60歳の手塚治虫

1988年3月に胃を壊し、一度目の手術を受ける。
1989年1月21日に手塚プロ社長の松谷孝征がお見舞いに来た時には、「僕の病状は何なんだ、君聞いてきてくれ」と頼んでいたという。胃癌ということは伏せたうえで聞いた事を話すと「そうか…」と一言言ったという。
100歳まで描き続けたいと言っていた手塚は病院のベッドでも医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていた。

同年1月25日以降、昏睡状態に陥るが意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言っていたという。息子である手塚眞は昏睡が覚めると鉛筆を握らせるが意識がなくなりの繰り返しだったと語る。死に際の状態でも「頼むから仕事をさせてくれ」と起き上がろうとし、妻は「もういいんです」と寝かせようとするなど最後まで仕事への執着心を無くさなかった。
手塚の死に立ち会った松谷孝征によるとこの「頼むから仕事をさせてくれ」が手塚の最後の言葉であったという。

周りの人間は誰も手塚に胃癌であることを伝えず、手塚自身は生き続けるということに何も疑問は持たなかったとされる。
しかし手塚が病院で描いていた遺作の一つ「ネオ・ファウスト」では主要な人物が胃癌にかかり、医者や周りは気遣って胃癌であることを伝えないが本人は胃癌であることを知っていて死亡するという内容が描かれている。

手塚治虫に関する映像

赤塚不二夫の名言・格言

赤塚 不二夫(あかつか ふじお、本名:赤塚 藤雄、1935年(昭和10年)9月14日 – 2008年(平成20年)8月2日)は、日本の漫画家。

1956年に貸本漫画『嵐をこえて』でデビュー。その後石森章太郎を慕い、トキワ荘に入居。以後作品発表の舞台を漫画雑誌に移し、1962年に『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』の大ヒットで一躍人気作家となる。1967年に代表作である『天才バカボン』の爆発的ヒットと、その後の『もーれつア太郎』『レッツラゴン』といった一連のヒット作や長期連載作品等により「ギャグ漫画の王様」と謳われ、戦後ギャグ漫画史の礎を築いた。

赤塚 不二夫の名言・格言

なにを落胆してるんだ。
バカだからこそ
真実を語れるんじゃないか!

バカボンのパパってさ、
別にラクして生きてるわけじゃないんだよ。
どうすれば家族を幸せにできるかを考えながら
一生懸命ガンバってるわけ。

世の中に友情と欲情ほど良いものはない。

バカっていうのは自分がハダカになることだ。
世の中の常識を無視して、
純粋な自分だけのものの見方や生き方を
押し通すことなんだよ。
バカだからこそ語れる真実っていっぱいあるんだ

10歳の赤塚不二夫

終戦を中国で迎える。

父は特殊警察の宣撫官という現地での人心をつかむという職務柄もあって、普段から現地に住む中国人とも平等に接することに努め、補給された物資を現地の村人達に分けてあげたり、子供たちにも中国人を蔑視しないよう教えるなど正義感の強い人物でもあった。そのため彼には抗日ゲリラ側から当時の金額で2000円もの懸賞金がかけられていたにも関わらずに現地の村人からも密告されることもなく、終戦直後に報復として赤塚家の隣に住む日本人一家が中国人に惨殺される中で普段から中国人と親密にしていた赤塚の家族は難を逃れている。

この時のことを赤塚は
「爆発音に続く銃声が聞こえた。「襲撃だ!」おやじは言うが早いか制服に着がえてぼくと一緒に外に飛び出した。「ぼくも行く」と言ったからなのか、それとも「お前もこい!」とおやじがぼくを促したからなのかは定かではない。しかし、火事場見物ではない。深夜の殺し合いに、たとえ子供にせがまれたからといって連れて行くというのは考えにくい。やはりおやじは自分の意志で息子をあえて殺戮現場に連れて行ったのだろう。
おやじが砦の外の村へ出たとき、村人の1人が敵に連絡すればそれまでである。だが村人は誰もおやじを敵に売り渡さなかった。こういうわけで、おやじだけではなく赤塚家も襲撃されることがなかった。砦には時々、さまざまな物資を積んだトラックが到着した。おやじはその物資をよく村人に分けていた。「敵も味方も同じ人間じゃないか」なにか見返りを期待したわけではない、こちらに真心があればそれは必ず相手に通じるはずだ――これがおやじの人間観だった。」」と語っている

