28歳のスティーブ・ジョブズ

ジョブズと対立し、関係が悪化していた社長スコットが、1981年マークラに解雇された。ジョブズはスコットの後任として、マーケティングに優れた人物を連れてくる必要に迫られ、ペプシコーラの事業担当社長をしていたジョン・スカリーに白羽の矢を立て、引き抜き工作を行った。

この時、スカリーを口説くために「このまま一生砂糖水を売りつづけたいか? それとも世界を変えたいか?」(英: Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world?)と言った。

熱烈なジョブズのラブコールもあり、1983年、ジョン・スカリーがアップルの社長の座に就いた。

29歳のスティーブ・ジョブズ

「Macintosh」を発売。

ジョブズはMacintoshの需要予測を大幅に誤り、アップルは過剰在庫に悩まされ、初めての赤字を計上してしまった。アップルは、従業員の1/5にあたる人数のレイオフ(人員削減)を余儀なくされた。

30歳のスティーブ・ジョブズ

スカリーはアップルの経営を混乱させているのはジョブズだと考えるようになり、Macintosh部門からジョブズを解任することを取締役会に要求する。

それを察知したジョブズは、スカリーの中国出張中にスカリーの追放を画策するが、密告により、スカリーはジョブズが自分をアップルから追い出そうとしていることを知る。

その後、スカリーは、取締役会で、ジョブズに自分の追放を画策した事について問いただし、この結果ジョブズは会長職以外、アップルでのすべての仕事を剥奪される。

スカリー宛に辞表を送付、アップル社の株・約650万株をすべて売却。高等教育のためのコンピュータという構想を実現すべく新しい会社NeXTを立ち上げる。

31歳のスティーブ・ジョブズ

ルーカスフィルムのコンピュータ関連部門を1000万ドルで買収し、ピクサーと名付け、CEOの座に就いた。

ピクサーの主要商品は約10万本のセールスを記録し『ジュラシックパーク』のコンピュータグラフィックス制作でも使われた。

養母クララが亡くなり生母と再会、この時に妹・モナ・シンプソンの存在を知り初対面を果たす。

42歳のスティーブ・ジョブズ

経営の実権を奪取すべく、社内で隠密に行動を開始し、CEOのアメリオを追い出すための画策を講じる。
「業績を向上させられない」として、すべての役員を味方につけアメリオをCEOから引きずり下ろすことに成功。

ライバルとされていたマイクロソフトから資金提供と業務提携を発表。

いくつかの社内プロジェクトを中止、大規模なリストラを行った。
前後して、企業買収によりインターネット直売事業への参入 (Apple Online Store)を行い、Macintosh互換機メーカーへのMac OSライセンスを停止、利益率の高いPowerPC G3搭載機種を市場に独占投入。こうした矢継ぎ早の改革により、アップルの再建を軌道に乗せた。

1997年のCM

48歳のスティーブ・ジョブズ

膵臓癌と診断される。
幸いにも治療可能な症例であった。周囲はジョブズにすぐに手術をうけるように忠告したが、東洋文化を尊重していたジョブズは、西洋的な医術を頑なに拒否し絶対菜食、ハリ治療、ハーブ療法、光療法などて完治を図ろうとしていたといわれるが医学的治療は遅れ、そのことから9か月後の検査で癌が大きくなっていることがわかり、摘出手術を受け療養後復帰した。

56歳のスティーブ・ジョブズ

最新の治療をうけるなどしたものの癌の進行を食い止めることはできず、癌は骨などの全身に転移し、手の施しようのない状況であった。

2011年8月24日、2009年の宣言のとおり「CEOとしての職務が継続できなくなったら話すと言っていたが、残念ながらその日が来てしまった」として、取締役会に辞表を提出してCEOを辞任、後任にティム・クックを推挙し、ジョブズの意向通りにクックが後継に就任した。同時に取締役会の承認を受けて会長職へ就いた。

