水木しげるの名言・格言

水木 しげる(1922年3月8日 – 2015年11月30日)は、日本の漫画家。文化功労者、傷痍軍人。本名は武良 茂(むら しげる)。

大阪府大阪市住吉区出生、鳥取県境港市入船町出身、東京都調布市在住。ペンネームは、紙芝居作家時代に兵庫県神戸市で経営していたアパート「水木荘」から名付けた。
1958年に漫画家としてデビュー。代表作の『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』などを発表し、妖怪漫画の第一人者となる。
従軍し、片腕を失った経験から反戦活動も行なう。

水木しげるの名言・格言

戦争で片腕を失っても
絶望なんてしなかった。
だって生きてるんだから。

運なんてものはない。
あるのは突撃力だけ。

弱い人は逃げ出すけれど、
人間はこうなると思えばなる。

突撃力さえあれば、
何でも成し遂げられる。

しないではいられないことを、
し続けなさい。

他人との比較ではない、
あくまで自分の楽しさを追及すべし。

苦しむことから
逃げちゃイカン。

人生はずっと
苦しいんです。

苦しさを知っておくと、
苦しみ慣れする。
これは強いですよ。

幸福の七ヶ条
第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
第二条 しないではいられないことをし続けなさい。
第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。
第四条 好きの力を信じる。
第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
第六条 怠け者になりなさい。
第七条 目に見えない世界を信じる。

出典
http://systemincome.com/tag/%E6%B0%B4%E6%9C%A8%E3%81%97%E3%81%92%E3%82%8B
http://earth-words.org/archives/7429
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%9C%A8%E3%81%97%E3%81%92%E3%82%8B

21歳の水木しげる

召集令状が届き、ラバウルへ出征。
軍内での鉄拳制裁は日常茶飯事で、特に上官から目を付けられていた水木には「ビンタの王様」というあだ名がついた。
基本的に軍隊生活と馴染めなかった水木だったが、所属していた第2中隊の児玉清三中尉からは、その腕を買われ似顔絵を描く事をよく頼まれていた。
他に下士官の宮一郎軍曹や軍医の砂原勝巳大尉など、親切に接してくれる人物もいた。

出生前の手記には
「毎日五萬も十萬も戦死する時代だ。芸術が何んだ哲学が何んだ。­今は考へる事すらゆるされない時代だ」「吾は­死に面するとも理想を持ちつづけん。吾は如何なる事態となるとも吾であらん事を欲する­」「私の心の底には、絵が救ってくれるかもしれないと言ふ心が常にある。私には­本当の絶望と言ふものはない」
などと書かれていた。

22歳の水木しげる

所属する支隊の成瀬懿民少佐は玉砕の命令を出すが、児玉中隊長の機転で遊撃戦(ゲリラ戦)に転じ、そのおかげで生命を拾うこととなる。

敵の飛行機から機銃掃射された。さらに逃げていた所を原住民ゲリラに発見され、あわてて海に飛び込んで逃げた[、水木は銃剣とふんどし一丁でジャングルを数日間逃げ惑い、落ち武者狩りをやりすごしつつ、奇跡的に生還。
兵器を捨てて逃げた事を上官にとがめられた。「なぜ死なずに逃げたのか」と「死に場所は見つけてやるぞ」と言い捨てられた。これ以降、戦場ですら朗らかだった水木も流石に塞ぎこんで虚無主義的な考え方をするようになった。

陰惨な日々は続き、帰還してまもなく行軍中に風邪を引いた際にマラリアを発症、高熱で錯乱状態に陥ってジャングルを彷徨い歩き、危うく行方不明になりそうにもなったことも。

追い討ちをかけるように療養中に敵機の爆撃で左腕に重傷を負い、軍医によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けるなど、再び半死半生の状態に追い込まれた。

