アルフレッド・ノーベルの名言・格言

アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル(Alfred Bernhard Nobel, 1833年10月21日 – 1896年12月10日)は、ダイナマイトの発明で知られるスウェーデンの化学者、発明家、実業家。ボフォース社を単なる鉄工所から兵器メーカーへと発展させた。

350もの特許を取得し、中でもダイナマイトが最も有名である。ダイナマイトの開発で巨万の富を築いたことから、「ダイナマイト王」とも呼ばれた。遺産をノーベル賞創設に使った。
(出典アルフレッド・ノーベル – Wikipedia)

アルフレッド・ノーベルの名言・格言

“毎年、賞金というかたちで、人類に対してもっとも貢献したと思われる人物に賞をあたえてほしい。いうまでもなく、賞をあたえるうえで候補者の国籍はまったく関係がない。”

“仕事があれば、そこが我が祖国。仕事はどこにいてもできるのです。。”

“人生は気高いもの。自然から授かったこの宝石を人は磨く。
輝く光がその労に報いてくれる”

“この世の中で悪用されないものはない。
科学技術の進歩はつねに危険と背中合わせだ。
それを乗り越えてはじめて人類の未来に貢献できるのだ”

幼少期のアルフレッド・ノーベル

スウェーデンのストックホルムにて、建築家で発明家の父 の4男として生まれた。8人の子をもうけた一家であったが、生活は貧しく、8人の子のうち成人したのはアルフレッドを含む4人の男子だけだった。父方の先祖にスウェーデンの科学者オラウス・ルドベック (1630–1702) がいる。幼少期から工学、特に爆発物に興味を持ち、父からその基本原理を学んでいた。

9歳のアルフレッド・ノーベル

1837年、父が単身サンクトペテルブルクに赴き、機械や爆発物の製造で成功。合板を発明し、機雷製造を始めた。1842年、父は一家をサンクトペテルブルクに呼び寄せた。
裕福になったため、アルフレッドには複数の家庭教師がつけられ、特に化学と語学を学んだ。そのため英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語で流暢に会話できるようになった。

26歳のアルフレッド・ノーベル

戦争終結と同時に事業は逼迫、父の会社は1859年に再び破産する。

スウェーデンに戻ったノーベルは爆発物の研究に没頭し、特にニトログリセリンの安全な製造方法と使用方法を研究した。

ノーベル本人がニトログリセリンのことを知ったのは1855年のことだが、この爆薬は狙って爆発させることが難しいという欠点があったので起爆装置を開発。
1862年にサンクトペテルブルクで水中爆発実験に成功。1863年にはスウェーデンで特許を得た。1865年には雷管を設計した。ストックホルムの鉄道工事で使用を認められるが、軍には危険すぎるという理由で採用を拒まれる。

31歳のアルフレッド・ノーベル

ニトログリセリン工場爆発。末弟エミールら5人が死亡。
この事故で当局からストックホルムでの研究開発が禁止されたためハンブルクに工場を建設。ニトログリセリンの安定性を高める研究に集中した。

同年、父が脳卒中で倒れる。

43歳のアルフレッド・ノーベル

結婚相手を見つけようと考え、女性秘書を募集する広告を5ヶ国語で出し、5ヶ国語で応募してきたベルタ・キンスキーという女性を候補とする。

しかしベルタには既に婚約者がおり、ノーベルの元を去ってフォン・ズットナーと結婚した。この2人の関係はノーベルの一方的なものに終わったが、キンスキーが「武器をすてよ」などを著し平和主義者だったことが、のちのノーベル平和賞創設に関連していると考えられている。(彼女は1905年に女性初のノーベル平和賞を受賞)

同じく1876年、当時20歳の花売りゾフィー・ヘスと出会い、交流が始まる。ゾフィーとの関係は18年間続き、218通の手紙を残した。しかし1891年に、ゾフィーが他の男(ハンガリー人の騎兵隊の将校)の子供を宿していることが分かり2人の関係は急速に冷えた。

55歳のアルフレッド・ノーベル

兄リュドビックが死去。この時、ノーベルと取り違えて死亡記事を載せた新聞のに、「死の商人、死す」「アルフレッド・ノーベル博士:可能な限りの最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物が昨日、死亡した」と書かれており、このことからノーベルは死後の評価を気にするようになったという。

