山本五十六の名言・格言

明治時代から昭和時代に活躍した日本の軍人(海軍)。第26・27代連合艦隊司令長官。

「内乱では国は滅びない。戦争で国が滅びる。」

「人は神ではない。誤りをするというところに、人間味がある。」

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」

「どんなことでも部下の失敗の責任は長官にある。下手なところがあったらもう一度使う。そうすれば必ず立派に成し遂げるであろう。」

「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。」

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幼少期の山本五十六

4月4日に新潟県古志郡長岡本町(現在の長岡市)で生まれる(五十六は6男)。

父は旧越後長岡藩士の高野貞吉。
※生まれは山本家ではなく高野家

「五十六」という名は父が56歳の時の子であったため。

幼少の頃から、アメリカ人宣教師のところで聖書を学ぶ。

幼少期の山本五十六

海軍兵学校に32期生として入学(200人中2番で入学)。

兵学校に入学した理由は、10歳年上の甥・高野力が病弱であったため兵学校を諦め病死した時に、力の両親から「五十六が力の代わりに立派な軍人なってくれれば」という話が原因と言われている。

※海軍兵学校は192人中11番で卒業

21歳の山本五十六(1905年)

日露戦争が起こる。

五十六は少尉候補生として装甲巡洋艦「日進」に乗艦する。

ロシア海軍のバルチック艦隊と戦った日本海海戦では、東郷平八郎率いる連合艦隊が勝利しますが、五十六は左手と左足(切断の可能性もあった)に重傷を負う。
※原因は敵砲弾の炸裂か「日進」の砲塔の早発といわれている

45歳の山本五十六(1929年)

ロンドン海軍軍縮会議が開催。

五十六は前首相の若槻禮次郎らと参加し、補助艦の保有を対米7割を主張する。
この会議の際、大蔵省から派遣された賀屋興宣が財政面の問題で反対すると、五十六は「賀屋黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ!」と怒鳴りつける。
また、海軍内で艦隊派(軍令部、軍縮条約に反対)と条約派(海軍省、軍縮条約に賛成)に分かれていたが、艦隊派の支持を受けて出世のきっかけになった。
※結果は対米6割となる
※ちなみに山本五十六は、戦後は三国同盟反対や対米避戦などから条約派といわれている。

52歳の山本五十六(1936年)

2月に二・二六事件が起こる。
※陸軍皇道派の青年将校らが起こしたクーデター未遂事件

この事件では、大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斎藤実らが死亡し、侍従長の鈴木貫太郎(太平洋戦争終了時の総理大臣)が負傷、そして岡田啓介内閣が総辞職した。

五十六はこの事件の際、反乱に賛同した海軍の青年士官を一喝するとともに、鈴木貫太郎や岡田啓介を助けた。

11月には日独防共協定が締結される。
※日独伊防共協定ならびに日独伊三国同盟の前身

59歳の山本五十六(1943年)

ブーゲンビル上空で米軍の襲撃で戦死。59歳。

い号作戦(日本軍によるソロモン諸島、ニューギニア島の連合国艦隊への攻撃)成功後に、パプアニューギニア島の前線航空基地の将兵をねぎらうために、五十六自ら行く予定を立てた。
しかし、戦艦「武蔵」から送られた暗号をアメリカ海軍に解読され、4月18日に襲撃され戦死した。

山本五十六の死は1ヶ月以上隠され、その死が新聞で世にでると、多くの国民が衝撃を受けたと言われている。
また、6月5には日比谷公園で国葬が行われた。
※皇族、華族以外で初めて国葬がおこなわれた人物