静岡師範学校を経て1921年、東京高等工業学校(現・東京工業大学)附設工業教員養成所卒業。同年、神奈川県立工業学校(現・神奈川県立神奈川工業高等学校)教諭になる。テレビの研究をはっきりと志すのは、1923年、フランスの雑誌に見つけた未来のテレビを描いたポンチ絵(風刺画)を見た時らしい。
投稿者: agebook_ito
8歳のタモリ
下校途中に電柱のワイヤに顔をぶつけ、針金の結び目が右目に突き刺さって失明。2ヶ月休校して治療したものの、視力は戻らなかった。小学生の頃、祖母に「今の内から男も料理ができるようにならないと、後々奥さんがいざと言う時に困るでしょ。私が料理をしている姿を見ていなさい」と言われ、毎日祖母が支度する姿を見ていたことが料理を始めたきっかけだという。この頃のことをタモリは「小学生時代は、学校から帰ると暇でテレビゲームもなければ、習いごともなく、人を見ているか、坂道を見たり、船を見たり、(祖母の料理支度の見学は)暇つぶしにはもってこいだった」と述懐している。
25歳の高柳健次郎
浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)助教授となり「無線遠視法」(テレビジョン)の研究を本格的に開始
13歳のタモリ
近所にあった教会に通ったという。ただ、キリスト教に興味があったわけではなく、宣教師の身振り手振りや喋りが面白いからという理由。この経験は、後の「タモリ神父の説教」というネタに活かされている。
27歳の高柳健次郎
ブラウン管による電送・受像を世界で初めて成功した。送像側に機械式のニプコー円板と受像側に電子式のブラウン管を用いて、片仮名の「イ」の文字を送受像した。走査線の数は40本だった。「イ」の字はいろは順の最初の文字として選んだ。
16歳のタモリ
福岡県立筑紫丘高等学校へ入学。
高校時代は、剣道部と吹奏楽部を両立してトランペット兼司会を担当、アマチュア無線クラブにも入っていて、船の無線通信士にもあこがれた。居合道場]も通い、二段を取得。 ファンだった地元球団・西鉄ライオンズが身売りをしたため、野球への興味を失う。
29歳の高柳健次郎
人物の送像のテレビ実験に成功するまでに至った (走査線数は40本、毎秒送像数14枚)
19歳のタモリ
無線に興味があったため電気通信大学を目指したが、物理が克服できず、1年間の浪人生活を送った
38歳の高柳健次郎
1937年、NHKに出向し東京オリンピックのテレビ放送を目指してテレビ受像機の研究を本格的に開始。しかし1938年に日中戦争が激化するなどで東京オリンピックは中止、テレビの研究も中断させられレーダーなどの研究をすることになる。
20歳のタモリ
早稲田大学第二文学部西洋哲学専修へ入学。在学中はモダン・ジャズ研究会に在籍。マイルス・デイヴィスのラッパは泣いているが、お前のラッパは笑っている」などの批評を受け、トランペットは3日でクビ、代わってマネージャー兼司会を担当する。
タモリはこの時期に付けられたニックネーム。
後年にトランペットをテレビで披露。中々の腕前(1986年の映像)。
46歳の高柳健次郎
NHKに戻ってテレビの研究を再開するがGHQの指令によりテレビの研究を禁止させられた。
21歳のタモリ
大学2年次の5月の連休、友人2人と旅行を計画し、学費用に仕送りされた資金を旅行用に一旦充てたが返済されず、自分の授業料が払えなくなったため、早稲田大学を去った。学費未納のため抹籍。
47歳の高柳健次郎
日本ビクターに高柳の弟子と共に入社。自身が中心となりNHK、シャープ、東芝と共同でテレビ放送技術とテレビ受像機を完成させた。
産官学共同でテレビ技術の研究開発を行う団体として組織されたテレビジョン同好会の委員長に就任。
22歳のタモリ
中退後間もなく叔父に福岡に引き戻され、朝日生命で3年近く保険外交員として勤める。この時期に同僚の2歳年上の一般女性と結婚。その後、旅行会社に転職するが、系列のボウリング場(大分県)に転属。支配人となる。
60歳の高柳健次郎
世界に先駆けて、2ヘッド方式のビデオテープレコーダーを完成させ、VHS方式のホームビデオの世界的普及と∨TR産業の発展に貢献した。
27歳のタモリ
渡辺貞夫の福岡でのコンサートのスタッフに大学時代のジャズ仲間がいたことから、コンサート終了後、その友人が泊まっていたホテルで終電がなくなる時間ギリギリまで飲みながら話し込んでいた。いざ帰ろうと部屋から出た際、やけに騒がしい一室があり、通りがかり様に半開きになっていたドアから中を覗いた。
