関白・豊臣秀吉の惣無事令を無視し、各地に進軍する。
カテゴリー: 武将
20歳の伊達政宗(1588年)
大崎氏を攻めるが、伯父・最上義光が大崎氏に付いたため敗れる(大崎合戦)。
しかし、母・義姫の仲介によって和睦し窮地を脱する。
21歳の伊達政宗(1589年)
蘆名氏を摺上原の戦いで破り、蘆名氏を滅ぼす。
22歳の伊達政宗(1590年)
豊臣秀吉の小田原征伐に従軍する。
25歳の伊達政宗(1593年)
豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍する。
31歳の伊達政宗(1599年)
長女の五郎八姫を徳川家康の六男・松平忠輝に嫁がせる。
32歳の伊達政宗(1600年)
関ヶ原の戦いが起こると、東軍に味方し東北で上杉氏を戦い勝利する(慶長出羽合戦)。
33歳の伊達政宗(1601年)
初代仙台藩主となる。
45歳の伊達政宗(1613年)
家臣の支倉常長らをメキシコ・スペイン・ローマへ派遣する(慶長遣欧使節)。
46歳の伊達政宗(1614年)
大坂冬の陣では、豊臣方との和議成立後に大坂城外堀を埋め立ての責任者となる。
47歳の伊達政宗(1615年)
大坂夏の陣では、真田隊と戦うも反撃にあい後退する。
68歳の伊達政宗(1636年)
がん性腹膜炎または食道癌のため死去。
徳川家康の名言・格言
徳川家康
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。
江戸幕府の初代征夷大将軍。
徳川家康の名言・格言
人の一生は、
重荷を負うて遠き道をゆくがごとし。
急ぐべからず。
堪忍は無事長久の基、
怒りは敵と思え。
戦いでは強い者が勝つ。
辛抱の強い者が。
多勢は勢ひをたのみ、
少数は一つの心に働く。
人は負けることを知りて、
人より勝れり。
愚かなことを言う者があっても、最後まで聴いてやらねばならない。
でなければ、聴くに値することを言う者までもが、発言をしなくなる。
出展;http://iyashitour.com/archives/20274
織田信長の名言・格言
織田信長
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。
尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、力をつけ、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼし、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑えて戦国乱世の終焉に道筋をつけた。
織田信長の名言・格言
理想を持ち、信念に生きよ。
理想や信念を見失った者は、
戦う前から負けているといえよう。
そのような者は廃人と同じだ。
必死に生きてこそ、
その生涯は光を放つ。
組織に貢献してくれるのは「優秀な者」よりも「能力は並の上だが、忠実な者」の方だ
いつの時代も変わり者が世の中を変える。異端者を受け入れる器量が武将には必要である。
人間の50年の生涯は儚いものだ。死なない者は存在しない。
幼少期の徳川家康
三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として、天文11年(1542年)12月26日、岡崎城 で生まれる。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ)。
幼少期の織田信長
1534年5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として誕生。
母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。『信長公記』に拠れば、幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称されていた。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。
3歳の徳川家康
水野忠政没後の水野氏当主・水野信元(於大の兄)が尾張国の織田氏と同盟したため、織田氏と敵対する今川氏の庇護を受けていた広忠は於大を離縁した。そのため竹千代は幼くして母と生き別れになった。
14歳の織田信長
1548年、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘・濃姫と信長の間で政略結婚が交わされた。
翌年、信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。
また同年には、近江国の国友村に火縄銃500丁を注文したという。
6歳の徳川家康
竹千代は今川氏の人質として駿府へ送られることとなった。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田氏へ送られた。しかし父・広忠は今川氏への従属を貫いたため、そのまま人質として尾張国に留め置かれた。この時に織田信長と知り合ったと言われるが、どの程度の仲だったのかは不明。
