アメリカ初の映画スタジオ「ブラック・マリア(Edison’s Black Maria)」を設立し、ウィリアム・ディックソン、ウィリアム・ハイセを監督に、キネトスコープ用の白黒フィルムを制作。
1901年にはマンハッタンに、1907年にはブロンクスに新しい映画スタジオを開き、約1200本のフィルムを制作した[。
投稿者: agebook_ito
60歳の正力松太郎
A級戦犯の第三次戦犯指名となり、逮捕されたが、起訴はされず、巣鴨プリズン収容者の1人となった。
正力が戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後に中央情報局(CIA)の非公然の工作に協力していた記録も残っている。日本へのテレビ放送の導入と原子力発電の導入について、正力はCIAと利害が一致していたので協力し合うことになった。その結果、勝利期および読売新聞社、そして日本テレビ放送網を通じて日本政界に介入する計画がCIAでは「Operation Podalton」と呼ばれていた。
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49歳のトーマス・エジソン
自動車王のヘンリー・フォードと出会う。
当時はフォードはエジソン電灯会社の社員であった。フォードが発明したばかりのガソリン自動車の説明をすると、エジソンはテーブルを拳で叩いて喜び、フォードを励ました
67歳の正力松太郎
日本テレビ初代社長に就任(1955年まで務める)
1953年に日本テレビ放送網本放送開始。
普及促進とスポンサー獲得のため、キャラバン隊による移動宣伝の他、繁華街、主要鉄道駅、百貨店、公園など人の集まる場所に受像機を常設し、テレビの魅力を直接訴える作戦に打って出た。街頭テレビそのものは、試験放送時代から幾つも存在していたが、大々的な展開は日テレが最初であり、小さい画面にもかかわらず、特に人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には観衆が殺到した。都内各地に街頭テレビを据えた正力は、「台数は少なくても視聴者は多い」とアピールしてスポンサーを説得し、結果、開局7ヶ月で黒字化を達成した。
84歳のトーマス・エジソン
鉱山経営などにも手を出すが失敗。高齢となって会社経営からは身を引くが、研究所に篭り死者との交信の実験(霊界との通信機の研究)を続ける。1914年12月に研究所が火事で全焼し約200万ドルの損害を蒙ったが、臆せずその後も死者との交信についての研究を続けた。
10月18日、84歳でその生涯を終えた。
70歳の正力松太郎
衆議院議員総選挙に富山2区から出馬、当選。
第3次鳩山内閣で北海道開発庁長官
71歳の正力松太郎
前年の原子力基本法が成立し、原子力利用の大綱が定められたことをうけ、1956年原子力委員会の初代委員長に就任。1月4日、日本に原子力発電所を5年後に建設する構想を発表。
これに対して、原子力委員の湯川秀樹は、「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない」と強く訴え、抗議のために辞任した。
初代科学技術庁長官に就任。
関連動画
72歳の正力松太郎
第1次岸内閣改造内閣で国務大臣(国家公安委員会委員長、科学技術庁長官、原子力委員会委員長)に就任。
また、自民党総裁になることも考えていた正力は渡邉恒雄を参謀の中曽根康弘との連絡役に起用していた。
79歳の正力松太郎
長年の懸案だった九州に読売新聞西部本社を設立、1ブロック紙に過ぎなかった読売新聞を正力・務臺との二人三脚で朝日・毎日と肩を並べる全国紙に発展させた。
84歳の正力松太郎
10月9日 – 国立熱海病院で死去。奇しくもこの日は、読売巨人軍がセントラルリーグを制覇(5連覇)した日だった。叙・従二位。 14日に日本武道館にて葬儀。
サッカークラブチーム・読売クラブ(後の東京ヴェルディ1969)を立ち上げ、これが事実上正力の最後の仕事となった。
森鴎外の名言・格言
森鴎外(1862-1922)日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、医者・陸軍軍医、官僚。
森鴎外の名言・格言
苦難が大きすぎて、
自分ひとりの力で支え切れない場合には、
家族から身を隠して一人で泣きなさい。
そして、苦悩を涙とともに洗い流したら、
頭をあげて胸を張り、
家族を激励するために家に戻りなさい。
日の光を借りて照る、
大いなる月であるよりも、
自ら光を放つ
小さな灯火でありなさい。
みんなが誉めるのは、
おべっかである。
六割が誉めて
四割がけなすのが人材である。
世間の人は虎を、
性欲の虎を放し飼いにして、
どうかすると、
その背に乗って
逃亡の谷に落ちる。
己の感情は
己の感情である。
己の思想も
己の思想である。
天下に一人も
それを理解してくれなくたって、
己はそれに安じなくてはならない。
人に言うべき事は、
最後まできちんと言うがよい。
全部は言いたくないことだったら、
むしろ初めから黙っていよ。
一匹の人間が
持っているだけの精力を、
一事に傾注すると、
実際、不可能な事は
なくなるかも知れない。
現在は
過去と未来との間に、