ジョブズがCEOを退任する8月には、アップルは時価総額でエクソンモービルを抜き、世界最大の企業となっていた。

すでにこの時ジョブズは自力では歩くことができず、車椅子で取締役会に駆けつけた。そしてティム・クックら幹部社員を部屋から退出させた上で、社外取締役に対し上記の内容のメッセージを読み上げた。

2011年10月5日 妻や親族に看取られながらパロアルトの自宅で死去

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STEVE JOBS Last Words –
スティーブジョブス最後の言葉

I reached the pinnacle of
success in the business world.
私は、ビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。

In others’ eyes, my life is an epitome of success.
他の人の目には、私の人生は、
成功の典型的な縮図に見えるだろう。

However, aside from work, I have little joy.
In the end, wealth is only a fact of life that
I am accustomed to.

しかし、仕事をのぞくと、喜びが少ない人生だった。
人生の終わりには、富など、私が積み上げてきた
人生の単なる事実でしかない。

At this moment, lying on the sick bed and
recalling my whole life,
I realize that all the recognition and wealth that
I took so much pride in, have paled and become
meaningless in the face of impending death.

病気でベッドに寝ていると、
人生が走馬灯のように思い出される。

私がずっとプライドを持っていたこと、
認証(認められること)や富は、
迫る死を目の前にして
色あせていき、何も意味をなさなくなっている。

In the darkness, I look at the green lights from
the life supporting machines and hear the
humming mechanical sounds,

この暗闇の中で、生命維持装置の
グリーンのライトが点滅するのを見つめ、
機械的な音が耳に聞こえてくる。

I can feel the breath of God and of death drawing closer…

神の息を感じる。死がだんだんと近づいている。。。。

Now I know, when we have accumulated
sufficient wealth to last our lifetime, we should pursue
other matters that are unrelated to wealth…

今やっと理解したことがある。

人生において十分にやっていけるだけの
富を積み上げた後は、富とは関係のない
他のことを追い求めた方が良い。

Should be something that is more important:
もっと大切な何か他のこと。

Perhaps relationships, perhaps art,
perhaps a dream from younger days …

それは、人間関係や、芸術や、
または若い頃からの夢かもしれない。

Non-stop pursuing of wealth will only turn
a person into a twisted being, just like me.

終わりを知らない富の追求は、
人を歪ませてしまう。私のようにね。

God gave us the senses to let us feel
the love in everyone’s heart, not the illusions
brought about by wealth.

神は、誰もの心の中に、
富みによってもたらされた幻想ではなく、

愛を感じさせるための「感覚」
というものを与えてくださった。

The wealth I have won in my life I cannot bring with me.
私が勝ち得た富は、(私が死ぬ時に)
一緒に持っていけるものではない。

What I can bring is only the
memories precipitated by love.

私が持っていける物は、愛情にあふれた思い出だけだ。

織田信長の名言・格言

織田信長

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。

尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、力をつけ、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼし、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑えて戦国乱世の終焉に道筋をつけた。

織田信長の名言・格言

理想を持ち、信念に生きよ。
理想や信念を見失った者は、
戦う前から負けているといえよう。
そのような者は廃人と同じだ。

必死に生きてこそ、
その生涯は光を放つ。

組織に貢献してくれるのは「優秀な者」よりも「能力は並の上だが、忠実な者」の方だ

いつの時代も変わり者が世の中を変える。異端者を受け入れる器量が武将には必要である。

人間の50年の生涯は儚いものだ。死なない者は存在しない。

徳川家康の名言・格言

徳川家康

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。
江戸幕府の初代征夷大将軍。

徳川家康の名言・格言

人の一生は、
重荷を負うて遠き道をゆくがごとし。
急ぐべからず。

堪忍は無事長久の基、
怒りは敵と思え。

戦いでは強い者が勝つ。
辛抱の強い者が。

多勢は勢ひをたのみ、
少数は一つの心に働く。

人は負けることを知りて、
人より勝れり。

愚かなことを言う者があっても、最後まで聴いてやらねばならない。
でなければ、聴くに値することを言う者までもが、発言をしなくなる。

出展;http://iyashitour.com/archives/20274

幼少期の織田信長

1534年5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として誕生。

母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。『信長公記』に拠れば、幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称されていた。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。

