日清戦争勃発により軍医として従軍。11月に大連に上陸。
翌年の下関条約の調印後、5月に近衛師団つきの従軍記者・正岡子規が帰国の挨拶のため、第2軍兵站部軍医部長の鷗外を訪ねた。
清との戦争が終わったものの、鷗外は日本に割譲された台湾での勤務を命じられており、5月22日に宇品港に着き(心配する家族を代表して訪れた弟の竹二と面会)、2日後には初代台湾総督の樺山資紀等とともに台湾に向かった。4か月ほどの台湾勤務を終え、10月4日に帰京。
カテゴリー: 官僚
37歳の森鴎外
1899(明治32)6月第一二師団軍医部長として小倉へ
40歳の森鴎外
1902(明治35)1月荒木志げと再婚。3月第一師団軍医部長となり帰京。10月『万年艸(まんねんぐさ)』創刊
42歳の森鴎外
日露戦争 第2軍軍医部長として、広島市の宇品港をたつ。『うた日記』を書く。
45歳の森鴎外
11月陸軍軍医総監・陸軍省医務局長となる
48歳の森鴎外
1910(明治43)3月『青年』発表(~1911年8月)。慶應義塾大学の文学科顧問に就任
49歳の森鴎外
1911(明治44)3月『妄想』発表(~4月)。9月『雁』発表(~1913年5月)
51歳の森鴎外
1913(大正2)1月『阿部一族』発表
52歳の森鴎外
1914(大正3)1月『大塩平八郎』発表
54歳の森鴎外
1916(大正5)1月『高瀬舟』『寒山拾得』『渋江抽斎』(~5月)発表。6月『伊沢蘭軒』発表(~1917年)
56歳の森鴎外
帝室博物館総長に就任。元号の「明治」と「大正」に否定的であったため、宮内省図書頭として天皇の諡と元号の考証・編纂に着手した。
57歳の森鴎外
帝国美術院の初代院長に就任。
60歳の森鴎外
1922年(大正11年)7月9日午前7時すぎ、親族と親友の賀古鶴所らが付きそう中、腎萎縮、肺結核のために死去。満60歳没。
渋沢栄一の名言・格言
江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父といわれる。理化学研究所の創設者でもある。
渋沢栄一の名言
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「もうこれで満足だという時は、 すなわち衰える時である。」
「人は全て自主独立すべきものである。 自立の精神は人への思いやりと共に 人生の根本を成すものである。」
「商売をする上で重要なのは、 競争しながらでも 道徳を守るということだ。」
「全て形式に流れると 精神が乏しくなる。 何でも日々新たにという 心がけが大事である。」
「人は死ぬまで 同じ事をするものではない。 理想にしたがって生きるのが 素晴らしいのだ。」
「事業には信用が第一である。 世間の信用を得るには、 世間を信用することだ。 個人も同じである。 自分が相手を疑いながら、 自分を信用せよとは虫のいい話だ。」
参考動画
幼少期の渋沢栄一
1840年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれる。
家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問 の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びます。
18歳の渋沢栄一
従妹ちよ(尾高惇忠の妹)と結婚。
23歳の渋沢栄一
高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが、計画を中止し京都に出奔。
24歳の渋沢栄一
一橋慶喜に仕える。
25歳の渋沢栄一
一橋家歩兵取立御用掛を命ぜられ領内を巡歴。
26歳の渋沢栄一
徳川慶喜、征夷大将軍となり、 栄一は幕臣となる。
27歳の渋沢栄一
徳川昭武に従ってフランスへ出立(パリ万博使節団)。
28歳の渋沢栄一
明治維新によりフランスより帰国、静岡で慶喜に面会。
静岡藩より出仕することを命ぜられるも慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受し、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、及び新政府からの拝借金返済の為、明治2年(1869年)1月、静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省する。
29歳の渋沢栄一
明治政府に仕え、民部省租税正と なる。
30歳の渋沢栄一
官営富岡製糸場設置主任となる。
33歳の渋沢栄一
大蔵省を辞める。第一国立銀行開業・総監役。
渋沢栄一は、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。抄紙会社創立(後に王子製紙会社・取締役会長)。
35歳の渋沢栄一
第一国立銀行(後のみずほ銀行)頭取。
第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。
38歳の渋沢栄一
東京商法会議所創立・会頭(後に東京商業会議所・会頭)。
40歳の渋沢栄一
博愛社創立・社員(後に日本赤十字社・常議員)。
42歳の渋沢栄一
ちよ夫人死去。
43歳の渋沢栄一
伊藤かねと再婚。
44歳の渋沢栄一
日本鉄道会社理事委員(後に取締役)。
45歳の渋沢栄一
日本郵船会社創立(後に取締役)。東京養育院院長に、身寄りのない子ども、老人、路上生活者や障害のある人などを救済する日本で最初の公立救貧施設でした。。
47歳の渋沢栄一
帝国ホテル創立・発起人総代(後に取締役会長)。
48歳の渋沢栄一
札幌麦酒会社創立・発起人総代(後に取締役会長)。
東京女学館開校・会計監督(後に館長)。
49歳の渋沢栄一
東京石川島造船所創立・委員(後に取締役会長)。
50歳の渋沢栄一
貴族院議員に任ぜられる。
51歳の渋沢栄一
東京交換所創立・委員長。
52歳の渋沢栄一
東京貯蓄銀行創立・取締役(後に取締役会長)。
55歳の渋沢栄一
北越鉄道会社創立・監査役(後に相談役)。
56歳の渋沢栄一
日本精糖会社創立・取締役。
57歳の渋沢栄一
澁澤倉庫部開業(後に澁澤倉庫会社・発起人)。
61歳の渋沢栄一
日本女子大学校開校・会計監督。(後に校長)
64歳の渋沢栄一
風邪をこじらせ長期に静養。
66歳の渋沢栄一
東京電力会社創立・取締役。京阪電気鉄道会社創立・創立委員長(後に相談役)。
67歳の渋沢栄一
帝国劇場会社創立・創立委員長(後に取締役会長)。
69歳の渋沢栄一
多くの企業・団体の役員を辞任。
渡米実業団を組織し団長として渡米。 タフト大統領と会見。
70歳の渋沢栄一
政府諮問機関の生産調査会創立・副会長。
71歳の渋沢栄一
勲一等に叙し瑞宝章を授与される。
72歳の渋沢栄一
ニューヨーク日本協会協賛会創立・名誉委員長。
73歳の渋沢栄一
日本結核予防協会創立・副会頭。(後に会頭)
74歳の渋沢栄一
日中経済界の提携のため中国訪問。
75歳の渋沢栄一
パナマ運河開通博覧会のため渡米。ウイルソン大統領と会見もしている。
76歳の渋沢栄一
第一銀行の頭取等を辞め実業界を引退。
77歳の渋沢栄一
日米協会創立・名誉副会長。
78歳の渋沢栄一
渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』(竜門社)刊行。
80歳の渋沢栄一
日本国際連盟協会創立・会長。国際平和を訴える。
81歳の渋沢栄一
排日問題善後策を講ずるため渡米。ハーディング大統領と会見。
83歳の渋沢栄一
大震災善後会創立・副会長。
84歳の渋沢栄一
東京女学館・館長。
86歳の渋沢栄一
日本太平洋問題調査会創立・評議員会長。日本放送協会創立・顧問。