4歳の知里幸恵

祖母モナシノウクと岡志別川沿いで二人暮らし。
祖母はユーカラクルであった。すなわちアイヌの口承の叙事詩“カムイユカラ”の謡い手だった。カムイユカラは、文字を持たなかったアイヌにとって、その価値観・道徳観・伝統文化等を子孫に継承していく上で重要なものであり、幸恵はこのカムイユカラを身近に聞くことができる環境で育った。

17歳の知里幸恵

女子職業学校を卒業。気管支カタルを病む。
金田一は病気の幸恵にノートを送りユーカラなどのローマ字筆記をすすめる。
9月、豊栄尋常小学校開校10周年記念式典で祝辞を読む。
独自の表記法でカムイユカラなどの筆記を始める。
年末、初めて書いた神謡稿を金田一に送る。

19歳の知里幸恵

1922年
5月に上京し金田一京助宅に寄寓。
8月、心臓病発病。上京後につけていた日記は7月末で終わる。
9月18日、心臓麻痺で急逝。

死後、1923年『アイヌ神謡集』が刊行される。
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アイヌ人にとって身近な“動物の神々”が、アイヌ人の日々の幸せを願って物語るカムイユカラが文字として遂に後世に残された。文字を持たないアイヌ民族にとって画期的な業績であった。

明治時代に入り絶滅の危機に瀕していたアイヌ文化アイヌ民族に自信と光を与え、重大な復権・復活の転機となった幸恵の『アイヌ神謡集』の出版は、当時新聞にも大きく取り上げられ、多くの人が知里幸恵を、そしてアイヌの伝統・文化・言語・風習を知ることとなった。また幸恵が以前、金田一から諭され目覚めたように多くのアイヌ人に自信と誇りを与えた。
幸恵の弟、知里真志保は言語学・アイヌ語学の分野で業績を上げ、アイヌ人初の北海道大学教授となった。また歌人として活躍したアイヌ人、森竹竹市・違星北斗らも知里真志保と同様、公にアイヌ人の社会的地位向上を訴えるようになった。

近年その成果が再評価され、「その時 歴史が動いた」でも取り上げられた。

アラン・チューリングの名言・格言

アラン・マシスン・チューリング(Alan Mathison Turing, 1912年6月23日 – 1954年6月7日)はイギリスの数学者、論理学者、暗号解読者、コンピュータ科学者。

コンピュータ科学および(チューリング・テストなどからは)人工知能の父とも言われる。

(出典アラン・チューリング – Wikipedia)

アラン・チューリングの名言

「ヒトの代わりに考える機械をつくることはできない。」

幼少期のアラン・チューリング

1912年6月23日、アランが誕生

父の任期が続いており、両親はインドとイギリスのヘイスティングス[15]を行き来する生活を送っていた。そのため、アランと兄のジョンは、イギリスの友人に預けられる。文字を読むことは三週間で覚えたといわれる。また、数字に強くパズルが非常に得意だった。

6歳でセント・マイケルズ学校に入学した。担任教師に続き、校長もすぐに彼の才能に気づいたという。

19歳のアラン・チューリング

数学や科学ほど古典をまじめに学ばなかったことが原因で、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの奨学金を受けられなかったため、第二希望であったケンブリッジ大学キングス・カレッジへ進学した。1931年から1934年まで学生として学び、数学で優秀な成績を修めて卒業。
1931年から1934年まで学生として学び、数学で優秀な成績を修めて卒業。

23歳のアラン・チューリング

中心極限定理を証明した論文が認められ、キングス・カレッジのフェロー(特別研究員)に選ばれた。ただし、中心極限定理は1922年にJ・W・リンデベルグ(英語版)が証明済みだったが、チューリングはその業績を知らなかった

26歳のアラン・チューリング

プリンストン高等研究所で博士号を得た。
博士論文では、「順序数」という概念の体系を整理しようとした。
その中で、チューリング還元の概念を提案している。純粋数学とは別に暗号理論もここで学び、電気機械式乗算器も試作。

イギリスにおける暗号解読組織である政府暗号学校 (GCCS) でパートタイムで働き始める。ナチス・ドイツの暗号機、エニグマの解読に当たった。

27歳のアラン・チューリング

ドイツの暗号を解読するいくつかの手法を考案し、英国の海上補給線を脅かすドイツ海軍のUボートの暗号通信を解読する部門 (Hut 8) の責任者となった。ドイツが使用していた、エニグマ暗号機を利用した通信の暗文を解読する(その通信における暗号機の設定を見つける)ための機械 bombe の開発に着手。