62歳のアルフレッド・ノーベル

健康状態が悪化したため、パリにて遺言状を書く。
財産の大部分をあてて国籍の差別なく毎年授与するノーベル賞を創設するとした遺言状に署名した。税と個人への遺産分を除いた全財産の94%、3122万5千スウェーデン・クローナを5部門のノーベル賞創設に割り当てている。

遺言で賞を授与するとされた分野のうち最初の3つは物理学、化学、医学または生理学だった。4つめは「理想的な方向性の (in an ideal direction)」文学とされ、5つ目は軍縮や平和推進に貢献した個人や団体に贈るとされている。

63歳のアルフレッド・ノーベル

少年時代から文学に関心を持っており、特にバイロンとシェリーの詩に熱中して自らも詩を書いていたが、最晩年に書き上げた戯曲「ネメシス」という作品はベアトリーチェ・チェンチを主人公としたストーリーで、シェリーの『チェンチ』が着想の一部になっている。これはノーベルが亡くなったころ印刷されていたが、スキャンダラスで冒涜的な内容だったことから3部だけ残して全て廃棄された。

12月10日、サン・レモ(イタリア)で脳溢血の貯め死去。

松下幸之助の名言・格言

松下幸之助(まつした こうのすけ/1894年11月27日-1989年4月27日)は、和歌山県出身の実業家・発明家・技術者。

日本を代表する電機メーカー「パナソニック」(旧社名:松下電器産業、松下電器製作所、松下電気器具製作所)を一代で築き上げた経営者であり、「経営の神様」とも称されている人物。

松下幸之助の名言・格言

“失敗の多くは、成功するまでにあきらめてしまうところに、原因があるように思われる。最後の最後まで、あきらめてはいけないのである。”

“石の上にも三年という。しかし、三年を一年で習得する努力を怠ってはならない。”

“たとえ平凡で小さなことでも、それを自分なりに深く噛みしめ味わえば大きな体験に匹敵します。”

10歳の松下幸之助

下駄屋を畳んだため、尋常小学校を4年で中退し、単身大阪の宮田火鉢店に丁稚奉公に出される。1904年、9歳のころのことであった。
翌年、奉公先を五代自転車に移した。後のパナレーサー設立のきっかけになった。自転車屋奉公時代、店に来た客にたびたびタバコを買いに行かされた。その際いちいち買いに出かけるより纏め買いして置けば、すぐタバコを出せる上、単価も安くなるため、これを利用して小銭を溜めた。これが丁稚仲間から反感を買い、店主にやめるよう勧められたために纏め買いはやめる。この頃から商才を顕すと共に、独り勝ちは良くないとも気づくようになった。

23歳の松下幸之助

大阪電灯(株)を退社。

自宅で、妻むめのと、その弟の井植歳男(営業担当、後に専務取締役、戦後に三洋電機を創業して独立)、および友人2名の計5人で、同ソケットの製造販売に着手。

新型ソケットの売り上げは芳しくなく、友人2名は幸之助のもとを去ったが、川北電気(現在のパナソニック エコシステムズ)から扇風機の部品を大量に受注したことにより窮地を脱した。

その後、アタッチメントプラグ、二灯用差込みプラグがヒットしたため経営が軌道に乗る。

35歳の松下幸之助

松下電器製作所と改称綱領・信条を制定し、松下電器の基本方針を明示する

キーソケット、電気コタツ発売この年、世界的恐慌となったが、半日勤務、生産半減、給与全額支給とし、従業員を解雇することなく不況を乗り切る

38歳の松下幸之助

1932年を『命知元年』と定めて5月5日に第1回創業記念式を開き、ヘンリー・フォードに倣った『水道哲学』『250年計画』『適正利益・現金正価』を社員に訓示した。

日本無線通信(株)所有のラジオに関する特許を買収し、これを一般に無償公開する。

51歳の松下幸之助

終戦翌日、幹部社員を集め、平和産業への復帰を通じて祖国の再建を呼びかける。続いて8月20日「松下電器全従業員に告ぐ」の特別訓示を行い、難局に処する覚悟を訴える

戦後ただちにGHQによって戦争協力者として公職追放処分を受ける。

52歳の松下幸之助

PHP研究所を設立。
「PHP」とは、「Peace and Happiness through Prosperity」(繁栄によって平和と幸福を)の頭文字をとった語で、「物心両面の繁栄により、平和と幸福を実現していく」という松下幸之助の願いがこめられている。