サン=テグジュペリの名言・格言

サン=テグジュペリ(A1900年6月29日 – 1944年7月31日)は、フランスの作家、操縦士。『星の王子さま』などの著作で有名。
郵便輸送のためのパイロットとして、欧州-南米間の飛行航路開拓などにも携わった。

名言・格言

愛、それはただ互いに見つめ合うことではなく、
ふたりが同じ方向を見つめることである

救いは一歩踏み出すことだ。さてもう一歩。
そしてこの同じ一歩を繰り返すのだ

計画のない目標は、ただの願い事にすぎない

他人を裁くより自分を裁く方がずっと難しい

人がそれを見つめて、
大聖堂を思い描いた瞬間、
石はただの石ではなくなる。

本当の贅沢というは、ただ一つしかない。
それは人間関係の贅沢のことだ。

生きながらえるためには、服従すべきであり、
存在しつづけるためには、戦うべきである。

未来とは、予知しようとするものではなく、
自分で可能にするもの。

僕の命を救ってくれたのは、他でもない。
このささやかなほほ笑みだったんだ。

参考;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%86%E3%82%B0%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%9A%E3%83%AA
http://pliocena.com/ticket/saint/antoin_c.html

26歳のサン=テグジュペリ

26歳で作家として「飛行家」の雑誌掲載でデビュー。
寡作ながら以後、自分の飛行士としての体験に基づいた作品を発表。著作は世界中で読まれ、有名パイロットの仲間入りをしたが、仲間のパイロットの間では反感も強かったという。後に敵となるドイツ空軍にも信奉者はおり、サン=テグジュペリが所属する部隊とは戦いたくないと語った兵士もいたという。

アエリエンヌ・フランセーズ社で遊覧飛行のパイロットとして臨時採用される。ラテコエール航空会社に操縦士として採用される。

31歳のサン=テグジュペリ

親会社に内紛が起こり、アルゼンチンでの地位を失う。カサブンランカとポールテチェンヌ間等の郵便輸送に従事。「夜間飛行」がアンドレ・ジッドの序文を付けて出版され、フェミナ章を受賞。英訳され、映画化される。

35歳のサン=テグジュペリ

「パリ=ソワール」誌の派遣記者としてモスクワに1ヶ月滞在。脚本を書いた映画「アンヌ=マリー」が成功を収める。これらで得た金をすべてつぎ込んで最新のシムーン型機を買う。この飛行機で各地を講演してまわる。12月29日朝、15万フランの賞金がかかったパリとサイゴン間の最短記録に挑戦して飛び立ったが、夜リビア砂漠に不時着して3日後に隊商に救われる。。

37歳のサン=テグジュペリ

2月、カサブランカ-トンブツク-バマコ-ダカールのサハラ砂漠を経由する路線を調査。4月、「パリ=ソワール」誌の特派記者として再びスペイン内乱を取材。8月、ナチズムの行為を見るためにドイツに飛ぶが、警戒が厳しくほとんど目的を果たさずに帰る。

39歳のサン=テグジュペリ

3月、自動車でドイツを旅行。7月、「人間の土地」出版でアカデミー・フランセーズ小説大賞を受賞。7月、友人ギヨメの飛行艇での大西洋横断飛行に同行。8月、「人間の土地」英語版宣伝のため、アメリカ訪問。ニューヨークでリンドバーグ夫妻に会う。戦争の危機を感じて、急遽帰国。9月対ドイツ開戦。召集され予備大尉となる。11月、偵察飛行大隊に配属される。

40歳のサン=テグジュペリ

「城砦」の執筆つづく。5月、フランス軍大敗走。アラスへ決死の低空偵察飛行。6月、アルジェに移動。休戦。8月、除隊になり帰国。11月、ギヨメ遭難死。アメリカの出版社からの要請やレオン・ウェルトの助言があって、参戦を促すためアメリカに向かう。大晦日、ニューヨーク着。

41歳のサン=テグジュペリ

1月、フランスの親独ヴィシー政権からメンバーに指名され、怒りの記者会見を開く。以降、アンドレ・ブルトンによる悪意の噂も手伝って、ヴィシー政府の回し者呼ばわりされる。滞在中、英語は一切話さなかったという。

「城砦」を中断して「戦う操縦士」の執筆にかかる。ジャン・ルノワールの誘いでハリウッドに移る。8月、腹痛のため手術。コンスエロがニューヨークへ来る。12月、日本の真珠湾攻撃により、アメリカ参戦。サン=テグジュペリは涙を流して喜んだという。

42歳のサン=テグジュペリ

「戦う操縦士」出版。英語版は「アラスへの飛行」で、ベストセラーとなる。フランスではドイツの検閲を受け、「この愚かな戦争を始めたヒトラー」という部分を削除して出版されるが、親独新聞から一斉に攻撃され、翌年には発売禁止になる。夏、「星の王子さま」に着手。挿し絵と平行して執筆が進められたため、書斎はアトリエに一変する。11月、フランス全土がドイツの支配下に入る。