7歳の徳川家康
父、松平広忠の死により、駿府に居ながら松平氏当主に。
17歳の織田信長
父・信秀が没したため、家督を継ぐ
13歳の徳川家康
駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶った。
21歳の織田信長
尾張国下四郡の守護代で、主筋の織田信友を謀反人として攻め追放。
織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。
16歳の徳川家康
今川氏から織田氏に通じた加茂郡主・鈴木重辰を攻めた、これが初陣であり、城下を焼いて引き揚げ、転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・伊保を攻めた。この戦功により、今川義元から旧領のうち山中三百貫文の地を返付し、腰刀を贈った。
22歳の織田信長
1556年4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いで敗死(長良川の戦い)。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り、勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却
18歳の徳川家康
桶狭間の戦いで先鋒を任され、大高城の鵜殿長照が城中の兵糧が足りないことを義元に訴えたため、義元から兵糧の補給を命じられた。
義元が織田信長に討たれた際、、撤退。松平家の菩提寺である大樹寺に入り、自害しようとしたが住職の登誉天室に諭されて考えを改める。
23歳の織田信長
お家騒動の根源であった、弟の織田信行を殺害
19歳の徳川家康
東三河における今川方の拠点であった牛久保城を攻撃、今川氏からの自立の意思を明確にした
25歳の織田信長
京の都に初上洛13代将軍の足利義輝に謁見
20歳の徳川家康
義元の後を継いだ今川氏真と断交して織田信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。一方、将軍足利義輝や北条氏康は松平・今川両氏の和睦を図るが実現しなかった。
翌年には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた
26歳の織田信長
桶狭間の戦いで今川義元を討つ。
今川軍の25000兵に対し、織田軍は2000~3000兵で勝利をおさめたといわれている。
22歳の徳川家康
1564年三河一向一揆が勃発するも、苦心の末にこれを鎮圧。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。
1566年までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一した。
28歳の織田信長
徳川家康と清洲同盟を結成。
26歳の徳川家康
甲斐国の武田信玄と同盟し、今川家を攻め遠江国の大部分を獲得。
29歳の織田信長
美濃国攻略のために、清洲城から小牧山城に居城を移す
27歳の徳川家康
信濃国から武田家臣・秋山虎繁に遠江国への侵攻を受け、同年5月に家康は今川氏真と和睦すると北条氏康の協力を得て武田軍を退けたが、武田氏と敵対関係になった。
32歳の織田信長
美濃国攻略の拠点として、墨俣城を木下藤吉郎(豊臣秀吉)に築城させる。
28歳の徳川家康
武田への防衛強化のため、遠江国の引馬城(浜松城)に居城を移す。
越前国の朝倉義景攻めに向かうが浅井長政の裏切りにあい退却。
姉川の戦では、織田信長の危機を救うなどの功をたてる。
33歳の織田信長
妹のお市の方を近江国の浅井長政の正妻に送り込み、同盟を結ぶ。
斎藤龍興を攻め、美濃国を手中におさめる。本拠を岐阜城に移転。
30歳の徳川家康
武田信玄の上洛戦途上、三方ヶ原の戦で大敗。
翌年、武田軍によって三河設楽郡の野田城を2月には落とされたがその後、武田軍は信玄の発病によって長篠城まで退き、信玄の死去により撤兵した。
このときの家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画(しかみ像)が残っており、これは自身の戒めのために描かせ常に傍らに置き続けたと伝えられる
出典;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Mikatagaharasenekizou.jpg
34歳の織田信長
足利義昭を奉じて上洛し将軍就任を助ける。
33歳の徳川家康
信長の協力のもと長篠の戦で破る。
家康は戦勝に乗じて光明・犬居・二俣といった城を奪取攻略し、殊に諏訪原城を奪取したことで高天神城の大井川沿いの補給路を封じ、武田氏への優位を築いた。
35歳の織田信長
二条御所を建設し、将軍足利義昭の御所に。
37歳の徳川家康