室内では、ナベサダのコンサートに同行していた、山下洋輔トリオが歌舞伎の踊り、狂言、虚無僧ごっこなど乱痴気騒ぎをしていた。そこにタモリは乱入する。中村誠一が被っていたゴミ箱を取り上げるとそれを鼓にして歌舞伎の舞を踊り始めた。始発が出る時間まで共に騒ぎ、タモリは「モリタです」とだけ名乗って帰宅。
「この男はジャズ・ファンに違いない」と確信した山下は、博多のジャズバーに「モリタ」という名前の男はいないかと片っ端から問い合わせたという。その後、とあるジャズバーから「喫茶店の変人マスターでは」という情報が入り、タモリと山下は再会することになる。
この時期、タモリは転職して喫茶店のマスターであり、ウィンナ・コーヒーを注文すると、ウィンナーソーセージが入ったコーヒーを出すなど、地元では奇妙なマスターとして有名であった。
71歳の高柳健次郎
日本ビクター代表取締役副社長就任。73年には日本ビクター技術最高顧問に就任。
30歳のタモリ
新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」で、「山下がそんなに面白いというのなら一度見てみたい」とタモリを上京させる機運が高まり、バーの常連により「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」が結成され、同会のカンパによって、1975年6月に上京を果たす。
開かれた独演会では「4か国語麻雀」や「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士が、宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」などのリクエストを含めた即興芸を披露。
面白いことをやっている人間がいるという噂を聞きつけた、赤塚不二夫がタモリの元を訪れる。赤塚は、タモリの即興芸に心酔し、8月末に生放送が決定していた自らの特別番組にタモリを出演させることを決意。放送までまだかなり日数があったため、タモリは福岡に帰ることを望んでいたが、「タモリの芸をもっと見たい、福岡に帰したくない」と考えた赤塚は、4LDKの自宅を自由に使っていいからと東京に残ってくれとタモリに懇願。タモリはこれを了承し、赤塚宅での居候生活が始まる
91歳の高柳健次郎
テレビの父 高柳健次郎、1990年7月23日 – 死去。91歳没。
31歳のタモリ
芸能界入りする際、4つの戒律を自らに掲げたという[12]。
1、 誰の弟子にもならない
2、組織には属さない
3、頭をなるべくさげずにカネをもうける
4、色紙にサインをする時は、名前の横に添えるモットーのようなものは持たない
当時の芸は、イグアナのような体芸、反知性を打ち出した中洲産業大学教授、デタラメ言語ハナモゲラなど、他の芸人とは一線を画しており、テレビ的にはキワモノ芸人的存在と考えられていた。
タモリの主なネタ
32歳のタモリ
1977年には、赤塚不二夫、滝大作、高平哲郎らと「面白グループ」を結成。週3回以上の宴会を催し、その成果を何らかの方法で発表することを目的にした団体であり、まもなく、坂田明、内藤陳、小松政夫、団しん也、たこ八郎、三上寛、研ナオコ、柄本明、所ジョージ、アルフィー、劇団東京ヴォードヴィルショーの一部メンバーも参加。ビートたけしも参加しようとしていたが、たけしはタモリの芸風を嫌ってすぐに脱退したという。
面白グループ旗揚げ公演として、渋谷公会堂で「輝け!第一回いたいけ祭り」という、タモリや赤塚の「宴会芸」を見せるイベントを行う。
1978年にはテレビ出演も増えはじめる。
https://www.youtube.com/watch?v=a4LSFNd9SEk
35歳のタモリ
主婦向けトークバラエティー「だんとつタモリ おもしろ大放送!」がスタート。主婦向けに夜の生活秘話などのきわどいトークで人気を集めるようになった。
徹子の部屋にも主点するようになっていく
36歳のタモリ
第10回「ベストドレッサー賞」スポーツ・芸能部門受賞
37歳のタモリ
フジテレビの「夜の顔を昼に」とタモリを昼の帯番組に起用するという荒業に出る。「笑っていいとも」は当初低迷したものの、間もなく人気が沸騰していき、2014年3月31日の放送終了まで31年半続いた長寿番組となった。