29歳のアラン・チューリング

同僚で数学者・暗号解読者のジョーン・クラークに結婚を申し込んだが、婚約期間は短かった。同性愛者であることをフィアンセに告白しても、彼女は動じなかったといわれているが、チューリングのほうがこのまま結婚はできないと別れることを決心した

33歳のアラン・チューリング

戦時中の功績が認められ大英帝国勲章(OBE)を授与。

ある専門家によると、チューニングの暗号解読によって、数百万人の命が救われ、また戦争が約2年早く終わることになったといわれている。

36歳のアラン・チューリング

マンチェスター大学数学科の助教授に招かれる。1949年、マンチェスター大学のコンピュータ研究室に移り、そこで初期のコンピュータ Manchester Mark I におけるソフトウェア開発に従事。

当時まだ存在していなかったコンピュータチェスのプログラムを書き始める。

38歳のアラン・チューリング

この時期はより概念的な仕事にも取り組み、Computing Machinery and Intelligence(「計算する機械と知性」、1950年10月、「Mind」誌)という論文では人工知能の問題を提起、今日チューリングテストとして知られている実験を提案している。すなわち、機械を「知的」と呼ぶ際の基準を提案したもので、人間の質問者が機械と会話をして人間か機械か判別できない場合に、その機械が「思考」していると言えるというものである

40歳のアラン・チューリング

自宅に泥棒が入り、事件を警察に報告したが、捜査の過程で、泥棒の手引きをした19歳の青年(マレー)と同性愛関係にあったことが警察の知るところとなった。同性愛は当時のイギリスでは違法であり、2人とも逮捕された。

入獄か化学的去勢を条件とした保護観察かの選択を与えられ、入獄を避けるため、同性愛の性向を矯正するために、性欲を抑えると当時考えられていた女性ホルモン注射の投与を受け入れた。

結果としてセキュリティ・クリアランスを剥奪され、GCHQで暗号コンサルタントを続けることができなくなった。

42歳のアラン・チューリング

1954年6月8日、家政婦がチューリングが自宅で死んでいるのを発見した。検死の結果、死亡したのは前日で、青酸中毒による死であることが判明。ベッドの脇には齧りかけのリンゴが落ちていた。リンゴに青酸化合物が塗ってあったかの分析はなされなかったが[78]、部屋には青酸の瓶が多数あった。

後年の評価

1966年からACMは、コンピュータ社会に技術的に貢献した人物にコンピューター界のノーベル賞ともいえるチューリング賞を授与している。

1986年、ヒュー・ホワイトモアの戯曲「ブレイキング・ザ・コード」でチューリングが描かれた。1986年11月からロンドンのウェストエンドで公開され、1987年11月15日から1988年4月10日までブロードウェイで興行。1996年にはBBCでテレビドラマ化されている。

1999年、タイム誌の「タイム100: 20世紀の最も影響力のある100人」で、コンピューター創造に果たした役割からチューリングを選んでいる。

2009年8月、イギリス政府に対して、アラン・チューリングを同性愛で告発したことへ謝罪するよう請願活動がをはじまり数千の署名が集まった。 イギリス首相のゴードン・ブラウンはこの請願を認め、2009年9月10日に政府として正式な謝罪を表明。

アルフレッド・ノーベルの名言・格言

アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル(Alfred Bernhard Nobel, 1833年10月21日 – 1896年12月10日)は、ダイナマイトの発明で知られるスウェーデンの化学者、発明家、実業家。ボフォース社を単なる鉄工所から兵器メーカーへと発展させた。

350もの特許を取得し、中でもダイナマイトが最も有名である。ダイナマイトの開発で巨万の富を築いたことから、「ダイナマイト王」とも呼ばれた。遺産をノーベル賞創設に使った。
(出典アルフレッド・ノーベル – Wikipedia)

アルフレッド・ノーベルの名言・格言

“毎年、賞金というかたちで、人類に対してもっとも貢献したと思われる人物に賞をあたえてほしい。いうまでもなく、賞をあたえるうえで候補者の国籍はまったく関係がない。”

“仕事があれば、そこが我が祖国。仕事はどこにいてもできるのです。。”

“人生は気高いもの。自然から授かったこの宝石を人は磨く。
輝く光がその労に報いてくれる”

“この世の中で悪用されないものはない。
科学技術の進歩はつねに危険と背中合わせだ。
それを乗り越えてはじめて人類の未来に貢献できるのだ”