43歳のサン=テグジュペリ

4月6日、「星の王子さま」出版。6月、カナダのモントリオールにて「ある人質への手紙」出版。北アフリカ行きの軍用船に乗船。星の王子さまの初刷りを持って、ニューヨークから北アフリカの連隊へと向かう船の中で、サン=テグジュペリはこう語っていたと船員が伝えている。「戦争が終わったら、ソレームの修道院に入りたいとよく言っていた。そして話の終わりはいつも賛美歌になっていた」 偵察飛行大隊に復帰、サルディニア島アルゲーロ基地に配属される。少佐に昇進。7月、フランス上空への偵察任務につく。8月、エンジン故障で引き返し、操作ミスによる着陸事故。このため予備役に回される。

44歳のサン=テグジュペリ

7月31日、9回目の出撃で、グルノーブル及びアヌシー方面の高空写真偵察につくが、ボルゴ基地を出たまま帰らなかった。地上に残した彼の最後の言葉は「ドレス・ダウン6号よりコルゲートに、滑走離陸してよろしいか」であった。ドレス・ダウンとは裸馬の意。彼の死亡については当初不明とされ、後にいろいろな説が出てきているが、ほとんどは結局不明としている。

司馬遼太郎の名言・格言

司馬 遼太郎(しば りょうたろう、1923年(大正12年)8月7日 – 1996年(平成8年)2月12日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家、評論家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。大阪府大阪市生まれ。筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。

産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』など多くがあり、戦国・幕末・明治を扱った作品が多い。『街道をゆく』をはじめとする多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。

司馬遼太郎の名言・格言

男というものは思慮きわまれば、
常識、情勢をもって判断すべきではない。
男たる者の道をもって判断すべきだ。

人間にとって、その人生は作品である。

人間は決して、孤立して生きられるようには、作られていない。

幼少期の司馬遼太郎

1923年8月7日、大阪府大阪市浪速区西神田町(現・塩草)に、薬局を経営する父・福田是定(薬剤師)、母・直枝の次男として生まれた。
兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。乳児脚気のために3歳まで奈良県北葛城郡當麻町(現・葛城市)の母の実家に里子に出されていた。

13歳の司馬遼太郎

私立上宮中学校に進学。入学後の成績は300名中でビリに近く本人も驚いたらしいが、慌てて勉強をしたら二学期には上位20位に入ったという。井伏鱒二の『岩田君のクロ』に感銘を受ける。3年生から松坂屋の横の御蔵跡町の図書館に通うようになる。

19歳の司馬遼太郎

4月に旧制大阪外国語学校(新制大阪外国語大学の前身、現在は大阪大学外国語学部)蒙古語学科に入学。
当時の学生の大半がそうであったように語学が嫌いで、早稲田大学の中国文学に鞍替えしようかと考えたこともあった。しかし読書は依然として好み、ロシア文学や、司馬遷の『史記』を愛読。

22歳の司馬遼太郎

本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。
司馬は「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう? いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」との疑問を持ち、「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐している。佐野での敗戦の体験が、その後の作家生活の原点にあったと考えられる。復員後は直ちに図書館通いを再開する。

25歳の司馬遼太郎

1948年産経新聞社から「外語大卒だから英語くらいできるだろう」と誘われ、英語がまったくできないにもかかわらず「できます」と応じて京都支局に入る。同年11月歌人川田順の失踪事件を取材、「老いらくの恋」という見出しを付け流行語になる

27歳の司馬遼太郎

金閣寺放火事件の記事を書いた。このころ京都の寺社周り・京都大学を担当し、その結果京都の密教寺院で不思議な僧侶らと出会ったり、石山合戦のときの本願寺側の兵糧方の子孫の和菓子屋と話したり、京都大学で桑原武夫、貝塚茂樹らの京都学派の学者たちに取材したりするなど、後年の歴史小説やエッセイを執筆する種となる出会いがあった。その後文化部長、出版局次長を務めた。

大阪大学医局の薬剤師と見合いにより最初の結婚

49歳の司馬遼太郎

明治の群像を描いた『坂の上の雲』の産経新聞での連載が終了。
また、幕末を扱った『世に棲む日日』で吉川英治文学賞。初期のころから示していた密教的なものへの関心は『空海の風景』に結実されている。「国民的作家」の名が定着し始めるようになり、歴史を俯瞰して一つの物語と見る「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観を築いて人気を博した。

57歳の司馬遼太郎

1980年代は下記の作品・人物をあつかった作品を発表。
『項羽と劉邦』(1980年、新潮社) – 楚漢戦争。連載時の題名は「漢の風 楚の雨」
『ひとびとの跫音』(1981年、中央公論社) – 正岡忠三郎(子規の妹正岡律の養子)
『菜の花の沖』(1982年、文藝春秋) – 高田屋嘉兵衛
『箱根の坂』(1984年、講談社) – 北条早雲
『韃靼疾風録』(1987年、中央公論社) – ヌルハチ、ホンタイジほか。明から清への興亡を、平戸藩出身の桂庄助の目を通し描く。

1986年には財団法人大阪国際児童文学館理事長に就任。

73歳の司馬遼太郎

1996年「街道をゆく 濃尾参州記」の取材を終え、連載中の2月10日深夜に吐血して倒れ、国立大阪病院(現:国立病院機構大阪医療センター)に入院。
2日後の2月12日腹部大動脈瘤破裂のため死去した。
72歳没。死去した国立大阪病院は、奇しくも『花神』で書いた大村益次郎が死去した場所であった。絶筆「濃尾参州記」は未完となった。親族・関係者による密葬を経て、3月10日に大阪市内のホテルで「司馬遼太郎さんを送る会」が行われ、約3,000人が参列。