11歳の赤塚不二夫

父親がシベリアに抑留され、奉天に残された家族は葫芦島から大発動艇で4日かけて(赤塚にとって初めて見る日本である)佐世保港に引き揚げ、汽車で母の実家がある奈良県大和郡山矢田口に移った。
当時のことを
「オレは満州から引きあげてきて、奈良の大和郡山に3年間住んでいたんだけど、あのあたりってヨソ者を徹底的に排除する風潮があったんだ。隣がエタ村で、差別意識が定着してたのかもしれないな。オレも差別されたよ。配給の列に並んでて、オレの順番になると「満州、ダメ」とか言って本当にくれないんだから。いい大人が子供に対してだよ。今でも忘れられないよ」と回想している。

帰国までに妹はジフテリアにより死去し、弟は他家へ養子に出され(後に赤塚は茨城県の常磐炭田炭鉱で働いていた彼と一度だけ再会)、更には生後6か月の末妹も母の実家に辿りついた直後に栄養失調のため夭折。日本に帰還する頃には兄弟は藤雄と弟と妹の三人と半数となってしまった。その時の母親には泣く気力もなく、赤塚は「胸がえぐられるようだった」という

12歳の赤塚不二夫

帰国後、貸本屋で5円で漫画を借りて読むようになり、このとき手塚治虫の『ロストワールド』に出会ったことで漫画家になることを決意。見よう見まねで手塚風の漫画の執筆に没頭。
12歳になると『ダイヤモンド島』というSF長編漫画を描き、母親と一緒に出版社へ最初の持ち込みを行ったが失敗。

14歳の赤塚不二夫

母親のわずかな稼ぎでは残った3人の子供を養っていくことが困難であった為、兄弟は父の郷里である新潟の新類縁者にそれぞれ預けられることになり、赤塚は新潟県に住む父親の姉一家の母子家庭に預けられた。
当初新しい学校で差別を受けていたが、全校の図画コンクールで第1席になった。差別意識が強かった級友たちからも、驚きの目でみられたという。

15歳の赤塚不二夫

父親が舞鶴港に帰国するが過酷なシベリアでの抑留生活や日本の敗戦などで権威を失い、栄養失調による水疱でかつての面影もなくし、動作がのろくなって食欲が異常に強くなり台所を度々荒らしてしまうなど以前とは全く違うような人物になっていたという。

17歳の赤塚不二夫

学校を卒業したが、家庭の金銭的な事情から高校進学を断念し映画の看板を制作する新潟市内の看板屋に就職。
仕事柄、映画看板の制作に携わっていたことから花月劇場という映画館であらゆる映画を鑑賞することとなり、このときバスター・キートンや駅馬車、チャーリー・チャップリンの喜劇に感銘を受けたという。この時期に『漫画少年』への投稿も始めた。手塚治虫が投稿作品を審査するコーナーがあり、この頃から自分の絵柄を模索し始めるようになる。

19歳の赤塚不二夫

父親の友人の紹介で就職した東京のエビス化学工業所という化学薬品工場に勤務しながら『漫画少年』へ投稿を続けた。その漫画が石森章太郎(後の石ノ森章太郎)の目に留まり、石森が主宰する「東日本漫画研究会」が制作する肉筆回覧誌「墨汁一滴」の同人に参加。仲間が増えた。

21歳の赤塚不二夫

プロの漫画家だったつげ義春からの紹介で、描き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビュー。状況した友人石森を手伝う形でトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。
当時は原稿料の前借をして漫画を描く自転車操業状態にあった。将来を悲観して漫画家廃業を考え、新宿のキャバレーの住み込み店員になろうと思った時期もあったが、トキワ荘のリーダー的存在で兄貴分として慕われていた寺田ヒロオに相談。すると寺田から「ちょっと待て。これのある間は、ここにいろ。なくなっても、もし漫画家として売れていなかったら、キャバレーでもどこへでも行けばいい」と現金5万円を渡される(当時の国家公務員初任給は9200円)。またこの時期、石森のおごりで映画を浴びるほど観て、その経験が後の作品に活かされることになった。

28歳の赤塚不二夫

1963年に、トキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加[注釈 5]。1966年(昭和41年)には『おそ松くん』がスタジオ・ゼロ製作により毎日放送・NET(現:テレビ朝日)系でテレビアニメ化された。

32歳の赤塚不二夫

『週刊少年マガジン』(講談社)にて「天才バカボン」、『週刊少年サンデー』にて「もーれつア太郎」を発表して天才ギャグ作家として時代の寵児となる。

テレビ番組『まんが海賊クイズ』で当時は漫画家としては異例のテレビの司会を、黒柳徹子と共に担当。

35歳の赤塚不二夫

母親が不慮のガス爆発事故で入院。一命は取り留め一時退院するものの、ショックからクモ膜下出血を発症して再入院となりその後容態が急変するも赤塚の懸命の呼びかけで再び息を吹き返すが、脳死状態となり8月20日に59歳で死去した。[21]この年に妻と別居状態となり、12月にはスタジオ・ゼロが事実上の解散となった。