画した一線である。
この線の上に生活がなくては、
生活はどこにもないのである。
武士はいざという時には
飽食はしない。
しかしまた空腹で
大切な事に取り掛かることもない。
一々のことばを、
はかりの皿に載せるような事をせずに、
なんでも言いたい事を言うのは、
われわれ青年の特権だね。
足ることを知ることこそが、
幸福である。
幼少期の森鴎外
1862(文久2)1月19日現、島根県津和野町に誕生。本名は林太郎
7歳の森鴎外
1869(明治2)藩校養老館で漢学を学ぶ。9歳で15歳相当の学力と推測されており、激動の明治維新に家族と周囲から将来を期待されることになった。
10歳の森鴎外
廃藩置県等をきっかけに10歳で父と上京。墨田区曳舟に住む。東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備え、ドイツ語を習得するため、同年10月に私塾の進文学社に入った。その際に通学の便から、政府高官の親族・西周の邸宅に一時期寄食した。翌年、残る家族も住居などを売却して津和野を離れ、父が経営する医院のある北千住に移り住む
12歳の森鴎外
1874年東京医学校(のちの東京大学医学部)予科に入学
実年齢より2歳多く偽り、12歳で入学(新入生71名。のちに首席で卒業する三浦守治も同時期に入学)
定員30人の本科に進むと、ドイツ人教官たちの講義を受ける一方で、佐藤元長に就いて漢方医書を読み、また文学を乱読し、漢詩・漢文に傾倒し、和歌を作っていた。
語学に堪能な鷗外は、後年、執筆に当たって西洋語を用いるとともに、中国の故事などをちりばめた。
19歳の森鴎外
19歳で本科を卒業。卒業席次が8番であり、大学に残って研究者になる道は閉ざされたものの、文部省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。仲間たちの進めもあり12月陸軍軍医になる。
20歳の森鴎外
軍医本部付となり、プロイセン王国の陸軍衛生制度に関する文献調査に従事し、早くも翌年3月には『医政全書稿本』全12巻を役所に納めた。
22歳の森鴎外
衛生学を修めるとともにドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。4年留学した鷗外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、同人誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。
最初の1年を過ごしたライプツィヒで、生活に慣れていない鷗外を助けたのが、昼食と夜食をとっていたフォーゲル家の人達であった。
また、黒衣の女性ルチウスなど下宿人たちとも親しくつきあい、ライプツィヒ大学ではホフマンなど良き師と同僚に恵まれた。演習を観るために訪れたザクセン王国の首都ドレスデンでは、ドレスデン美術館のアルテ・マイスター絵画館にも行き、ラファエロの「システィーナの聖母」を鑑賞した。
24歳の森鴎外
1886 ミュンヘンに移る。大学衛生部に入学し、ペッテンコーフェルに衛生学を学ぶ。
25歳の森鴎外
北里柴三郎とともにコッホを訪ね、衛生試験所に入る。
26歳の森鴎外
1888年9月帰国、陸軍大学校教官の兼補を命じられた。帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在一月(1888年9月12日 – 10月17日)ほどで離日する出来事があり、小説「舞姫」の素材の一つとなった[18]。後年、文通をするなど、その女性を生涯忘れることは無かったとされる
27歳の森鴎外
外国文学などの翻訳を手始めに(「即興詩人」「ファウスト」などが有名)、熱心に評論的啓蒙活動をつづけた。
読売新聞の付録に「小説論」を発表し、さらに同日の読売新聞から、弟の三木竹二とともにカルデロンの戯曲「調高矣津弦一曲」(原題:サラメヤの村長)を共訳して随時発表した。
その翻訳戯曲を高く評価したのが徳富蘇峰であり、8月に蘇峰が主筆をつとめる民友社の雑誌『国民之友』夏期文芸付録に、訳詩集「於母影」を発表した。その「於母影」は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた。また「於母影」の原稿料50円をもとに、竹二など同人たちと日本最初の評論中心の専門誌『しがらみ草紙』を創刊(日清戦争の勃発により59号で廃刊)
28歳の森鴎外
1890年『舞姫』発表。日本人と外国人が恋愛関係になる「舞姫」は、読者を驚かせたとされる。
29歳の森鴎外
坪内逍遥の記実主義を批判して没理想論争を繰り広げた。
32歳の森鴎外
日清戦争勃発により軍医として従軍。11月に大連に上陸。
翌年の下関条約の調印後、5月に近衛師団つきの従軍記者・正岡子規が帰国の挨拶のため、第2軍兵站部軍医部長の鷗外を訪ねた。
清との戦争が終わったものの、鷗外は日本に割譲された台湾での勤務を命じられており、5月22日に宇品港に着き(心配する家族を代表して訪れた弟の竹二と面会)、2日後には初代台湾総督の樺山資紀等とともに台湾に向かった。4か月ほどの台湾勤務を終え、10月4日に帰京。
37歳の森鴎外
1899(明治32)6月第一二師団軍医部長として小倉へ
