三浦知良の名言・格言

三浦知良(みうら かずよし、1967年2月26日 – )は、静岡県静岡市葵区出身のプロサッカー選手。
通称「キング・カズ」
選手であることにこだわり、日本サッカー界を大きく牽引してきた。

三浦知良の名言・格言

“市選抜にも、県選抜にも. 東海選抜にも. 選ばれなかった人間が
後で世界選抜に選ばれたわけです”

“相手はいるんだけど、敵は自分自身なんだよね。”

“弱気になる事もあるけど、サッカーが好きだし、グランドに立つのが好きだし。選手以上のポジション(仕事)が考えられない。”

15歳の三浦知良

中学時代の進路指導の紙の志望高校を書く欄に「第一希望 ブラジル」と書いたというカズは、静岡学園に進学。
しかし1982年12月、私立静岡学園高校を1学年修了を待たずして8カ月で中退、ブラジルに単身渡航、CAジュベントスへ留学。

中退してブラジルに行くと言った時に、当時の高校の監督から「100%とは言わないが、99%無理だ」と言われた時「1% あるんですね? じゃあその1% を信じます。」と言ったという。

その後ブラジル中を渡り歩くことになる。当時のカズは身長が低く、テクニックは持っていたものの他に一流と呼べるようなものはなく、指導者達はカズの「ブラジルでプロになる」という夢を無理だと思っていたという。1984年の秋頃、ジュベントスからキンゼ・デ・ジャウーへ移籍。

18歳の三浦知良

夢を諦めて日本に帰りたいと思った時期、ふと寄ったリオの公園で現地の貧しい少年達がサッカーをしているのを見た。その中には裸足の子や片足がない子もおりボールは古く汚いものだったが、皆楽しそうにボールを追っていた。カズは「自分には両足も、スパイクも、いいボールもある。何を俺は贅沢なことを言っているんだ」と思い、帰国を思いとどまった。
SBSユースに出場したキンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋し、当時静岡高校選抜のDF中山雅史、FW武田修宏らと試合を行った。

19歳の三浦知良

サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ(U-21)に、日本人として初出場、この大会やキンゼ・デ・ジャウーの育成組織で活躍。

サンパウロ州のサントスFCとプロ契約。5月にはSEパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップで凱旋帰国。
しかしサントスFCで出場できたのは1部リーグ2試合だけに留まり、1986年10月にはパラナ州のSEマツバラへレンタル移籍、1987年2月にはマツバラと正式契約を結び、レギュラーとして南部三州リーグ優勝に貢献。
同年10月、アラゴアス州のクルベ・ジ・レガタス・ブラジル(CRB)に移籍し、ここでもレギュラーとして活躍、日本人で初めてブラジル全国選手権に出場。

21歳の三浦知良

サンパウロ州のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍。コリンチャンス戦で日本人としてリーグ戦初得点を記録し、格上の人気チーム相手に3-2で勝利するというジャイアント・キリングを起こした。
このときの試合はブラジル全土にテレビ中継されていたために、カズという日本人の名前が広く知れ渡った。
ブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の年間ポジション別ランキングで左ウィングの第3位に選ばれた。

23歳の三浦知良

サントスFCへ4年振りに再移籍した。もう一度サントスでプレーして自分の力を証明したいと思っていたため、誘いを掛けてきた他のチームの話もあったがそれを断っての移籍という。

ブラジルで活躍すれば、いずれは日本へ戻ると公言していたカズは、1990年7月、Jリーグ発足が現実味を増す中、日本のW杯出場に貢献するためにブラジルに残ることよりも日本でプレーすることを決断し、日本サッカーリーグの読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎 = 現東京ヴェルディの前身)に移籍。

25歳の三浦知良

1992年のJリーグカップではヴェルディを優勝に導き大会MVP、Jリーグ開幕後はラモス瑠偉、北澤豪、武田修宏、ビスマルク、柱谷哲二、ペレイラ、菊池新吉らその他多くのチームメイトに恵まれV川崎の黄金期を築いた。1992年の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)受賞