幼少期のアルフレッド・ノーベル

スウェーデンのストックホルムにて、建築家で発明家の父 の4男として生まれた。8人の子をもうけた一家であったが、生活は貧しく、8人の子のうち成人したのはアルフレッドを含む4人の男子だけだった。父方の先祖にスウェーデンの科学者オラウス・ルドベック (1630–1702) がいる。幼少期から工学、特に爆発物に興味を持ち、父からその基本原理を学んでいた。

9歳のアルフレッド・ノーベル

1837年、父が単身サンクトペテルブルクに赴き、機械や爆発物の製造で成功。合板を発明し、機雷製造を始めた。1842年、父は一家をサンクトペテルブルクに呼び寄せた。
裕福になったため、アルフレッドには複数の家庭教師がつけられ、特に化学と語学を学んだ。そのため英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語で流暢に会話できるようになった。

26歳のアルフレッド・ノーベル

戦争終結と同時に事業は逼迫、父の会社は1859年に再び破産する。

スウェーデンに戻ったノーベルは爆発物の研究に没頭し、特にニトログリセリンの安全な製造方法と使用方法を研究した。

ノーベル本人がニトログリセリンのことを知ったのは1855年のことだが、この爆薬は狙って爆発させることが難しいという欠点があったので起爆装置を開発。
1862年にサンクトペテルブルクで水中爆発実験に成功。1863年にはスウェーデンで特許を得た。1865年には雷管を設計した。ストックホルムの鉄道工事で使用を認められるが、軍には危険すぎるという理由で採用を拒まれる。

31歳のアルフレッド・ノーベル

ニトログリセリン工場爆発。末弟エミールら5人が死亡。
この事故で当局からストックホルムでの研究開発が禁止されたためハンブルクに工場を建設。ニトログリセリンの安定性を高める研究に集中した。

同年、父が脳卒中で倒れる。

43歳のアルフレッド・ノーベル

結婚相手を見つけようと考え、女性秘書を募集する広告を5ヶ国語で出し、5ヶ国語で応募してきたベルタ・キンスキーという女性を候補とする。

しかしベルタには既に婚約者がおり、ノーベルの元を去ってフォン・ズットナーと結婚した。この2人の関係はノーベルの一方的なものに終わったが、キンスキーが「武器をすてよ」などを著し平和主義者だったことが、のちのノーベル平和賞創設に関連していると考えられている。(彼女は1905年に女性初のノーベル平和賞を受賞)

同じく1876年、当時20歳の花売りゾフィー・ヘスと出会い、交流が始まる。ゾフィーとの関係は18年間続き、218通の手紙を残した。しかし1891年に、ゾフィーが他の男(ハンガリー人の騎兵隊の将校)の子供を宿していることが分かり2人の関係は急速に冷えた。

55歳のアルフレッド・ノーベル

兄リュドビックが死去。この時、ノーベルと取り違えて死亡記事を載せた新聞のに、「死の商人、死す」「アルフレッド・ノーベル博士:可能な限りの最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物が昨日、死亡した」と書かれており、このことからノーベルは死後の評価を気にするようになったという。

62歳のアルフレッド・ノーベル

健康状態が悪化したため、パリにて遺言状を書く。
財産の大部分をあてて国籍の差別なく毎年授与するノーベル賞を創設するとした遺言状に署名した。税と個人への遺産分を除いた全財産の94%、3122万5千スウェーデン・クローナを5部門のノーベル賞創設に割り当てている。

遺言で賞を授与するとされた分野のうち最初の3つは物理学、化学、医学または生理学だった。4つめは「理想的な方向性の (in an ideal direction)」文学とされ、5つ目は軍縮や平和推進に貢献した個人や団体に贈るとされている。

63歳のアルフレッド・ノーベル

少年時代から文学に関心を持っており、特にバイロンとシェリーの詩に熱中して自らも詩を書いていたが、最晩年に書き上げた戯曲「ネメシス」という作品はベアトリーチェ・チェンチを主人公としたストーリーで、シェリーの『チェンチ』が着想の一部になっている。これはノーベルが亡くなったころ印刷されていたが、スキャンダラスで冒涜的な内容だったことから3部だけ残して全て廃棄された。

12月10日、サン・レモ(イタリア)で脳溢血の貯め死去。

戦争とその犠牲者

人類の歴史は戦争の歴史といっても過言ではない。
特に犠牲者の多かった戦争を紹介する。
近代兵器の開発によってその犠牲者数は増加傾向にある。
ただ、当時の人口密度を鑑みると、犠牲者数に限らずその凄惨さは想像に難くない。犠牲者が多いワースト15の戦争はこちら

1000年の戦火を映像にした作品がこちら

第二次世界大戦の戦没者についての映像作品