この時期、深夜のタモリのイメージを崩さないという目的で深夜バラエティ番組『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系列)も放送開始、これもまた、30年以上続く人気番組となっている。
38歳のタモリ
『第34回NHK紅白歌合戦』(NHK総合テレビジョン)の総合司会を務めることになる。NHKアナウンサー以外が、「NHK紅白歌合戦」の総合司会を務めたのは、タモリが初という異例の起用
40歳のタモリ
持ちネタの一つだった昭和天皇の物真似については、1985年5月14日、作家の筒井康隆のパーティーで披露したところ、それが翌週の「週刊読書人」に掲載され、右翼から脅迫を受けることとなり、最終的には所属事務所の田邊昭知社長が半監禁状態で右翼から抗議される事態に至った。
この事件以降、昭和天皇ネタは封印されている。
42歳のタモリ
音楽番組『ミュージックステーション』(テレビ朝日系列)で2代目メイン司会に抜擢。
44歳のタモリ
「FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島’89」さんまと、デビュー当時のダウンタウンやうっちゃんなんちゃんともからむ貴重映像
45歳のタモリ
1990年代以降は、趣味や知識(タモリ本人曰く「広く浅く」)を前面に打ち出すように。
『タモリのボキャブラ天国』『タモリのジャポニカロゴス』(フジテレビ系列)、『ブラタモリ』(NHK)など続々とレギュラーが増えた。
また、テレビドラマにも積極的に出演するようになり、俳優としてのタモリの活躍の場が増えていくことになる。
50歳のタモリ
1990年代半ばには、女子高校生の間で人気が出るなどし、老若男女問わず幅広い層からの人気を得るようになる。
58歳のタモリ
「ギネス・ワールド・レコーズ」(2003年度版『笑っていいとも!』生放送単独司会最高記録受賞)
63歳のタモリ
タモリの才能を見抜き、地元・福岡から上京させて、自宅マンションに居候までさせた漫画家・赤塚不二夫が逝去。
66歳のタモリ
『いいとも!』初代プロデューサーを務めていた横澤彪が肺炎のために亡くなった。タモリは「夜の番組しか出演出来ないと言われていた私をいきなり昼の真ん中に起用してくれました。私自身は昼も夜も意識したことはありませんでしたが、私で大丈夫なのかと不安でした。『笑っていいとも!』は今秋30周年を迎えます。大変お世話になりました」とコメントを寄せ、恩人の死を悼んだ。
69歳のタモリ
笑っていいとも最終回を迎える。全8054回、31年の長寿番組であった
トーマス・エジソンの名言・格言
トーマス・エジソン
1847年2月11日 – 1931年10月18日は、アメリカ合衆国の発明家、起業家。
生涯におよそ1,300もの発明を行った人々の生活を一変させるような重要な発明をいくつも行ったことで知られている。蓄音器、白熱電球、活動写真など。
また、電球などの家電だけでなく、発電から送電までを含む電力(電力システム)の事業化に成功したことが最も大きな功績、ともされる。
またエEdison General Electric Company エジソン・ゼネラル・エレクトリック会社の設立者で、J・Pモルガンから巨額の出資・援助をしてもらい、その指揮下で電力システムの開発・普及に努力したわけであるが、この会社は、現ゼネラル・エレクトリック社 (GE社) の前身となった会社である。
エジソンの名言・格言
I find out what the world needs. Then, I go ahead and invent it.
まず世界が必要としているものを見つけ出す。そして、先へ進み、それを発明するのだ。
I owe my success to the fact that I never had a clock in my workroom.
私が成功することができたのは、仕事場に時計がなかったおかげである。
I have not failed. I’ve just found 10,000 ways that won’t work.
私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。
The best thinking has been done in solitude. The worst has been done in turmoil.
