を出産。12月には復帰シングル「I HAVE NEVER SEEN」をリリース。『第49回NHK紅白歌合戦』では1年ぶりに公の前に登場し、前年と同じく「CAN YOU CELEBRATE?」を歌う。歌唱中、会場からの暖かい声援と拍手に感極まり涙を流した。
金閣寺放火事件の記事を書いた。このころ京都の寺社周り・京都大学を担当し、その結果京都の密教寺院で不思議な僧侶らと出会ったり、石山合戦のときの本願寺側の兵糧方の子孫の和菓子屋と話したり、京都大学で桑原武夫、貝塚茂樹らの京都学派の学者たちに取材したりするなど、後年の歴史小説やエッセイを執筆する種となる出会いがあった。その後文化部長、出版局次長を務めた。
大阪大学医局の薬剤師と見合いにより最初の結婚
シングル「RESPECT the POWER OF LOVE」の発売日であった3月17日に安室奈美恵実母殺害事件が起こる。事件のショックでしばらくは活動休止状態になると見られていたが、3月29日の『HEY!HEY!HEY!』の生放送で仕事を再開。
1952年(昭和27年)に長男が誕生するが、1954年(昭和29年)に離婚。長男は実家の福田家に預けられ祖父母に養育される。
2001年1月に発売したリカット・シングル「think of me/no more tears」を最後に小室プロデュースを離れる。以降は、R&B・HIP HOP志向の曲をリリース。
アメリカ同時多発テロ事件の義援金として1200万円を寄付
『名言随筆・サラリーマン』(六月社)を発表。この作品は本名で発表したが、このほかにも「饅頭伝来記」など数作本名で発表した作品があるといわれる。さらに、友人に勧められて小説を書くようになる。
SAMと離婚。当初、親権はSAMに渡ったが、養育権は安室が持ち、2005年には親権も移りシングルマザーとなる。
SAMと離婚後、両腕にタトゥーを入れた。
左腕には以下の英文と、その下に大きくHARUTOと刻まれている。
JUN.30 in 1950
my mother’s love live with me
Eternally in my heart
R.I.P
MAR.17 in 1999
1950年6月30日(母親の生年月日)
母の愛は私と一緒に生きている
私の心の中で永遠に
rest in peace(安らかに眠れ)
1999年3月17日(母親が亡くなった日)
右腕にはバーコードと自身の生年月日が刻まれていたが現在は消している。右腕内側に新たに『Love Peace World』と刻まれている。
「Wishing On The Same Star」をリリース
「ペルシャの幻術師」が第8回講談倶楽部賞を受賞し、出世作となる
MTV Video Music Awards Japan 2005』にパフォーミング・アーティストとして出演し、Best R&B Video(最優秀R&Bビデオ賞)(受賞曲「GIRL TALK」)、Most Impressivle Performing Artist In Asia(アジア最優秀パフォーミング・アーティスト賞)の2冠受賞。史上初の4年連続受賞の快挙を達成
「WANT ME, WANT ME」をリリース
同じ産経新聞記者の松見みどりと再婚。12月に大阪市西区西長堀のアパートに転居。同じアパートに南海ホークス時代の野村克也がいた。『大坂侍』『梟の城』を発表。
「Baby Don’t Cry」をリリース
『梟の城』で第42回直木賞を受賞。
6月には台湾公演、7月には上海で自身初となる中国公演を開催し、海外公演を初映像化したライブDVD『namie amuro BEST FICTION TOUR 2008-2009』が初動売上記録で女性アーティスト歴代1位となり9年ぶりに記録を更新。
12月にはアルバム『PAST < FUTURE』をリリース。10代・20代・30代の各年代でのオリジナルアルバム首位獲得はソロアーティスト初の記録となり、アジア5ヶ国・地域での首位獲得は日本人女性アーティスト史上初の快挙となった。 https://www.youtube.com/watch?v=7prEbLsc_r4&index=38&list=PLFF694F8807AF5302
産経新聞社退社。執筆活動に専念する。
自身がゲスト参加した楽曲集めたコラボレーションアルバム『Checkmate!』をリリース。
アリーナツアーも行なっている。
東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)の義援金として日本赤十字社を通じて5000万円を寄付
『竜馬がゆく』『国盗り物語』にて第14回菊池寛賞受賞。
その後も『国盗り物語』に続き、『新史太閤記』『関ヶ原』『城塞』の戦国四部作を上梓した。
デビュー日である9月16日には、地元・沖縄で一夜限りの20周年アニバーサリーイベントnamie amuro 20th ANNIVERSARY LIVE in OKINAWAを開催する予定だったが、台風16号の影響により中止となった。
年末、15年振りとなる自身初の全国5大ドームツアーnamie amuro 5大ドーム TOUR 2012 ~20th Anniversary Best~を開催。5会場8公演で約34万人動員となり、動員数・公演数ともに女性ソロアーティスト歴代トップとなる
紀行随筆『街道をゆく』を週刊朝日で連載開始
自身初となるバラードベストアルバム『Ballada』を発売
明治の群像を描いた『坂の上の雲』の産経新聞での連載が終了。
また、幕末を扱った『世に棲む日日』で吉川英治文学賞。初期のころから示していた密教的なものへの関心は『空海の風景』に結実されている。「国民的作家」の名が定着し始めるようになり、歴史を俯瞰して一つの物語と見る「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観を築いて人気を博した。
全曲未発表のアルバム『_genic』を発売。全曲新曲&ノンタイアップという異例の作品であるにも関わらずオリコン1位初登場を記録
1980年代は下記の作品・人物をあつかった作品を発表。
『項羽と劉邦』(1980年、新潮社) – 楚漢戦争。連載時の題名は「漢の風 楚の雨」
『ひとびとの跫音』(1981年、中央公論社) – 正岡忠三郎(子規の妹正岡律の養子)
『菜の花の沖』(1982年、文藝春秋) – 高田屋嘉兵衛
『箱根の坂』(1984年、講談社) – 北条早雲
『韃靼疾風録』(1987年、中央公論社) – ヌルハチ、ホンタイジほか。明から清への興亡を、平戸藩出身の桂庄助の目を通し描く。
1986年には財団法人大阪国際児童文学館理事長に就任。
1996年「街道をゆく 濃尾参州記」の取材を終え、連載中の2月10日深夜に吐血して倒れ、国立大阪病院(現:国立病院機構大阪医療センター)に入院。
2日後の2月12日腹部大動脈瘤破裂のため死去した。
72歳没。死去した国立大阪病院は、奇しくも『花神』で書いた大村益次郎が死去した場所であった。絶筆「濃尾参州記」は未完となった。親族・関係者による密葬を経て、3月10日に大阪市内のホテルで「司馬遼太郎さんを送る会」が行われ、約3,000人が参列。
新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)に父・田中角次、母・フメの二男として生まれる。ただし、長兄は夭逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった。
田中家は農家だが父・角次は牛馬商、祖父・田中捨吉(田中角右衞門の子)は農業の傍ら宮大工を業としていた。母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという。幼少年時代に父角次がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされる。
幼いころ吃音があり、浪花節を練習して矯正した。
二田高等小学校(現在の柏崎市立二田小学校)卒業。
小学校時代から田中は勉学にすぐれ、ずっと級長をしていたという。高等小学校の卒業式では総代として答辞を読んだ
卒業後の田中は土木工事の現場で働くが1か月で辞め、その後柏崎の県土木派遣所に勤めた。旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労から「気が進まなかった」という