ニューギニアの病院で療養し、現地人のトライ族(水木いわく「土人」)たちと仲良くなる。
他の兵隊の様に威張らない水木を気に入ったトライ族から歓待を受け、水木の側も配給のタバコをお礼に渡すなどしている内に意気投合し、やがて集落の仲間として受け入れられた。軍規違反を承知で理由を付けてトライ族の集落に通い、トライ族の側も水木が再びマラリアで倒れると食料を持って見舞いに来てくれた。

23歳の水木しげる

8月25日、部隊長から「ポツダム宣言受諾」についての訓示を受ける。

軍内では落胆の声が広がったが水木は「生き延びた!」と思い、戦場で死ななかった事に感無量だったという。

カゼル岬にあった連合軍の捕虜収容所に収監されて本国送還の順番を待つ間、トライ族から農地を分けるから一緒に暮らさないかと誘われ、現地除隊して永住することを真剣に考えたこともあった。

砂原から「家族に会ってから決めても遅くないぞ」と助言され、帰国を決意した。

29歳の水木しげる

大家業の傍ら、副業として下宿人の紹介で紙芝居制作を始める。
水木と同じ変わり者ばかりが入居してきたため、家賃収入は捗捗しくなかった。大家業が中々軌道に乗らず副業を探していた所、紙芝居作家の弟子をしているという青年がアパートに入居した。

一度は諦めた絵に対する熱意もあって、その青年から紹介してもらった紙芝居の貸元に手製の紙芝居を持ち込んで回った。評価は今ひとつだったが、林画劇社という貸元で演じ手の纏め役をしていた活弁士の鈴木勝丸が水木の作品を気に入り、同社の紙芝居作家として採用された。夢にまで見た絵に係る仕事に付いたが紙芝居業は非常に薄給で、ましてや実績のない無名の新人作家にはまともな代金は支払われなかった。

38歳の水木しげる

連載をもっていた『少年戦記』の売れ行きが上々ゆえに兎月書房から水木が新たに責任編集したSF専門誌『宇宙少年』と怪奇専門誌『妖奇伝』が新創刊された。鬼太郎の誕生編を描いた第一話『幽霊一家』第二話『幽霊一家・墓場鬼太郎』を発表。

39歳の水木しげる

40歳になる独身の水木を心配した両親が縁談の話を持ちかけ、布枝夫人とお見合いで結婚。
結婚する最初で最後の機会と考えた水木は「普通の会社員の二倍稼いでいる」と仲人口で見栄を張って洗練された都会人を装ったが、気が緩んだ拍子に方言を連発してしまったという。見合いから結婚式までわずか5日というスピード婚。

44歳の水木しげる

少年漫画路線が当たり、44歳にしてようやく人気を集め始める。『悪魔くん』が実写でテレビドラマ化。最初の放送は、実家の両親も上京して一緒に正座してテレビを鑑賞し、感激して番組終了後は拍手をしたという。またこの頃からプロダクション制をとり、調布の自宅を水木プロとする。

46歳の水木しげる

『墓場の鬼太郎』を当時の東映テレビ部長であった渡邊亮徳(元東映副社長)等のアドバイスにより『ゲゲゲの鬼太郎』と改名することで、スポンサーが了解してテレビアニメ放送開始。この時も、初回放送は一家で正座して鑑賞し、終了後拍手をしたという。以降、何度もリメイクを繰り返す長寿シリーズとなる。

73歳の水木しげる

世界妖怪協会を設立して会長となる。会員は、荒俣宏、京極夏彦、多田克己ら。翌年には境港市において、世界妖怪協会主催の「世界妖怪会議」が開催される。以降、毎年夏に行われるようになる。

「第6回東京平和の日平和展」の催しとして、「平和への祈り-水木しげる戦争体験絵画展」を開催。

86歳の水木しげる

アニメ版鬼太郎生誕40周年。それを記念して『墓場鬼太郎』が初のアニメ化。
「水木しげるの妖怪道五十三次 妖怪と遊ぼう」展がアメリカ・ワシントンDCにて開催。
実写映画版2作目となる『ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌』(松竹)が公開