信長から正室・築山殿と嫡男・松平信康に対して武田氏への内通疑惑がかけられたとされる。家康は酒井忠次を使者として信長と談判させたが、信長からの詰問を忠次は概ね認めたために信康の切腹が通達され、家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという。(この通説には疑問点も多く、家康・信康父子の対立が原因とする説もある)
36歳の織田信長
1570年4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍金ヶ崎で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた池田勝正・明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。
信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)
39歳の徳川家康
武田勝頼は織田氏との和睦を模索している。
しかし、信長はこれを封殺し、天正9年(1581年)、降伏・開城を封じた上での総攻撃によって家康は高天神城を奪回する(高天神城の戦い)
37歳の織田信長
朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻める。9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)。
40歳の徳川家康
織田信長に従い武田勝頼攻め(天目山の戦)に参陣。
駿河国へ侵攻し蘆田信蕃の田中城を落とし、武田家家臣、穴山梅雪の誘降に成功し、武田氏滅亡後は、武田家の旧領駿河国を加増される。
駿府において信長を接待しているが、家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営した。
信長はこの接待をことのほか喜び、その返礼となったのが、本能寺の変直前の家康外遊となる。
堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態(結果的に穴山信君は横死している。)となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え)。
この後、天正壬午の乱で北条氏直と争ったあと和睦。
これにより武田氏旧領の甲斐国、信濃国に進出し、その大部分を所領に。
38歳の織田信長
信長は足利義昭に対して17条からなる詰問文を送り、信長と義昭の関係は決定的に悪化。
三方ヶ原の戦で、武田信玄が徳川家康軍を破り、尾張国の危機が近づく。
42歳の徳川家康
信長二男織田信雄の要請を受け、豊臣秀吉と小牧・長久手の戦を起こすも決着せず和睦。
次男、於義丸(結城秀康(羽柴秀康))を秀吉の養子に送り込む。
その後、豊臣秀吉からの再三の上洛命令を拒否。
39歳の織田信長
武田信玄の病死により、進軍される危機を回避。
1573年7月 再び抵抗の意思を示した足利義昭が二条御所や山城守護所に立て籠もったが信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府は事実上滅亡
越前国を攻め、朝倉義景を自害させ、越前国を支配下に。
小谷城の戦で、浅井長政を自害させ近江国を支配下に。
(長政に嫁いでいた妹のお市の方と、その娘茶々(淀殿)、初、於江与は落ち延びる)
44歳の徳川家康
1586年、秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み、臣従要求を拒み続ける家康に対して秀吉は実妹・朝日姫(南明院)を正室として差し出し、5月14日に家康はこれを室として迎え、秀吉と家康は義兄弟となる。
秀吉実母の大政所も家康は岡崎城に受け入れた。
家康は同年10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いにきて、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。
41歳の織田信長
長篠の戦、1,000丁余りの火縄銃を用いた射撃を行わせるなどし、甲斐国武田勝頼に大勝。
嫡男織田信忠に家督を譲る。
48歳の徳川家康
小田原城攻めで関東の北条氏を滅す。
秀吉からの関東約255万石への移封命令に従い、武蔵国江戸城を居城とする。
その後の豊臣政権では、五大老の筆頭として活躍。
42歳の織田信長
安土城築城を開始し、居城とする。
本願寺に兵糧を運ぶ毛利輝元方の村上武吉率いる水軍と戦い敗戦。(第一次木津川の戦)
56歳の徳川家康
豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位でトップになり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭と目されるようになる。
43歳の織田信長
羽柴(豊臣)秀吉を中国方面の総大将に任じる。
57歳の徳川家康
秀吉の遺命に背き、豊臣家の譜代大名らとの婚姻関係を次々と結ぶ。
45歳の織田信長
徳川家康の正室築山御前と嫡男松平信康に対し、武田に内通した嫌疑により処刑を命ずる。
58歳の徳川家康
関ヶ原の戦で西軍に勝利、天下人になる。