朝廷の斡旋により、本願寺の顕如と和睦。畿内の一向一揆を平定
カテゴリー: 武将
59歳の徳川家康
家康は大坂城・西の丸を出て伏見城にて政務を執り、征夷大将軍として幕府を開くため、徳川氏の系図の改姓を行い、系図を足利氏と同じく源義家に通じるようにさせたといわれている。
48歳の織田信長
甲斐国へ侵攻。武田勝頼を攻め自害させる。
加賀国の一向一揆を鎮圧。
中国への出陣途上、京都本能寺で明智光秀の謀反にあい自害
61歳の徳川家康
江戸に幕府を開き、伏見城において征夷大将軍の宣旨を受ける。
63歳の徳川家康
1605年将軍職を辞するとともに朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。
65歳の徳川家康
駿府城に移って、「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として実権を掌握し続けて幕府の制度作りに勤めた(大御所政治)。
朝鮮通信使と謁見し、文禄・慶長の役以来断絶していた李氏朝鮮との国交を回復した。
67歳の徳川家康
オランダ使節と会見。オランダ総督(使節は国王を自称)マウリッツからの親書を受け取り、朱印状による交易と平戸にオランダ東インド会社の商館の開設を許可した。
72歳の徳川家康
大阪の陣で豊臣氏を事実上滅亡させる。
73歳の徳川家康
禁中並公家諸法度を制定して、朝幕関係を規定した。また、諸大名統制のために武家諸法度・一国一城令が制定された。こうして、徳川氏による日本全域の支配を実現し、徳川氏264年の天下の礎を築いた。
74歳の徳川家康
1月、鷹狩に出た先で倒れた。3月21日に朝廷から太政大臣に任ぜられたが、これは、武家出身者としては、平清盛、源義満(足利義満)、豊臣秀吉に次いで史上4人目であった。この年、駿府城において死亡した。