最上の思考は孤独のうちになされ、最低の思考は混乱のうちになされる。
Our greatest weakness lies in giving up. The most certain way to succeed is always to try just one more time.
私たちの最大の弱点は諦めることにある。成功するのに最も確実な方法は、常にもう一回だけ試してみることだ。
Show me a thoroughly satisfied man and I will show you a failure.
完全に満足しきった人がいたら、それは落伍者だ。
Everything comes to him who hustles while he waits.
待っている間もがんばる人にすべてのものはやってくる。
There are no rules here – we’re trying to accomplish something.
われわれが何かを成し遂げようとしているとき、ルールなどない。
We don’t know a millionth of one percent about anything.
われわれは何事についても1パーセントの100万分の一も知らない。
Genius is 1 percent inspiration and 99 percent perspiration.
天才とは、1%のひらめきと99%の努力である。
正力松太郎の名言・格言
正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年(明治18年)4月11日 – 1969年(昭和44年)10月9日)は、日本の内務官僚、実業家、政治家。元読売新聞社社主。位階勲等は従二位勲一等。富山県高岡市名誉市民。京成電鉄OB。
正力松太郎の名言・格言
多くの人は人の成功を嫉み、反感を持ち、誤解する。嫉みや反感や誤解されるのが嫌だったら、何もしないで役に立たぬ人間になるだけだ。
いまだからやるのだ。
最も重要なことは、自分一人で決めることだ。
僕はよく「愚痴をこぼすな、くよくよ後悔するな」と言っている。第一に時間の空費だし、体も弱る。それに周囲を暗くするから、これほど馬鹿なことはないと思っている。
幼少期のトーマス・エジソン
1847年2月11日アメリカのオハイオ州に生まれる。生まれる
少年時代のトーマスは、異常なほどの知りたがり屋であった。小学校に入学するも、教師と馬が合わずわずか3ヶ月で中退した。当時の逸話としては、算数の授業中には「1+1=2」と教えられても鵜呑みにすることができず、「1個の粘土と1個の粘土を合わせたら、大きな1個の粘土なのになぜ2個なの?」と質問したり事あるごとに「Why? (なぜ?)」を連発して、先生を困らせていたという。
ガチョウの卵を自分で孵化させようとして、卵を抱き抱えてガチョウ小屋の中に何時間も座り込んだり、「なぜ物は燃えるのか」を知りたいと思い立ち、藁を燃やしていたところ、自宅の納屋を全焼させるなどの事件を起こしたこともあった。
最終的には担任の先生から「君の頭は腐っている」と吐き捨てられ、校長からも「他の生徒たちの迷惑になる」と言われ入学からわずか3ヶ月で退学。
学校と対立する息子を認め、育てたのは母親。
エジソンの個性を理解し、自ら家で勉強を教えたという
幼少期の正力松太郎
1885年4月11日 富山県射水市に土建請負業を営む父・正力庄次郎、母・きよの次男として生まれる。松太郎が生まれたとき、父・庄次郎は立山連峰の雪解け水で氾濫した庄川の修復工事に忙しく、松太郎に対面したのはお七夜の晩だった。
元々一介の庶民の出だった正力家が富山県射水市屈指の名家として名を成したのは、松太郎の祖父の庄助がこの地に度々災厄をもたらした庄川の氾濫を防いだ功による。
10歳のトーマス・エジソン
地下実験室をもうけ、実験をはじめる。
後に、人間が空を飛べるようになる薬を作ろうと試み、ヘリウムガスをヒントにして薬を自作し、友人に飲ませた。エジソンの目論見としては、その薬を飲むと体内でガスが発生し、その浮力で人間が浮き上がるはずだったが、実際には薬を飲んだ友人が腹痛を起こしてもがき苦しみ、大騒ぎになった。普段はエジソンの行為に理解を示していた母親も、この件に関しては激怒し、人体実験を行う事を厳しく戒めたという。