26歳の三浦知良

FIFAワールドカップ・アメリカ大会予選では、1次予選では9ゴール、最終予選では4ゴールを挙げエースとして活躍。中でも大韓民国戦での決勝ゴールは、日本サッカーが40年もの間超えられなかった壁であった韓国を、ワールドカップ予選で初めて破ったという大きな意味をもつ。
しかし最終予選最終戦のイラク戦でロスタイムに同点にされ(「ドーハの悲劇」)、ほぼ手中にしていた本大会出場をあと一歩のところで逃した。

1993年、日本人最高の20得点を記録しV川崎を初代チャンピオンに導き、Jリーグ初代MVPを受賞。
6試合連続得点を達成。これは日本人Jリーガーとしては現在も最多記録。

日本リーグとJリーグを跨いで年間最優秀選手に輝いた。1993年のアジア年間最優秀選手賞を受賞した。

この年にタレントの設楽りさ子と結婚。

27歳の三浦知良

イタリア・セリエAのジェノアCFCに1年契約で期限付移籍。
アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。
この移籍には商業的な価値を期待していたと見る向きが強く、胸スポンサーとしてケンウッドが入っていたこともあって、入団会見では「スポンサーを得るために獲得したと言われているが、どう思うか?」などと辛辣な質問も浴びせられた。ACミランとのセリエAデビュー戦において、鼻骨骨折と眼窩系神経を損傷してしまい、一ヶ月の戦線離脱を余儀なくされた21試合出場(先発10試合)1得点に留まった。

その後、トリノFC、スポルティング・リスボンといったチームからオファーが来ていたが、シーズン終了後にはV川崎へ復帰することとなった

30歳の三浦知良

怪我もあって試合出場数は半分に満たない14試合にとどまり得点数もわずか4点しか上げることができず、チームは初の二桁順位。この年あたりから以前のようなキレが徐々に無くなり、怪我も多くなっていたが、追い討ちをかけてW杯最終予選の韓国戦でのラフプレーで尾てい骨を骨折しコンディションを大きく落としてしまう。

31歳の三浦知良

V川崎は親会社の撤退で大幅な経営縮小のため、高年俸のベテラン選手達のリストラを敢行し、カズに対しても年俸ゼロ円提示がなされる。カズはクロアチアのクラブチーム、クロアチア・ザグレブへ2年契約で移籍。

ワールドカップ本大会のためスイスでの直前合宿に臨んだ。しかし、北澤豪、市川大祐と共に、本大会出場メンバーの選考から漏れ苦渋の帰国となった。カズは帰国会見で「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」とコメントした。

33歳の三浦知良

1999年京都パープルサンガに移籍。2000年5Jリーグ通算100得点を達成。33歳ながら17得点を記録し得点ランキング3位に入るなど活躍する。しかしこのシーズン、京都は降格し、自身2回目であるゼロ円提示を受ける。

38歳の三浦知良

7月、横浜FCに移籍。

横浜FCに移籍後間もない11月、2005年に設立したばかりのオーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)としてシドニーFCに期限付き移籍した。

39歳の三浦知良

2月からは横浜FCの選手兼任の監督補佐に就任するが、登録上は選手扱いである(Jリーグの規定では選手が監督・コーチを兼任することが出来ない)。このシーズン、39試合に出場し6得点、横浜FCのJ1初昇格に貢献

44歳の三浦知良

2011年3月29日に行われた東日本大震災の日本代表のチャリティマッチにおいてJリーグ選抜に選出され、得点を挙げ、試合前の宣言通りカズダンスを披露。

このシーズンでは得点を挙げることができず、「J連続得点記録」は18年でストップ。

12月、横浜FCに所属しながらFリーグ・エスポラーダ北海道にJリーグ選手枠として登録。

サングラスだけでなくメガネの愛好家としても有名なカズは同年「第24回 日本メガネベストドレッサー賞」においてスポーツ界部門で受賞。

中村俊輔の名言・格言

中村俊輔
1978年6月24日 – 現在
日本のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。J1・横浜F・マリノス所属。元日本代表。