40歳の森鴎外
1902(明治35)1月荒木志げと再婚。3月第一師団軍医部長となり帰京。10月『万年艸(まんねんぐさ)』創刊
42歳の森鴎外
日露戦争 第2軍軍医部長として、広島市の宇品港をたつ。『うた日記』を書く。
45歳の森鴎外
11月陸軍軍医総監・陸軍省医務局長となる
48歳の森鴎外
1910(明治43)3月『青年』発表(~1911年8月)。慶應義塾大学の文学科顧問に就任
49歳の森鴎外
1911(明治44)3月『妄想』発表(~4月)。9月『雁』発表(~1913年5月)
51歳の森鴎外
1913(大正2)1月『阿部一族』発表
52歳の森鴎外
1914(大正3)1月『大塩平八郎』発表
54歳の森鴎外
1916(大正5)1月『高瀬舟』『寒山拾得』『渋江抽斎』(~5月)発表。6月『伊沢蘭軒』発表(~1917年)
56歳の森鴎外
帝室博物館総長に就任。元号の「明治」と「大正」に否定的であったため、宮内省図書頭として天皇の諡と元号の考証・編纂に着手した。
57歳の森鴎外
帝国美術院の初代院長に就任。
60歳の森鴎外
1922年(大正11年)7月9日午前7時すぎ、親族と親友の賀古鶴所らが付きそう中、腎萎縮、肺結核のために死去。満60歳没。
渋沢栄一の名言・格言
江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父といわれる。理化学研究所の創設者でもある。
渋沢栄一の名言
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「もうこれで満足だという時は、 すなわち衰える時である。」
「人は全て自主独立すべきものである。 自立の精神は人への思いやりと共に 人生の根本を成すものである。」
「商売をする上で重要なのは、 競争しながらでも 道徳を守るということだ。」
「全て形式に流れると 精神が乏しくなる。 何でも日々新たにという 心がけが大事である。」
「人は死ぬまで 同じ事をするものではない。 理想にしたがって生きるのが 素晴らしいのだ。」
「事業には信用が第一である。 世間の信用を得るには、 世間を信用することだ。 個人も同じである。 自分が相手を疑いながら、 自分を信用せよとは虫のいい話だ。」
参考動画
幼少期の渋沢栄一
1840年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれる。
家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問 の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びます。
18歳の渋沢栄一
従妹ちよ(尾高惇忠の妹)と結婚。
23歳の渋沢栄一
高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが、計画を中止し京都に出奔。
24歳の渋沢栄一
一橋慶喜に仕える。
25歳の渋沢栄一
一橋家歩兵取立御用掛を命ぜられ領内を巡歴。
26歳の渋沢栄一
徳川慶喜、征夷大将軍となり、 栄一は幕臣となる。
27歳の渋沢栄一
徳川昭武に従ってフランスへ出立(パリ万博使節団)。
28歳の渋沢栄一
明治維新によりフランスより帰国、静岡で慶喜に面会。
静岡藩より出仕することを命ぜられるも慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受し、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、及び新政府からの拝借金返済の為、明治2年(1869年)1月、静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省する。
29歳の渋沢栄一
明治政府に仕え、民部省租税正と なる。
30歳の渋沢栄一
官営富岡製糸場設置主任となる。
33歳の渋沢栄一
大蔵省を辞める。第一国立銀行開業・総監役。
渋沢栄一は、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。抄紙会社創立(後に王子製紙会社・取締役会長)。
35歳の渋沢栄一
第一国立銀行(後のみずほ銀行)頭取。
第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。
38歳の渋沢栄一
東京商法会議所創立・会頭(後に東京商業会議所・会頭)。
40歳の渋沢栄一
博愛社創立・社員(後に日本赤十字社・常議員)。
42歳の渋沢栄一
ちよ夫人死去。
43歳の渋沢栄一
伊藤かねと再婚。
44歳の渋沢栄一
日本鉄道会社理事委員(後に取締役)。
45歳の渋沢栄一
日本郵船会社創立(後に取締役)。東京養育院院長に、身寄りのない子ども、老人、路上生活者や障害のある人などを救済する日本で最初の公立救貧施設でした。。
47歳の渋沢栄一
帝国ホテル創立・発起人総代(後に取締役会長)。
48歳の渋沢栄一
札幌麦酒会社創立・発起人総代(後に取締役会長)。
東京女学館開校・会計監督(後に館長)。
49歳の渋沢栄一
東京石川島造船所創立・委員(後に取締役会長)。
50歳の渋沢栄一
貴族院議員に任ぜられる。