36歳の赤塚不二夫

既に『少年サンデー』での新連載が決まっていたものの赤塚は既にアメリカに在住していた森田拳次との約束と『MAD』編集部への取材との口実で、長谷、滝沢解、そして当時交際していた愛人の女性とともに渡米。2か月間滞在し、入稿締め切りが迫る中でサンデーの担当編集者武居俊樹に宛て新連載のタイトルが入った旨を記した手紙と自由の女神との記念写真を送り付ける。そのタイトルが『レッツラゴン』で、写真はそのまま扉絵として使用されその後3年にわたり連載される。当初の設定は次第に有形無実となり、劇画や文芸作品までも茶化し武居が「タケイ記者」として作品に登場して赤塚を苛め抜く描写など、ナンセンスを越えたシュールでアナーキーなストーリー展開が連載当時はなかなか理解されなかったという。
アニメーション制作会社「不二アートフィルム」を設立。

39歳の赤塚不二夫

税務署の調査で税金の支払いが長期に渡り滞納していることが発覚。延滞金だけで6000万円ともされた。

原因はフシオプロの経理担当者の横領によるもので被害額は二億円とも言われ、実印まで預け信頼していた人物による裏切りであった。失踪したこの人物は後日逮捕されるが、赤塚はこの人物の将来を考え告訴することはなかった。。

しかし横領された二億円の中には古谷三敏や芳谷圭児といったフジオプロ所属の漫画家らのプール金もあり、このトラブルにより古谷、芳谷はフジオプロを退社。それぞれのスタッフを引き連れ、自身らの制作プロダクション・ファミリー企画を設立した。(その後、赤塚は古谷、芳谷らの被害額を返済している)

40歳の赤塚不二夫

1975年「元祖天才バカボン」が日本テレビ系列で放映開始。
この時期には漫画家としては最も多忙を極め、週刊誌五本、月刊誌七本の同時連載をこなす一方で長谷邦夫の紹介によりタモリと出会う。

42歳の赤塚不二夫

タモリを中枢とする芸能関係者との交流を深める中、1977年を境に、ステージパフォーマンスに開眼。タモリらと面白グループを設立。
10月29日、渋谷公会堂で『輝け!第一回いたいけ祭り』というタモリや赤塚の“宴会芸”を見せるイベントを行うが赤字。
面白グループでの活動を筆頭に数多くのイベントを企画・出演するようになったが、その10年後には「漫画に費やしていたエネルギーをステージで発散してしまった」といった趣旨の発言があり、長いスランプに陥っている事を公言。

52歳の赤塚不二夫

アルコール依存症に陥った赤塚のサポートを行っていた、写真家の国玉照雄の元アシスタントで、スタイリストの鈴木眞知子と結婚。結婚にあたっては先妻・登茂子が後押しし、保証人になっている 。結婚記者会見には登茂子とりえ子も同席

62歳の赤塚不二夫

「まんがバカなのだ 赤塚不二夫展」が開催され、好評を博す。
デビュー前の貴重な習作から1990年代初頭までの間に描かれた名作、怪作、およそ200枚に及ぶ美麗な生原稿が展観出来るだけではなく、赤塚自ら肉体を駆使し、挑戦したエドヴァルト・ムンク、レオナルド・ダ・ヴィンチ、エドガール・ドガ、フィンセント・ファン・ゴッホといった歴史上の画家のパロディ・アートも展示。

同年、吐血し緊急入院。精密検査の結果、食道がんと診断され22日に告知を受ける。医師から「2か月後には食べ物がのどを通らなくなる」と告げられ、「食道を摘出し小腸の一部を食道の代用として移植する」と今後の手術・治療の内容も告げられたが「小腸を食道に使ったら、口からウンチが出てきちゃうんじゃないの。」とギャグで返す気丈さを見せて24日には退院を強行

1998年には驚きももの木20世紀にて特集

65歳の赤塚不二夫

点字の漫画絵本『赤塚不二夫のさわる絵本“よーいどん!”』を発表。ある日テレビで見た視覚障害を持つ子供たちに笑顔がなかったことにショックを受け、「この子たちを笑わせたい」という思いから制作したもので、点字本としては空前のベストセラーとなり、全国の盲学校に教材として寄贈された。なお、赤塚は同書を少しでも安い価格で提供するためにと、著作権料を辞退している