中村俊輔の名言・格言・語録

「足りないものがわかれば、それを埋めることを考えればいい。何もわからないより、よっぽど素晴らしい。」

「満足すると、痛い目にあう。」

「『平均的に色んなことができる』は武器になる。」

「壁が見えるときはまだいいほうだ。それを乗り越えればいいだけだから。」

「僕は悔しさを味わいたくて、日本を出た。」

「妥協してこなかったから、今の自分がある。」

「誰よりも練習する事。それが必ず自信になる。」

幼少期の中村俊輔

1978年6月24日、神奈川県横浜市瀬谷区にて男4兄弟の末っ子として生まれる。3歳からサッカーボールを蹴りはじめ、4歳のときに横浜市戸塚区に引っ越す。1985年に深園FCに入団、本格的にサッカー人生を歩みだす。

15歳の中村俊輔

1991年4月、横浜市立深谷中学校に入学。50倍のセレクションに合格し、日産(横浜マリノス)のジュニアユースに所属。2度の全国制覇を経験するも、3年生時は10番を背負いながら控え選手だった。そして体格を理由にユースへの昇格を逃し、挫折を味わう。その後、1994年に神奈川県のサッカー強豪校、桐光学園へ進学し、サッカー部に入部。

ユース時代を語る俊介

 

22歳の中村俊輔

2000年のシーズンは、22歳でJリーグ最優秀選手賞、日本年間最優秀選手賞を受賞。2015年現在、Jリーグ最優秀選手賞受賞者の中では最年少。

U-23代表に選出され、同年に開催されたシドニーオリンピックでは4試合に先発出場を果たす。

24歳の中村俊輔

2002年5月、日韓W杯本大会メンバーへの招集が有力視されていたが、当時の日本代表監督、フィリップ・トルシエ氏の選考基準に合致せず落選。2度目の大きな挫折を味わう。

同年7月、イタリア、セリエAのレッジーナに移籍。レギュラーとして活躍。7得点をあげてセリエA残留に貢献する。

27歳の中村俊輔

セリエA3年目となる2004-2005シーズンでは、ほぼスターティングメンバーとして戦い、クラブ創設以来の最高順位に貢献。2005年3月にはガゼッタ・デロ・スポルトからレジーナの歴代ベストイレブンに選出。

29歳の中村俊輔

2006年6月、ドイツW杯に選出。当時の代表監督ジーコに中心選手として重要視され、グループリーグ全3試合にフル出場するも、2敗1分で敗退。第1戦のオーストラリア戦で自身のW杯での唯一の得点を獲得。

同年9月には2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグに初出場。オールドトラフォードで開催されたグループリーグ第1戦、マンチェスター・ユナイテッド戦にて、今でも語り継がれる伝説のフリーキックによる得点をあげる。

続く対マンチェスター・ユナイテッド戦でもフリーキックを決め、決勝トーナメント進出に貢献。これはセルティックにとって現行のCLとなってから初、日本人選手としても初めての快挙を果たす。

2007年4月、セルティックのリーグ戦連覇が決まり、実質日本人で初めて欧州リーグで連覇を経験した選手となる。2006-07シーズンはリーグトップの12アシストを挙げ、スコットランドPFA年間最優秀選手賞、スコティッシュ・プレミアリーグベストイレブン、スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞を受賞、年間ベストゴール賞も獲得。

31歳の中村俊輔

2009年6月、スペイン1部リーグのRCDエスパニョールへの移籍が決定。翌2010年2月、かつての古巣、横浜F・マリノスに移籍し、日本へ帰国。

同年に南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップでは、グループリーグ第2戦の対オランダ戦で後半64分に途中出場するにとどまる。2010年7月1日に、このワールドカップを最後に日本代表を引退する意思を表明。