16歳の伊藤博文

吉田松陰の松下村塾に入門する。伊藤は友人の稔麿の世話になったが、身分が低いため、塾外で立ち聞きしていたという。
吉田松陰から「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」と評され、「俊輔、周旋(政治)の才あり」とされた。

18歳の伊藤博文

義兄の桂小五郎(後の木戸孝允)の従者となり長州藩の江戸屋敷に移り住んだ。ここで志道聞多(後の井上馨)と出会い、親交を結ぶ。
吉田松蔭が同年10月に安政の大獄で斬首された際、桂の手附として江戸詰めしていた伊藤は、師の遺骸を引き取ることなる。この時、伊藤は自分がしていた帯を遺体に巻いた。この後、桂を始め久坂玄瑞・高杉晋作・井上馨らと尊王攘夷運動に加わる一方で海外渡航も考えるようになる。

21歳の伊藤博文

公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、8月に自害した来原の葬式に参加、12月に品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加し、山尾庸三と共に塙忠宝[注釈 1]・加藤甲次郎を暗殺するなど、尊王攘夷の志士として活動

22歳の伊藤博文

井上馨の薦めで海外渡航を決意、井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉(後の井上勝)らと共に長州五傑の1人としてイギリスに渡航。途中に寄港した清の上海で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられた。
ロンドンでは英語を学ぶと共に博物館・美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広めた。留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じる。

23歳の伊藤博文

米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨と共に急ぎ帰国し6月10日に横浜上陸後長州藩へ戻り戦争回避に奔走する。英国公使オールコックと通訳官アーネスト・サトウと会見したが、両名の奔走も空しく、8月5日に4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発、長州の砲台は徹底的に破壊される。

伊藤は戦後、宍戸刑馬こと高杉晋作の通訳として、ユーリアラス号で艦長クーパーとの和平交渉にあたる。

長州藩が第一次長州征伐で幕府に恭順の姿勢を見せると、12月に高杉らに従い力士隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。この時、高杉の元に一番に駆けつけたのは伊藤だった。その後、奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派が藩政を握った。後に伊藤は、この時のことを述懐して、「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」と語っている。

29歳の伊藤博文

工部省の長である工部卿として、殖産興業を推進する。後にこれは、内務卿・大久保利通のもとで内務省へと引き継がれる。また同年11月から翌年5月まで財政幣制調査のため、芳川顕正・福地源一郎らと渡米し、ナショナル・バンクについて学び、帰国後に伊藤の建議により、日本最初の貨幣法である新貨条例が制定される。

31歳の伊藤博文

大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信と共に殖産興業政策の一環として、鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年5月7日(1872年6月12日)に品川 – 横浜間で仮営業を始め、同年9月12日(1872年10月14日)、新橋までの全線が開通した。

41歳の伊藤博文

1882年、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられる。プロイセン憲法の逐条的講義や歴史法学や行政について学ぶ。これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながる。

44歳の伊藤博文

朝鮮で起きた甲申政変の事後処理のため清に派遣され、4月18日には李鴻章との間に天津条約を調印。
12月の内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。
太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。以後、伊藤は4度にわたって内閣総理大臣を務める

45歳の伊藤博文

官僚育成のため帝国大学(現在の東京大学)を創設
当時あまり顧みられていなかった、女子教育の必要性を痛感した伊藤は、自らが創立委員長となり「女子教育奨励会創立委員会」を創設した(翌年には「女子教育奨励会」となる)。委員には、伊藤の他に実業家の渋沢栄一、岩崎弥之助や、東京帝国大学教授のジェムス・ディクソンらが加わり、東京女学館を創設するなど女子教育の普及に積極的に取り組んだ。

46歳の伊藤博文

井上馨を外務大臣として条約改正を任せたが、井上馨が提案した改正案に外国人判事の登用などを盛り込んだことが問題になり、閣内分裂の危機を招いたため外国へ向けた改正会議は中止、9月に井上馨が辞任したため失敗に終わった、同年6月から夏島で伊東巳代治・井上毅・金子堅太郎らと共に憲法草案の検討を開始

53歳の伊藤博文

2度目の首相を務めていた時、日清戦争がおこる。翌年の明治28年(1895年)4月に、陸奥宗光と共に全権大使として、李鴻章との間に下関の春帆楼で講和条約の下関条約(馬関条約)に調印する。また、戦争前に陸奥がイギリスと治外法権撤廃を明記した条約を結び、条約改正に大きく前進した。

59歳の伊藤博文

立憲政友会を創立し、初代総裁を務める。10月に政友会のメンバーを大勢入れた第4次伊藤内閣が発足するが、政党としての内実が整わない状態での組閣だったため、内部分裂を引き起こし翌34年(1901年)5月に辞任。政友会はその後西園寺公望・原敬らが中心となり伊藤の手を離れるが、立憲民政党とならぶ2大政党の1つとなり、大正デモクラシーなどで大きな役割を果たすまでに成長した

61歳の伊藤博文

伊藤は対露宥和政策をとり、陸奥宗光・井上馨らと共に日露協商論・満韓交換論を唱え、ロシアとの不戦を主張した。
1904年から始まった日露戦争をめぐっては、金子堅太郎をアメリカに派遣し、大統領セオドア・ルーズベルトに講和の斡旋を依頼している。1905年のポーツマス条約に結びつく。講和後は、勝利を手にした日本と敗戦国ロシアとの間の戦後処理に奔走

64歳の伊藤博文

韓国統監府が設置されると伊藤が初代統監に就任した。以降、日本は実質的な朝鮮の統治権を掌握した[注釈 3]。

伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄を急ぐ山縣有朋や桂太郎・寺内正毅ら陸軍軍閥と、しばしば対立。
韓国併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取っていた(1907年)。