14歳の織田信長

1548年、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘・濃姫と信長の間で政略結婚が交わされた。
翌年、信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。
また同年には、近江国の国友村に火縄銃500丁を注文したという。

6歳の徳川家康

竹千代は今川氏の人質として駿府へ送られることとなった。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田氏へ送られた。しかし父・広忠は今川氏への従属を貫いたため、そのまま人質として尾張国に留め置かれた。この時に織田信長と知り合ったと言われるが、どの程度の仲だったのかは不明。

16歳の徳川家康

今川氏から織田氏に通じた加茂郡主・鈴木重辰を攻めた、これが初陣であり、城下を焼いて引き揚げ、転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・伊保を攻めた。この戦功により、今川義元から旧領のうち山中三百貫文の地を返付し、腰刀を贈った。

18歳の徳川家康

桶狭間の戦いで先鋒を任され、大高城の鵜殿長照が城中の兵糧が足りないことを義元に訴えたため、義元から兵糧の補給を命じられた。
義元が織田信長に討たれた際、、撤退。松平家の菩提寺である大樹寺に入り、自害しようとしたが住職の登誉天室に諭されて考えを改める。

20歳の徳川家康

義元の後を継いだ今川氏真と断交して織田信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。一方、将軍足利義輝や北条氏康は松平・今川両氏の和睦を図るが実現しなかった。
翌年には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた

30歳の徳川家康

武田信玄の上洛戦途上、三方ヶ原の戦で大敗。
翌年、武田軍によって三河設楽郡の野田城を2月には落とされたがその後、武田軍は信玄の発病によって長篠城まで退き、信玄の死去により撤兵した。

このときの家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画(しかみ像)が残っており、これは自身の戒めのために描かせ常に傍らに置き続けたと伝えられる

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/73/Mikatagaharasenekizou.jpg/447px-Mikatagaharasenekizou.jpg

出典;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Mikatagaharasenekizou.jpg

36歳の織田信長

1570年4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍金ヶ崎で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた池田勝正・明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。

信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)

37歳の徳川家康

信長から正室・築山殿と嫡男・松平信康に対して武田氏への内通疑惑がかけられたとされる。家康は酒井忠次を使者として信長と談判させたが、信長からの詰問を忠次は概ね認めたために信康の切腹が通達され、家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという。(この通説には疑問点も多く、家康・信康父子の対立が原因とする説もある)

40歳の徳川家康

織田信長に従い武田勝頼攻め(天目山の戦)に参陣。
駿河国へ侵攻し蘆田信蕃の田中城を落とし、武田家家臣、穴山梅雪の誘降に成功し、武田氏滅亡後は、武田家の旧領駿河国を加増される。
駿府において信長を接待しているが、家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営した。
信長はこの接待をことのほか喜び、その返礼となったのが、本能寺の変直前の家康外遊となる。

堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態(結果的に穴山信君は横死している。)となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え)。

この後、天正壬午の乱で北条氏直と争ったあと和睦。
これにより武田氏旧領の甲斐国、信濃国に進出し、その大部分を所領に。

39歳の織田信長

武田信玄の病死により、進軍される危機を回避。

1573年7月 再び抵抗の意思を示した足利義昭が二条御所や山城守護所に立て籠もったが信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府は事実上滅亡

越前国を攻め、朝倉義景を自害させ、越前国を支配下に。

小谷城の戦で、浅井長政を自害させ近江国を支配下に。
(長政に嫁いでいた妹のお市の方と、その娘茶々(淀殿)、初、於江与は落ち延びる)

44歳の徳川家康

1586年、秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み、臣従要求を拒み続ける家康に対して秀吉は実妹・朝日姫(南明院)を正室として差し出し、5月14日に家康はこれを室として迎え、秀吉と家康は義兄弟となる。
秀吉実母の大政所も家康は岡崎城に受け入れた。

家康は同年10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いにきて、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。