高杉晋作の名言・格言

高杉晋作(1839年9月27日ー1867年5月17日)は、江戸時代後期の長州藩士。
幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。

高杉晋作の名言・格言

おもしろきこともなき世をおもしろく

「朝に人としての道を悟ることができれば、
その晩に死んでも悔いはない」
という事こそが人の道である。
人としての努力をすることもなく、
ただ死に向かうのは人の道ではない。

苦しいという言葉だけは
どんなことがあっても
言わないでおこうじゃないか。

真の楽しみは
苦しみの中にこそある。

過ちを改めれば、
それは過ちではないのだ。

今さらに なにをかいわむ 遅桜
故郷の風に 散るぞうれしき
先生を 慕うてようやく 野山獄

参考;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%89%E6%99%8B%E4%BD%9C

20歳の高杉晋作

師の松陰が安政の大獄で捕らえられると伝馬町獄を見舞って、獄中の師を世話をする。

投獄中の松陰から高杉に送られた死生観に対する手紙の内容。
「死んで自分が不滅の存在になる見込みがあるのなら、いつでも死ぬ道を選ぶべきです。また、生きて、自分が国家の大業をやり遂げることができるという見込みがあるのなら、いつでも生きる道を選ぶべきです。生きるとか死ぬとか…、それは『かたち』にすぎないのであって、そのようなことにこだわるべきではありません。」

藩より命じられて萩に戻る途中で、松陰は10月に処刑される。

長州藩の要職・周布政之助に宛てた手紙で「松陰先生の仇は必ず取ります」と激しい怒りを書き記している。

23歳の高杉晋作

藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。

「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていた。折りしも、外国公使を刺殺しようと同志と相談した。しかし玄瑞が土佐藩の武市半平太に話したことから、これが前土佐藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。

12月12日には、幕府の異勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。これらの過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩では晋作を江戸から召還する。その後、吉田松陰の生誕地である松本村に草庵を結び、東行(とうぎょう)と名乗って、十年の隠遁に入ると称した。

25歳の高杉晋作

京都では薩摩藩と会津藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が追放される。1月、晋作は脱藩して京都へ潜伏する。
桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、
脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。7月、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、久坂玄瑞は自害した。

8月、4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきた。晋作はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、取り下げさせることに成功した(古事記を暗誦して有耶無耶にしたと言われる)。

これは清国の見聞を経た晋作が「領土の期限付租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している。

10月、下関で大敗した長州藩では保守派が台頭する。晋作は福岡に逃れる。

26歳の高杉晋作

3月、長州藩内の保守派を武力で排斥し、藩の実権を握る。

海外渡航を試みて長崎でイギリス商人グラバーと接触するが、グラバーに説得され洋行を断念。

下関開港を推し進めたことにより、攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛妾・おうのとともに四国へ逃れる。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。

10月坂本・桂らと回天の策を謀る。

27歳の高杉晋作

3月、グラバーの蒸気船に便乗、薩英会盟に加わるため長崎へ。
グラバーの説得で上海外遊(更にイギリス密航)を断念。

5月、伊藤俊輔と共に薩摩行きを命じられ、その途次長崎で蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を独断で購入。

第二次長州征伐では海軍総督として「丙寅丸」に乗船し戦闘指揮を執った。周防大島沖で幕府艦隊を夜襲してこれを退け、周防大島を奪還している。小倉方面では艦砲射撃の援護のもと奇兵隊・報国隊を門司・田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走させている。その後小倉城近くまで進撃したものの肥後藩細川家の軍勢に撃退され戦況は停滞した。

しかし7月20日将軍徳川家茂が死去すると7月30日には各藩が撤兵幕府軍の敗北が決定的となった。幕府の権威は大きく失墜し翌年11月の大政奉還へとつながることとなった。

27歳の高杉晋作

肺結核を桜山で療養するが慶応3年4月14日(1867年5月17日)に死去(享年27)。臨終には父・母・妻と息子がかけつけ、野村望東尼・山県狂介・田中顕助が立ち会ったとされる(だたし田中自身は当日は京にいたと日記に記している)。