12歳の正力松太郎
雄神小学校から高岡中学(現富山県立高岡高等学校)に進んだ正力は、「勉強よりは体を鍛えろ」という父親の教えに従って、寄宿舎には入らず、八キロの道のりを地下足袋姿で通った
15歳のトーマス・エジソン
15歳の時に、働いていた鉄道の駅で、まだ幼い駅長の息子が汽車にひかれそうになったのを助けた事があった。エジソンはそのお礼として、駅長から電信の技術を教えてもらい、後に彼が技術者としての人生を歩み始めるきっかけを与えてもらったという。
22歳の正力松太郎
東京帝国大学法科大学独法科入学
17歳のトーマス・エジソン
カナダの駅で夜間電信係として働いていたが、「何事もなければ、一晩中1時間おきに勤務に就いていることを示す信号を送るだけ」という退屈な仕事に飽きてしまい、時計を使って電信機が自動で電信を送る機械を発明した。電信を機械に任せて自分は寝ていたところ、それまでと違って全く誤差なく正確に1時間おきに電信が届くようになった事を不思議に思い様子を見に来た上司に「お前が寝ていたら定時に連絡する意味がないだろう」と怒られた。これがエジソンの最初の発明
26歳の正力松太郎
東京帝国大学卒業。内閣統計局に入る(同郷の南弘の推薦による)
21歳のトーマス・エジソン
初めて特許を取得。それは電気投票記録機に関するもので、議会における賛成票と反対票の数を押しボタンで瞬時に集計し、投票にかかる時間を大幅に短縮できる画期的な発明となる筈だった。だが、実際には「少数派の議員による牛歩戦術ができなくなる」という理由で全く採用されなかった。エジソンはこの苦い経験を通して、いくら立派な発明でも人々が喜んでくれなければ何の意味もない事を痛感し、その後は周囲の人々の意見や要望をよく聞いてから発明に取り組むようになったという。
28歳の正力松太郎
警視庁入庁、警務部警務課勤務。
22歳のトーマス・エジソン
特許を取得した株式相場表示機は業界から大いに歓迎され、その特許権を譲ってもらいたいという申し出があった。最初、エジソン自身は5000ドルほどで特許権を売るつもりであったが、実際には4万ドル(現在の日本円だと約2億円相当)で買い取られた
32歳の正力松太郎
早稲田大学の学園騒動を鎮圧。翌年の米騒動鎮圧の功により従六位に叙せられる。
24歳のトーマス・エジソン
自社の子会社の従業員であった16歳のメアリー・スティルウェルと最初の結婚をした
38歳の正力松太郎
1923年(大正12年)6月の日本共産党に対する大規模な一斉取締り(第1次)や、特別高等警察などにも関わり、同年9月に発生した関東大震災の際、社会主義者の扇動による暴動に備えるための警戒・取締りを指揮した。
30歳のトーマス・エジソン
1877年に蓄音機の実用化(商品化)で名声を獲得。ニュージャージー州にメンロパーク研究室を設立し、集まった人材を発明集団として機能させるべく、マネジメント面で辣腕を振るった。
39歳の正力松太郎
虎ノ門事件を防げなかった責任を問われ懲戒免官。直後、摂政宮(のちの昭和天皇)婚礼により恩赦。
財界人の斡旋と、帝都復興院総裁だった後藤新平の資金援助により、経営不振であった読売新聞社(現・読売新聞東京本社)の経営権を買収し、社長に就任した。正力は、自社主催のイベントや、ラジオ面、地域版の創設や、日曜日の夕刊発行などにより部数を伸ばした。
32歳のトーマス・エジソン
電球の発明
49歳の正力松太郎
ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらが参加した大リーグ選抜チームを招聘した。アマチュア野球しか存在しなかった日本側でも全日本チームが結成された。後に同チームを基礎として大日本東京野球倶楽部(現讀賣巨人軍)が創設され
33歳のトーマス・エジソン
発電機の発明
50歳の正力松太郎
右翼団体「武神会」長崎勝助のテロに遭い瀕死の重傷。
37歳のトーマス・エジソン
多忙だったエジソンがあまり家に寄り付かなかったこともあってメアリーは引きこもりがちになり、次第に体調を崩していって1884年に29歳でこの世を去った
55歳の正力松太郎
大政翼賛会総務に就任。
39歳のトーマス・エジソン
富裕な発明家・実業家であったルイス・ミラーの娘である20歳のミナ・ミラーと再婚
58歳の正力松太郎
内閣情報局参与に就任。