徳川家康の名言・格言

徳川家康

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。
江戸幕府の初代征夷大将軍。

徳川家康の名言・格言

人の一生は、
重荷を負うて遠き道をゆくがごとし。
急ぐべからず。

堪忍は無事長久の基、
怒りは敵と思え。

戦いでは強い者が勝つ。
辛抱の強い者が。

多勢は勢ひをたのみ、
少数は一つの心に働く。

人は負けることを知りて、
人より勝れり。

愚かなことを言う者があっても、最後まで聴いてやらねばならない。
でなければ、聴くに値することを言う者までもが、発言をしなくなる。

出展;http://iyashitour.com/archives/20274

6歳の徳川家康

竹千代は今川氏の人質として駿府へ送られることとなった。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田氏へ送られた。しかし父・広忠は今川氏への従属を貫いたため、そのまま人質として尾張国に留め置かれた。この時に織田信長と知り合ったと言われるが、どの程度の仲だったのかは不明。

16歳の徳川家康

今川氏から織田氏に通じた加茂郡主・鈴木重辰を攻めた、これが初陣であり、城下を焼いて引き揚げ、転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・伊保を攻めた。この戦功により、今川義元から旧領のうち山中三百貫文の地を返付し、腰刀を贈った。

18歳の徳川家康

桶狭間の戦いで先鋒を任され、大高城の鵜殿長照が城中の兵糧が足りないことを義元に訴えたため、義元から兵糧の補給を命じられた。
義元が織田信長に討たれた際、、撤退。松平家の菩提寺である大樹寺に入り、自害しようとしたが住職の登誉天室に諭されて考えを改める。

20歳の徳川家康

義元の後を継いだ今川氏真と断交して織田信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。一方、将軍足利義輝や北条氏康は松平・今川両氏の和睦を図るが実現しなかった。
翌年には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた

30歳の徳川家康

武田信玄の上洛戦途上、三方ヶ原の戦で大敗。
翌年、武田軍によって三河設楽郡の野田城を2月には落とされたがその後、武田軍は信玄の発病によって長篠城まで退き、信玄の死去により撤兵した。

このときの家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画(しかみ像)が残っており、これは自身の戒めのために描かせ常に傍らに置き続けたと伝えられる

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/73/Mikatagaharasenekizou.jpg/447px-Mikatagaharasenekizou.jpg

出典;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Mikatagaharasenekizou.jpg

37歳の徳川家康

信長から正室・築山殿と嫡男・松平信康に対して武田氏への内通疑惑がかけられたとされる。家康は酒井忠次を使者として信長と談判させたが、信長からの詰問を忠次は概ね認めたために信康の切腹が通達され、家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという。(この通説には疑問点も多く、家康・信康父子の対立が原因とする説もある)

40歳の徳川家康

織田信長に従い武田勝頼攻め(天目山の戦)に参陣。
駿河国へ侵攻し蘆田信蕃の田中城を落とし、武田家家臣、穴山梅雪の誘降に成功し、武田氏滅亡後は、武田家の旧領駿河国を加増される。
駿府において信長を接待しているが、家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営した。
信長はこの接待をことのほか喜び、その返礼となったのが、本能寺の変直前の家康外遊となる。

堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態(結果的に穴山信君は横死している。)となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え)。

この後、天正壬午の乱で北条氏直と争ったあと和睦。
これにより武田氏旧領の甲斐国、信濃国に進出し、その大部分を所領に。

44歳の徳川家康

1586年、秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み、臣従要求を拒み続ける家康に対して秀吉は実妹・朝日姫(南明院)を正室として差し出し、5月14日に家康はこれを室として迎え、秀吉と家康は義兄弟となる。
秀吉実母の大政所も家康は岡崎城に受け入れた。

家康は同年10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いにきて、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。